祝福を分かちあう心

ロ-マ 12:13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。

聖徒とは、クリスチャンのことです。学校で学ぶ生徒ではなく、神に学ぶ人たちです。ここにおける対象となるのは聖徒でも無ければ、旅人でもありません。

聖人の入用に協力し、もてなしを与える側に神様は語りかけています。

すなわち与える側の愛を実践するように語られているのです。

私たちが御ことばを実践できるできるできないは別で、従うつもりがあるかどうかなのです。聖徒の入り用、旅人をもてなす。なにも命を与えよとは言ってはいません。協力ともてなしは比較的できる愛だと言えます。

◆無償の愛の実践

聖徒は同じ信仰者ですから身近な人と言えます。旅人(巡礼者)は常に身近な存在だったのです。

身近な存在に出来ることをしてあげる愛。しかもキリストの愛で見返りを求めない愛。私たちはすぐに見返りを求めてしまいます。してあげたのにわたしが困ってても無視してるしありがとうもない。ありがとうは礼儀ですがこれは受けた側が求められることで与えた側が求めることではありません。あげたのに何の返しもしてもらったことが無い、見返りを求めそれが無ければ裁いてしまう自己の愛。

私たちはこのような身近な小さな愛にも利己的なのです。小さな愛ではなく狭い愛と呼べるかもしれません。

小さな愛も持たない私たちが御ことばに従い無償の愛を実践したいと求める心があるならあなたも聖徒です。そして聖書の言葉は人生を導く指針となります。方位磁石が常に北を指すようにどこにいても天の御国への道を指し示してくれます。

◆与えられ分かち与える神の愛

12:1霊的礼拝について語りました。神のチュー二ングを合わせ日々神の御声を求める者に生ける言葉は聞こえるのです。

12:13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。もう一度言います。これはクリスチャンが目指す見返りを求めない愛の実践、しかも大きな愛ではなくいつでもできる無償の愛なのです。

例えば、今私たちは天国の門の前にいると過程します。あと50cm 無償の愛を行うなら天国に入れます。しかし、私たちは見返りを求める愛になってしまう。ではどうしたらいいのでしょうか?

……………………無償の愛・あなたは持ち合わせていますか?

無ければどうしたらいいでしょうか?

ルターは言いました。主の祈りの「日毎の糧を今日も与え給え」とは食物の糧だけではなく私をキリスト者として生かしめる霊的糧なのです。求めなければ生きられないと知るキリスト者は今日も主に日毎の糧を求めるのです。と言いました。

キリストが豊かに持つ無償の愛の賜物を分けていただき12:13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。分かち与える愛を与えよと宣う主の声に従う者でありたいと願います。

信じる力

ロ-マ 12:12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。

◆望みを抱いて喜び

私たちは神にあってどのような信仰の望みを抱いているでしょうか?しかし、私たちが思っている望みは漠然としているかもしれません。

神様がくださる恵みの賜物は人間が約束しているのではなく全能の神様が約束してくださっているものです。ゆえに望みが確信のレベルになり望みを抱いて喜ぶことができるのです。

望みは、約束に対して抱くものですから約束を知らなければ望むことも少ないと言えます。私たちが抱く望みは天国をまず挙げますが神様は多くの約束を与えてくださっているのに知らないことは残念なことです。例えば、飢えた人が大金持ちが欲しいものを与えると言っているのに水だけ欲しいと言うようなものです。

信仰の望みによる確信からくる喜びを与えたいと願われる神様に感謝しましょう。

◆望みを喜びにする祈り

望みを抱いて喜び、と言われた言葉を読むと喜べないこともあるのかと考えたくなります。実は言うと信仰の歩みには喜べないこともあります。喜べることばかりじゃありません。パウロは信じたら悩みも苦しみもなくなるような幻想は語りません。なぜならイエス様を信じて誰よりも苦しんできたのはパウロだったからです。

だからこそ信仰の歩みに苦しみがあっても望みを抱いて喜ぶことことができるのは望みに対する約束への確信が神様にある喜びに立たせてくれることを分かち合おうとしています。

この望みはイエス・キリストにある望みです。この望みが喜びとなるには、イエス様にあるものに与えられるわけですからイエス様に繋がる祈りが必要です。聖書の約束から与えられる望みが知識から信仰に変わるためには祈りが必要です。なぜなら祈りは祈る者がイエス様から受け取る確信の信仰を与えてくれるからです。

◆望みと祈りを繋ぐ患難

望みを抱いて喜ぶために祈りが必要です。そして、望みが確信となり喜びとなるために祈りが必要ですが。これが、絶えず祈るとなるにはもう一つ必要です。それは料理の隠し味のようなものです。ピリッと辛いスパイスのようなものが必要です。それは艱難、試練です。神様は私たちが祈らないことをよくご存じです。絶えず祈り、信仰からくる望みの確信がリアルなものとなるために艱難があり絶えられないと感じる時、神様に依り頼まなければ生きられないと悟るときより頼むものと変えられるのです。しかしここで私たちの信仰があきらめの信仰ならば望みを抱いて喜ぶ信仰からはほど遠いものです。

私たちが望みを抱いて喜ぶ者となるために、祈り神に寄り頼む者としてくださる神様の大きな愛に信頼しましょう。

御霊によって生きる

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。

                                ガラテヤ5:22~25

私たちにとり生きる力はどこからくるのでしょうか。

食べ物、仕事、人間関係、健康などでしょうか。たしかに人が生きる上でこれらのものは必要不可欠です。しかし、これが私の生きる力であると言えるものがあるでしょうか。人が生きる上で力を得るのは肉体の力でもなく、食べ物でもなく、人間関係でも無く、健康でもないように思います。生きる力の根源の力は心に得られるものであり、心から出るものによるのではないでしょうか。心に生きる力が無ければ生きるために必要なものも役立たないのではないでしょうか。

◆生きる力を与える御霊

生きる力は御霊により与えられます。

御霊の実はどこに結ぶものでしょうか。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の9つの実はみなこころに結ぶものです。これらの物が植物の実に例えられたように、実は養分を貰い時を経て成長するもと言えます。心に結ぶ実が豊かである時、人間関係に表れる愛が豊かである時、良い関係が生まれます。喜びは心が見出すもと言えます。神様は御霊を人に与えられます。御霊は聖霊なる神、人と交わる人格神として私たちにお住まいになられます。いわばもう一人の人格を持つ人が私たちの中に住むことです。聖書によると悪霊が人に住むと人格破壊を持たらしますが、聖霊は私たちを神にある豊かな者へと導いてくださる方です。人を豊かにしてくれる力の供給源は御霊なる御聖霊です。御霊はこころにお住まいになり、イエス様への信仰を与えるために福音の御言葉に光を与え、悟りを与え、従う信仰を与えキリストに強いつながりを与え給うお方なのです。

◆御霊を消してはなりません

エペソ4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

悲しませることは神様の御こころと違う考えと行いをしていることです。

御霊はこころに住まう方であると共にその住まいから存在を消される方であるとも言えます。コロナ禍の中で送った昨年、何が起こるか予測できないのが世の中でありました。導き給う神様の御声に信仰を持って進めるようでありましょう。御霊の存在を意識し、心に語り導き、光を与えて教え悟らしめキリストに深く根ざすキリスト者とし給う聖霊を学ぶこの一年でありましょう。

霊に燃え主に仕えなさい

今日の聖書の言葉でパウロは3つのクリスチャンとしての生き方を薦めています。

①善に親しむ

愛に偽りがない。も数えたらもっとあるのではありませんか?と思われるかもしれませんがこれは善なる生き方に含まれますので1つと数えます。

しかし私たちは善に親しめない罪あるものだとパウロは言いました。

7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。7:19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。善に親しめない理由は罪の力だと。しかし、御霊は私たちを罪の力から解放し神の言葉に従える者としてくださいました。8:2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。8:3 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。8:4 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。

私たちの性質をキリストにより変えてくださる御霊の力が、善を愛し悪を憎む裏表の無いクリスチャンと変えてくださるのです。

②心から互いに愛し合う

信仰の交わりに必要なのは尊敬心が必要です。

兄弟愛は相手の事を思い自分を与える愛です。しかし、あなたの事を思って言ってあげてるのになぜこの愛が分からないの。と思う愛はどのような愛でしょうか。愛の押しつけ、上から目線の愛。尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。へりくだる者でなければないません。上から目線では尊敬は生まれません。   私たちは常に貧しい者であり日毎に与えられなけらば生きられない、心の貧しい霊的貧困者であり主に日毎求める者です。心へりくだり与えられなければならないのが自分であることを知るならば、兄弟愛と尊敬を持ち人と接することができます。

③勤勉で怠らず、主に仕えなさい。

霊に燃えが抜けているじゃないかと思われるかもしれませんがそうではありません。このことを話す前に勤勉であることについて話したいと思います。

勤勉なクリスチャンであるべきです。勤勉であることは、何かを思いつき情熱を持ち始めるよりも大変なことです。継続するモチベーションが求められるからです。

主に心を向けていき信仰を堅く守り、守らなければ悪魔はあなたの勤勉さの心に緩みを与えるだけで勤勉では無くなりさらに怠惰になり仕えることも捧げることもさせなくしてしまえば元の状態よりも悪くなります。そのエネルギーは主に心を向けて行くものだけが得られるものです。歩み続ける事が主に仕えることであり心を内燃させる福音により救われた私たちがどう歩むべきか今日もパウロが語ってくれています。勤勉であり続けることを助けてくださる主により心から主に仕えさせてくださいと祈りつつ歩みましょう。

キリストの体

【福音により集められた群れ】

それが教会です。そしてどういうのが教会なのか

【教会には同じ動きをするものはない】

(4節) 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、教会はキリストの体です。人体に例えられる体はみな同じ動きはしません。いわばバラバラな動きをしています。

【同じ動きをしないのが教会の姿】

教会に人数まだ少ない頃は、教会の活動も何をするのも皆で活動します。

しかし、人数が増え奉仕を分担するようになると自分の担当する奉仕以外のことは分からなくなります。しかし、これは成長し働きが拡大したといえます。

聖書はこのようになるのが体として当然の姿であると、(4節)すべての器官が同じ働きはしないと説明しています。つまり望むべき姿であると言っています。

【賜物により動く教会】

(6節)私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので

私たちはみな賜物を持つ者たちです。すなわち、自分で獲た物以外のものを持つ者はみなギフトにより生きています。

自分の体を鏡で見てください。どれか自分で創ったものはありますか。みな創り主が造り私たちにくださったもの、ギフトです。

人と違う何かの才能、技能を賜物と呼ぶのは的を得ていません。それらのものは生まれつき得ている人はいませんし努力し習い身につけたものです。後からの賜物と呼ぶ人もいますが無いなら求めて得られるものとも言えます。

【大切なことはキリストにあること】

大切なことは、(5節)キリストにある、と言うことです。教会の人数が増えお互いのことが分からず、活動で何をしているのか分からなくても一致がないのではありません。どれほど大きな教会も、素晴らしい説教も、建物も、奉仕も、キリストに繋がろうとしないものは教会としての意味を持ちません。(礼拝、聖研、家庭集会、役員会であってもそうです)これらのものが他の集まりと違うものでなければなりません。

それはキリストにあって、と言う集まりでなければなりません。

一人一人がキリストにつながっていることです。ただ胆に教会に来ているとか奉仕しているとか、問題ではありません。教会は共同体であることを重視しますが神様に繋がるのは個人的なことです。教会が救われるのではなく個人が救われるからです。家長が救われたから家族が救われるわけではないからです。

だからこそ一人一人がキリストに繋がる、キリストのある、キリストとともにある、キリストの内にある希望、キリストの恵みのうちにある者として歩みましょう。

信仰の量りに応じて


◆キリスト者としての歩み

ローマ1章から12章までは福音による救いについて12章から福音により救われた人がどう歩むかについて話し始めています。

(2節) この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

神様に焦点を合わせた歩みに自分を変えていく事を薦めています。

◆霊的な礼拝

キリスト者として生きるために「自分を変えなさい」と語っています。

なにが変わらなければならないのか?この世と調子を合わせる生き方が波風立たないし無難な生き方ですがそんな生き方が福音を信じた私たちの信仰の道として、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、ることなのか問われ神の教えに適う自分に変わらなければなければなりません。

私たちがこの世と合わせるのではなく、神の御心に合わせる生き方に、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。と語られる生き方こそ神を日々仰ぎ見る礼拝でありなさいとパウロは薦めます。

◆慎み深い考え方を

12:3節では「思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。」と注意を促しています。

私たちの心は何を思おうが自由ですが、思うことが必ずしも益となるわけではありません。心は神の前に罪を犯すからです。すなわち心で信じて義と認められるのも心なら、心で不満と不平、自己正当化で神に思い上がるならば命の道から踏み外してしまうからです。

例えば、どうしたらいいんですか?と問う時、答を求めてそう問うのか、それとも疑いを挟んで問うだけの疑念を挟んだだけの問いとの違いは何か?

心に思うことは信仰にもなり不信仰にもなる。だからこそ慎み深い考え方をしなさいと語ります。

◆信仰の量り

信仰の量りとは自分が今、信仰の確信として持てる自分の心の器の量です。

私は神様の恵みにより頼んでいますが、今確信を持ち進めるのはここまでです。

後は、神様に祈り、答を待ち進むか立ち止まり待つか、次の導きを祈るか?

神様に自分思いを押しつけるような思い上がるような自分であるなら、神と向き合う日々の霊的礼拝の中で自分が聖霊により新しく変えられていくものとなるお互いでありましょう。

キリストの心があるのです

◆神の御こころを知る御霊

(11節) いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。

自分の心は自分のみが知る所です。他人にその思いを共有することを強いることはできません。できることがあるとするならば、ただ思いやるのみです。

神の思いを誰が知ることができたでしょうか。天地を創り人を創造された神が背かれ続け、それでも見捨てない神様のこころを誰が知りその計画を共有したでしょうか。 聖書は言います。神の御こころは御霊が知っていると。

(12節)ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。神の御こころを唯一知る御霊が私たちに与えられているとパウロは語ります。

ならば神様の御こころを全て知り得るのかとそうではありません。御こころを知る御霊が教えてくれることのみです。

私たちが知り得るのは神様の恵みの賜物、すなわち信仰に関する賜物だけです。

例えば私たちは病院に行き自身の病気と治療、手術ならば懇切丁寧に手術のやり方まで聞きたいでしょうか?私たちが聞きたいのは可能性があり治るかどうかだけです。全てを知るのは担当医だけでいいのであり、後は信じて委ねるのではないでしょうか。

◆キリストのこころ

(16節) いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。

御こころを知り、神にも勝る知恵と知識、新しい計画を持ち得る人はありません。

なのに人はなぜ神様はと奢り疑義を挟むのでしょうか。

おもしろいのは次の言葉です。ところが、と言うパウロです。次ぎに来る言葉が、思い高ぶらずへりくだり信じなさい。なら分かるのですが、ところが、神の御心も計画も計り知れない神の思いに比べるべきもないことは百も承知、私たちに与えられた御霊は何よりも大切な賜物を下さっているとパウロは言いたいのです。それは、キリストの心です。信仰と愛の心が御霊により与えられていると。

以前にイエス様のこころについて語りました。それは病に苦しむ人が御こころ一つで癒されますと言い言葉で癒されることを求めたにも関わらずイエス様はわたしの心だと言われ病人に触れられました。それは苦しむものに触れ愛を持たれるイエス様のこころでした。私たちには神様の御計画や御心についてどうこう言うことができる知恵や思慮があるわけではありません。イエス様は御計画と御心を成就する当事者でありましたがただ信頼して従う十字架の道を歩まれました。私たちは神様の御こころに理解が及ばず自分の思い通りに「ならなくても、最善に無し、説きに逃れの道をも供えてくださる神様に信頼し、イエス様の思いに満たされて信仰と神様への愛を下さる御霊に導かれて歩みましょう。

霊的な礼拝

ここからパウロの話しの内容が転換して行きます。これまで、福音による救いについて語ってきました。ローマ書の最後の詰めで、救われれた者がどう生きるべきかについて語っています。言わば救いの目的であり最も重要な部分とも言えます。

◆問題提起

1節の霊的礼拝とは何かを理解するために2節から考えてみましょう。

この世と調子を合わせてはいけません。「調子」とはリズムのことです。

私たちは良きにしろ悪しきにしろマイペースで生きています。自分なりのリズムがあり周りとの違いのなかで合わせることは自分のリズムを崩しストレスにもなります。  

しかし、周りから浮いた存在とならないためには合わせなければなりません。人と合わせて生きることでストレス社会に少しでもストレスの少ない生き方が出きる方法を探りながら生きています。すなわち、周りと違うリズムで生きることによる自分のリズムが不協和音となり和を乱すことを避けようとしなければならないと信じて生きてきたわけです。世と調子を合わせて生きる。クリスチャンとしての生き方にパウロは問題提起しています。

◆神に合わせる生き方

何も周りを気にせずマイペースで生きなさいとか、その逆に合わせて生きなさいと言っているのではありません。そのどちらでもないのです。

神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る

神様に合わせる生き方がある。それがクリスチャンとしての最善の生き方がある。と薦めているのです。神様とチャンネルを合わせて生きる時、神のみこころは何か何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知ることができる、迷いのない生き方をすることが出来るようになるのです。

◆霊的な礼拝

(1節)心の一新によって自分を変えなさい。

すなわち、そんな生き方はやめなさい。と言っています。チャンネルを変えなさいと。

(1節)あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。

世のリズムと合わせようとして心砕いた生き方が私たちの人生に何の益をもたらせてくれたでしょうか?合わせるチャンネルは1つなのだとパウロは言います。その生き方に身を捧げることが霊的礼拝なのだと。

私たちはその心のチャンネルを常に神様に合わせているでしょうか?

そうでないなら心のチャンネルを神様に合わせて歩む互いでありましょう。

測り難し神の御計画

◆測り難し神様への信仰

(33節)ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。

(別訳) ああ、深きかな、富と知恵と知識、極めがたき神の裁き、尋ね難きその道は。

全能の神、全知の神、愛と恵みに富む私たちの主について、人はどれほどこのことを受け入れているでしょうか?

いつも神を測ろうとする人間―私という物差しで測ろうとする人間、測れないと、何故、どうしてと、測れないことが間違っていて理不尽であるかのように思ってしまう人間。

神の深さ、大きさ、測り難いと言うことを受け入れることができるのは知識ではなく信仰しかありません。

神の救いについてパウロは語ります。改めて神の深さを知るとき、ああ、と感嘆しか出ない。ギリシャ語ではΩ。日本語では ん ですが。驚きとこれ以上語る言葉がないのが感嘆すると言うことです。

◆その次ぎも信仰

(34節) なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。

イエス様は神の御心を知りどうしたでしょうか?御計画に対して、私は父なる神とは違う意見なんだけどと言われたでしょうか。十字架なんか止めて、    

人類を救うことは止めて新しく創り直せばいいじゃないですかと言ったんですけどね。と言われたでしょうか?

イエス様は神様の御計画にただ従われました。これが信じて歩む道です。

教会はどうでしょうか?働きの計画を立て、意見を陳べます。神様は委員会を開き意見を求められません。何故?神様は全知全能だからです。最も良い計画を立てられご自身の方法を進められるからです。私たちはこのことを受け入れているでしょうか?

何故神様はと、イスラエルの民は受け入れませんでした。

私たちもそうなうかもしれません。大切な事は、神様のなさることに意見を言うことではありません。

神様の御計画に意見が言えるような知恵をもたない私たちは信仰をもって受け入れる。御計画を受け入れることのできる心は信仰しかありません。

(36節)どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

見てごらんなさい

パウロは何を見てご覧なさいと言うのでしょうか。それは、神のいつくしみと厳しさです。

(22節)見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。

それは親としての愛に例えられるものです。神様の厳しさは懲罰としての厳しさではなく学ぶための厳しさと言えます。鞭を与える厳しさと痛みと言えます。私たちには時に試練と言う形で臨みますがそこに神様の厳しさという形の本当の愛があります。

◆神の厳しさ

罪と死の力に支配され、それに心をゆだね流されようとする人間に、滅びを止めようとする神の愛が厳しさとなり現れています。

神様の厳しさは、愛の無い見捨てるような厳しさでないとパウロは言います。

(11節)彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。

(1節)神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。

(9:14)神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。

(10:18)はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。

神様の厳しさは救いの恵みとともに現れています。

①ノアの箱舟―洪水により滅びは厳しさです、ノアが洪水を伝えたのに誰も信じませんでした。 箱舟は神の愛と恵みを現しています。

②出エジプトー叫びを聞きエジプトの巨大な支配と奴隷から救われたのは神の愛です。荒野の旅の厳しさでしたが神の恵みを経験した民は、現状への不満を言い続け、新しい神を立て昔のままの方が良かったと思いました。彼らは約束の地へたどりつけませんでした。これは神の厳しさです。

③イスラエルの民―神の恵みの福音イエス様)を拒否して、福音は異邦人への恵みとなりました。それは厳しさと神の愛を現しています。

④残りの民―終わりの時代に艱難と悪魔の思想、支配という裁きの厳しさ、しか

し主の再臨と救いに神の愛が現れます。

◆神のいつくしみ

あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。

彼らの違反によって/彼らの捨てられること/ 彼らの違反が世界の富となり/

彼らの失敗が異邦人の富となる。  私たちは福音を拒んだイスラエルの民の不信仰、それが私たちへの宣教へと繋がっていることを知らなければなりません。イスラエルの民もまた異邦人が救われて行くことでねたみを引き起こさせ行いではなく恵みによる救いが民の出発点であることを気づかせてくださる恵みが残されているのです。

イスラエルの民の不信仰を見てごらんなさい、同じ失敗を私たちも繰り返し神の厳しさが臨むかもしれないことをパウロは警告しているのです。これは神様の愛です。神様のいつくしみと厳しさの愛の恵みに信仰の姿勢を正して歩む者でありましょう。

ただ神の栄光を現すために


本日の聖書の内容には偶像礼拝について語る部分もありますが、その部分については又の機会にして、神の栄光を現すクリスチャンの生き方について触れたいと思います。神の栄光を現すのは神を信じる者の使命です。

◆神の栄光の意味

神を知らず、見失い生きる方向が分からない世界に対し神の栄光の光を現さなければならないのです。私たちにはその使命がありその事ができます。クリスチャンであり信仰がある人にしか出来ないことがあります。

31節何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。

栄光を現わしなさい。と言われて、具体的に何をどうすれば良いのかわからないのがこの言葉です。

このことを理解するために3つのことを理解しましょう。①栄光とは②何故栄光を現すのか③栄光を現すにはどうすればよいのか

①栄光

辞書には、「大きな成功や勝利、名誉、輝かしい誉れ」

グローリ―、シエキナー(輝くもの、誉れ、栄誉、成功など)神の神殿が建てられソロモン王が奉献の祈りを捧げた時、神の栄光の雲が満ちました。栄光は神様の存在を現し、性質、声、が人の心に触れる物です。Ⅱ歴代誌7:1~3参照

②栄光を現す理由

栄光を現す理由は私たちのためです。神様がお一人なら栄光を現して何の意味があり、誰がその事で影響を受けるでしょうか。ですから神の栄光は私たちの益となるためです。栄光は神様の存在をあらわす方法なのです。

◆神の栄光を現す方法

③栄光を現す方法について

神様を知らない人が私たちの何を見て神様を知るでしょうか?それはこの人は神様を信じて生きてるんだと分かる行動です。30節もし、私が神に感謝をささげて食べるなら、私が感謝する物のために、そしられるわけがあるでしょうか。

31節 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも…

神様の食卓からこぼれ落ちる恵みをいただいていることを表す簡単な方法それは感謝の祈りです。祈る姿で神様を信じている信仰に触れるのです。何をするにも、祈ることにより信仰が表れるのです。

りっぱな行動で栄光があらわれるのではなく、あらゆる時に常にささげる感謝の祈りが神の栄光をあらわすのです。

もう一つの神の栄光を現す行為、それは愛により働く信仰の行為です。

27節もし、あなたがたが信仰のない者に招待されて、行きたいと思うときは、良心の問題として調べ上げることはしないで、自分の前に置かれる物はどれでも食べなさい。

28節 しかし、もしだれかが、「これは偶像にささげた肉です。」とあなたがたに言うなら、そう知らせた人のために、また良心のために、食べてはいけません。

29節 私が良心と言うのは、あなたの良心ではなく、ほかの人の良心です。

お供えものを貰い食べている牧師の姿を見て躓く人もいるのです。自身の信仰を堅く守ることも大事です。しかし、救いの本質に関わらないならば配慮にで現す信仰の愛は神の栄光を現すからです。

今年、信仰の祈りと愛を現すことで神様の栄光を求めるクリスチャンでありましょう。

Ⅰテサロニケ5:17-18 絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

福音の喜び

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。

寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

                           Ⅱテモテ4:2

◆宣教の喜び

今年度の教会のテーマは「福音を宣べ伝えなさい」です。今年をふり返り伝道のやりやすい年だったでしょうか。年間計画を立て一年間の伝道計画に皆で祈り、献金し協力して進めようとした矢先にコロナ問題で多くの計画にブレーキがかかりました。キリスト教の歴史の中でも迫害でも無いのに働きにブレーキがかかるなんて考えてもみない驚くべき重大事件です。その歴史的事件の中に私たちは今置かれているのです。

(2節)みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、と語るパウロは迫害と妨害、福音宣教のやりにくい中で福音を伝えました。テモテはパウロと共に伝道する若き伝道者でした。使徒の働き16章のパウロの第2回伝道旅行で初めて登場します。父はギリシャ人、母はユダヤ人のハーフです。

テサロニケでの妨害、訴訟、罰金などの迫害の後、ベレヤに逃れましたがテサロニケの群衆は徒党を組んで妨害に来たときパウロのみアテネに逃れさせテモテはイエス様を信じたばかりの少数の群れのために危険を顧みずそこに留まったのです。使徒17:14そこで兄弟たちは、ただちにパウロを送り出して海べまで行かせたが、シラスとテモテはベレヤに踏みとどまった。

迫害という抗しきれない力に対し「踏みとどまった」テモテの信仰と宣教の思いが溢れています。

ベレヤに住む人たちは迫害下の中でも他に移住できないでしょう。自分たちだけ安全な所に逃げる事はせず共に苦楽を共にし踏みとどまる時、主に従う福音宣教の喜びがあったのではないでしょうか。

◆信じる喜び

テモテが何故、迫害の中でも踏みとどまることが出来たのでしょうか。それは「福音の喜び」を持っていたからです。福音は知識でもあるのですが、信じると信仰から流れ出でる喜びが心に入ってきます。福音の喜びは2つに分けられます。①信じる喜び と②宣教の喜びです。

宣教の喜びに先立つのが信じる喜び。それは救いの喜びです。イエス様と個人的な関係で繋がる喜びです。福音によりイエス様に愛される喜びと、愛する喜びを十字架により与えられ、様々なイエス様の教えで信仰により生きる力が与えられ、よみがえられたイエス様が今、生きてともにおられ証しを示してくださる方が共におられる交わりあることを喜ぶのが信仰の喜びです。

時が悪い今、私たちも喜びを忘れ失うならば悪い時代の考えに流されてしまいます。福音の喜びの泉であるイエス様との交わりと、宣教の困難な時代に置かれても主への信頼に踏みとどまり、歩む思いを新たに、新しく来る年を迎えましょう。

救い主の誕生

ヨハネ 3:16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

◆イエス様の誕生それは私たちへの問い

対人関係のやりとりがキャッチボールに例えられますが、神様とのやりとりもまた同じ事が言えます。

イエス様が来られるまでは神様から投げられるボールをひたすら待ち続ける時でした。救い主を与えられた人類は神様からのボールを投げられています。そして、その投げられたボールをどうするかを問われています。

◆問いに対する応答

(10節前半)あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。

イエス様が誕生された当時も政治や社会も腐敗と争いが満ちた闇の世界でした。そんな世の中はイエス様を妬み、怒り、偽証により異分子として十字架にかけ排除しました。イエス様の存在は神様からのボールでしたがそれを受け取りませんでした。神様が救い主を送りましたがあなたはどうしますか?と問われています。

聖書は神様からの手紙です。そこに重要なメッセージが書かれています。預言者に託し、愛、慰め、励まし、希望、救い、警告、注意喚起、哀願、予告等

私たちはそれを信じました。それを人々は宗教と呼びます。そして、非科学的な人たちだと言う人がいます。科学で証明できないことが迷信でしょうか?それなら科学も迷信です。証明できないで仮説のままや理解できていないことばかりだからです。神様は人が信じられない奇跡をあらわし、あなたはこれを信じますか?と問われます。理解できますか?ではなく信じられないような事を起こされ、信じますか。と問われるのが神様です。信じますか?それは信仰であり、神様との愛と信頼関係で結びついた関係をお望みになっておられる方なのです。

◆イエス様の誕生は神様との関係回復

あなたは誰かから手紙をもらいました。その内容を信じました。それは宗教でしょうか?イエス様の誕生が私たちに投げかけ今問うことは何でしょうか?

イエス様の誕生は信じる者に救いをもたらしてくれるものです。

イエス様を信じる事、それは天国の鍵です。天国の鍵は死んでから開けるものではありません。最近は金属の鍵ではなく、カードキーや顔認証、指紋認証、角膜認証、ID認証で扉が開く時代です。扉が開かれるためのは鍵が必要です。

天国の門は信じた時に開かれました。天国は贖われていない肉体は入れないので死んでから肉体を脱ぎ捨てなければ入れませんが、今私たちは鍵が開かれ天の住人なのです。

 イエス様の誕生、それは私たちへの神様の愛、救いをもたらされた到来の喜び、天国への希望、神様との信仰による個人的な関係の回復なのです。

私たちの生きる力を与える希望(10節後半)この方こそ主キリストです。

闇の中で光る方

◆闇の中に光る方

イエス様について聖書は暗闇との関連で書いてる箇所が多くあります。

①羊飼いたちは夜番をしている時、天使たちからその誕生を告げられイエス様に会いに行った。

②東方の博士たちは星に導かれ誕生されたイエス様に会いに行って礼拝を捧げた。

③イザヤの預言にはイエス様の誕生が、「暗やみに座っていた民は偉大な光を見、」と語っている。

④十字架にかかられる前の夜、ゲッセマネの園で祈られ捕らえられたのは夜でした。

⑤裏切られ裁かれたのも夜でした。

⑥十字架にかかられた最中の十二時には全地は暗く夜のようになった。

⑦他国に植民地支配され税金を搾り取られ、為政者は多くの民を殺害した暗黒の時代にイエス様は誕生した。

聖書はイエス様の誕生や救いが闇に輝く光であることを書き表そうとしています。

◆信仰の光を灯せ

クリスチャンの使命は世の光となることです。世の光となろうとして善い行いを行おうとすると律法の義を求めたパウロと同じように、ああ私は何とみじめな人間なのだろうか、という思いに至のが関の山です。心にイエス様を持たない人は、世の光である事はできません。

以前に100円均一でろうそく台を買いました。そして20個100円のろうそくを買いました。それは、

キャンドルサービスのためでした。私はこの安物クリスマス商品をみて思いました

この安物商品でもキャンドルサービスのために役立つ光となることができることを。そしてこれは私たちが世の光となる姿であることを。ろうそくに火を灯すのに安かろうが関係ありません。燭台が安物でも関係ありません。大切なのは火が灯っていることです。ろうそくも燭台も厳密に言えば光ではありませんが暗やみを照らす光です。私たちがその心にイエス様への愛と信仰があるならイエス様が光輝いて闇を照らす方となってくださるのです。光を捜す人は私たちを見て光を見出すでしょう。

その心にあるイエス様えの信仰がこの時代を照らすことの出来るよう、信仰の火を灯し続けましょう。

罪から救って下さる方

◆クリスマスは私たちの救い

クリスマス(イエス様の誕生)を祝う事は、自身がイエス様により(福音)信仰により救われたことを祝うことでもあります。

何故ならイエス様の御誕生の目的が御自身の民を救うことであり、私たちはその民であるからです。

「罪から救われる」事についてローマ書で学びました。

ローマ1:16福音は…信じるすべての人に救いを得させる力です。

救いを与える方はわたしたちがクリスマスに誕生を喜ぶイエス様です。

◆罪から救う命の綱イエス

イエス様の救いは金魚救いの様な救いではありません。

それは泥沼に落ち込んだ人を救う状況に似ています。

泥沼に落ち込んだ人は自力では抜け出せません。そして自力での脱出がかえって悪化させてしまいます。大切なのは救ってくださる人が現れ泥沼であがき沈む人に救いの手を差し延べてくれることです。救うために綱が投げられるでしょう。そして泥沼に落ちた人がすべきことは一つです。綱をしっかりと握るか身体に巻き付けるかして綱を離さないことです。後はゆだねてあがかないことです。

私たちは罪の泥沼に落ち込んでいます。そのことさえ知りませんでした。何故こんなに人生が苦しいのか。人間との問題で苦しむのか。あがき解決し問題から救われるために良き知恵を与えられようと知識の実を得ようと手を伸ばすのです。知識で全ての解決、救いがあるかのように、何が善くて、悪いのか知識が救ってくれるとあがき、罪で暗くなる知性で判断して手をのばしてしまうのです。知識で全てが解決されるならカウンセラーは必要ありません。残念ながらそう言うような時代は訪れる希望は見いだせません。それどころかますますひどくなるばかりです。

死から救われその苦しみから救われるように、イエス様の救いは福音という綱によりそれを掴む者に信仰により握って離さなければ救ってくれる人の力で泥沼から救われるのです。

◆救いの恵みのクリスマス

自分の力で這い上がろうとする自己の義、ますます沈むにもかかわらず力が入ってしまうのです。パウロは言いました。行いによる義で救いを達成しようとしていた自分を振り返り、なんと惨めな人間なんだろうと。

泥沼にいる人がすべきことは綱を握り離さないことです。

その綱がイエス様に繋がる限り救いは確実です。そして、信頼する者には救いに恵みに置かれた喜びと信仰からくる平安が与えられるのです。罪からの救いのプレゼントを恵みによりいただいてる私たちは、救い主の誕生を祝うこの年、感謝と賛美でイエス様をたたえましょう。

わたしの心だ

◆主に近づく信仰

イエス様は5章1節で山に登られ、8章1節で山から降りられました。どちらかと言うと山よりも丘陵と言う方が当たっているかもしれません。イエス様の教えのみで3章分書かれているのは珍しいことです。そして、その教えを聞いた人々はイエス様を信じる心を持ち従いました。

山を降りられて直ぐに、一人のらい病人が来たと聖書第2版には書かれています。第3版にはツアラアトと原語発音で書かれています。第3版でらい病とされず原語の音読みをされているのは論議を呼んだ言葉だからです。らい病はハンセン氏病とも呼ばれ、日本では昔、業病とも呼ばれた前世で非道な罪を犯した報いで、あの様な苦しみを受けるために生まれてきたのだと考えられ、哀れみの対象ではなく蔑みの対象と見られていました。感染性のある病と誤解され長年隔離措置が執られて来ました。らい病からツアラアトへの改定の主な理由は差別用語を除くことでした。聖書が人を差別していいのか。と言われたからです。

元来、らい病は差別用語ではありませんでしたが、差別は人の心が生み出すものとして障害者を蔑視する言葉として使用されたため改定されました。改定委員会で何度も話し合われました。議論は聖書翻訳者から現場の牧師を巻き込んで議論となりました。この原語を「重い皮膚病」と訳さず「ツアラアト」とするかの2つまで絞られました。私はツアラアトとすべきだと言う方に賛成しました。それは、重い皮膚病がそのままツアラアトではないからです。アトピーで苦しむ人がみなツアラアトでは無いのです。イエス様の時代、ツアラアトの人は町から離れた死の谷と呼ばれた所で生活しなけらばなりませんでした。詩篇23編の死の陰の谷とはツアラアトの人たちが住む谷のことでした。ツアラアトに犯された人がイエス様に近づき恐れながら近づきお願い毎をします。本当は許されないことでした。そのことにこの人の必死さが伝わります。無理かもしれない、断られ無視されるかもしれない。律法を犯してまで取る行為が無視されたらこの人はどうなるでしょうか? この人のようにイエス様に近づき主の心を捕まえる祈りを捧げる者となりたいものです。

◆わたしの心だ

その心の現れは行動にあらわされます。

「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」ツアラアトの人に感じられるのは拒絶されることへの恐れではないでしょうか。イエス様のほんのわずかな憐れみでも私にかけてくださるならあなたには全能の神の力がおありなのですから。拒まないでくださいと言う必死さがあふれています。主はこの言葉を聞いて、その思いをあらわしました。イエス様の行動を順次みて行きましょう。

(3節)イエスは手を伸ばして、彼にさわり とあります。ツアラアトの人に触ることは常軌を逸した行為でした。感染症とみられ人々から恐れられた病気、律法で触れることも近づくことも禁止されていた。病気なのです。例えば、コロナで重症な人がいます。あなたにその人が会いたいと言われたら会いに行きますか。濃厚接触者になります。なにが言いたいのかと言うと、恐れが先立つと動けません。愛が先立つと行動に移ります。

イエス様のこころがその行動に現れました。手を伸ばして触れられたのです。ツアラアトの人もそんなことを期待していなかったでしょう。ツアラアトの人に触れられたことがイエス様のこころでした。

私たちの罪はもっと汚れていないでしょうか。人々を巻き込んで感染させていないでしょうか。

そんな汚れたこころを持つ私たちにも主は愛のこころを向けてくださる方なのです。そしてわたしのこころだきよくなれと今も目を注ぎ続けてくださっているのです。

恵みによるのであれば

◆恵みにより赦された者

(1節) すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。

神の言葉はまず最初にイスラエルの民に届けられましたが、神に認められる(神の義)をどれだけ行っているか(行い)によって良き民であることを求めた人々はイエス様の福音を受入られませんでした。だからといって神様はイスラエルの民を退けてしまわれたのではありません。

パウロはイザヤ書を引用して言いました。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」と。事実、教会を迫害したパウロ自身もまた赦され福音を伝えるために恵みを与えられたイスラエル人でした。

(2節) 神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。

 パウロはエリヤに語られた神の言葉を引用して、どんなに神に背を向け退けられる民がいても、その中には神への信仰を保つ少数の残りの民がいることを忘れてはならないとローマにいる教会の人たちに訴えました。

◆恵みにより残された民

(3節) 「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」

エリヤはこう言いました。「私だけが残されました」孤軍奮闘する弱者である自分の働きなど何になろうか。孤立感に恐れおののく神の人エリヤ。

私たちもこう考えていないでしょうか。社会の中、家庭の中では「クリスチャンは私だけしかいない」、「教会の中ではわたしぐらいの年齢の人は私しかいない」、教会のこれからを担う「若者」「壮年」はこんなに少ないし、私たちは教会の現状を心配し憂いているのだと。しかし、それは神を見上げない信仰です。主は信仰の民を備え給うお方なのです。(4節 )ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」

それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。

エリヤは自分だけが苦しんでる、自分だけが頑張っている、自分だけしか見えていなかった故の発言でした。そんな中でも神様の計画と恵みは充分でした。当時のイスラエルの民は1000万人、男子7千人、女子?を含め1%強と考えると現在の日本のクリスチャンの状況と大差はありません。

聖書の価値観とは違う価値観と偶像礼拝を強要する国家体制、迫害される信者たち。当時の王様は悪名高きアハブと三大悪妻のイゼベル、エリヤを殺すと公言していました。精神的にも追い詰められて行くエリヤに安心して休める場所などありませんでした。その残された者たちはそれと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。と神様が選んだ人たちなのです。

私たちは、少数だと考えていませんか。確かに少数でしょう。しかし、主は私たちをバアルにひざをかがめない残りの民として選びに加えてくださいました。

少数であるとか大人数であるとか神様の前に関係あるでしょうか。大切なのは、私たちが恵みにより信仰を得たその信仰を恵みにより頼み歩む選びの民であることだけです。恵みに寄り頼む以外にこの世に流されてしまいそうな弱者の私たちはイエス様に寄り頼むお互いでありましょう。

信仰は聞くことから

前回のテーマは「心に信じて義と認められ」でした。信じるためには聞かなければ信仰は呼び起こされないとパウロは語っています。

(14節)しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。

パウロはまた聞いてもすべての人が信じるわけではないとも語ります。

(16節) しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。」とイザヤは言っています。

◆聞いて信じるとはどういうことでしょうか。

(17節)そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

確かに、すべての人が福音を信じるわけではない、しかし、信仰の始まりはイエス様の福音を聞くことから始まります。

私たちの信仰にとり「聞く」ということは最も重要なことです。ユダヤ人の家庭の入口には必ず小さな箱が付けられています。その中には小さな紙がありこう書かれています。「シェマ」聞けというヘブライ語です。

古来よりイスラエルの民は聖書を読む民ではなく神の言葉を聞く民です。

聖書は羊の皮の巻物で手書きですから誰でも持つことができるものではありません。礼拝で巻物の聖書朗読を聞くことから礼拝が始まり心に信じて神と繋がります。ですから聞くことが重要な礼拝になるわけです。

聞く場合他のことをしていると聞いたことを忘れてしまいます。忘れないために書き留めるかしなければ思い出すこともしないでしょう。他のことを考えていたり心ここにあらずの状態あったりすれば聞く耳は整えられてはいないのです。聞く事は聞くための備えが必要です。

イエス様は群衆にこういわれました。「聞く耳のあるものは聞きなさい」聞くことは今この場で神の言葉を聞く耳を整えて聞き、心に信仰が呼び起こされ応答することなのです。

◆聞いて信じないかった民に対して神様はどうされたでしょうか。

では神様を信じない人たちは神(18節)でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」

聖書を持つイスラエルの民も持たない民にも神様は語りかけておられたとパウロは言います。

1:19 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。

1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

たとえイエス様の福音を聞くことがなかっとしても、被造物によって創造主の存在は明らかであるにも関わらず教育は目を開かせるどころか神を見えなく曇らせてしまいました。

(19節)でも、私はこう言いましょう。「はたしてイスラエルは知らなかったのでしょうか。」まず、モーセがこう言っています。「わたしは、民でない者のことで、あなたがたのねたみを起こさせ、無知な国民のことで、あなたがたを怒らせる。」

イスラエルの民は被造物によって神様を知るばかりではなく、神様からの御言葉でしる特別な民でした。しかし彼らの不信仰もまた特別でした。なぜなら、異邦人はパウロの宣教によりユダヤ人」よりも多くの人が信じた「からです。

しかし、神様「は頑な民を見捨てたわけ「ではありません。神様への熱心を逆手にとり恵みを異邦人に与えることでねたみを起こさせ、神を求める思いを起こさせようと計画されたことをパウロは語ります。

神様の愛は(21節)「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」限りなく深く広い愛なのです。

心に信じて義と認められ

◆心に信じることの大切さ

(10節) 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。この順序は大切です。

なぜなら、人は心にもないことを口にするからです。口で告白すれば救われるなら全ての人はイエス様が来られた時に告白すれば救われます。しかし、心に信じて義と認められることは信仰の導きが必要であり御言葉で心に光が当てられなければなりません。ですから、心で信じていることが重要なことだからです。口では告白しても心では信じていないということがあるからです。

プロテスタント教会の多くが幼児洗礼を廃止し本人の自覚的信仰告白による洗礼を採用したのは心で信じることの重要性を再認識したからです。

◆救いの確信

(8節)「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。

信仰は御言葉を聞いて心が信じることから始まります。信じた心に御言葉がありますか。

(9節)心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

それは、心で信じているか問われています。心で信じることが神様に義とされることです。

これまで、信仰による義についてパウロは執拗に論じてきました。行いによる義を求めたユダヤ人はそれを得ず、信仰によって義が得られることを論証しました。

では信仰による義とは何か?それは心で信じることだと。心で信じることは神様との個人的なつながりを意味します。

ある方が私に次のような相談して来られました。先生、私は救いの確信がないのです。いつも与えてくださいと祈っているのですがどうしたらいいですか?

この方はいつも心で神様に呼び求め、すでにイエス様と常に繋がっていることに気づいていませんでした。イエス様が聞いてくださっていることを信じ祈ることは、よみがえったイエス様を信じている信仰によるのです。

◆主を呼び求めよ

(12節)主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。

自分が救われているか確信が無い人はいます。それなら今、心のうちで祈ってください。呼び求めるすべての人に恵み深くあられる主がその祈りを聞いてくださっています。主と心が繋がり、信じる心からでる確信により信仰告白を生きる証し人でありましょう。

神の義と私の義

◆救霊の思い

パウロには切実な心の願いがありました。それは「彼らの救われることです。」と言っています。彼らとは誰でしょう。彼ら(同胞、同国)すなわちユダヤ人の救いでした。この思いを9:2 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。9:3 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。とその思いを吐露しています。イエス様に近づき、その心に神の愛が注がれて満たされて行くならば、この悲しみと痛みを共有する者となります。クリスチャンは主にある喜びの人である反面パウロと同じように悲しみを持つ人です。しかし、その痛み悲しみは悲嘆に暮れる世の悲しみとは違います。なぜならこの悲しみは福音を伝える力だからです。「彼らの救われること」私たちも切実な思いを持ちまだ信じていない家族、知人、日本のために祈りましょう。

◆的を外した信仰

「彼らが救われること」ちょっと待ってください。ユダヤ人はアブラハムの子孫、聖書を学び、従い、礼拝を捧げ、献金をささげる神の対して熱心な信仰者たちです。なのに彼らが救われることを切実に願うとはどういうことでしょうか。

(2節) 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。

ユダヤ人が神に対して熱心であることは自らも熱心であったパウロが一番良く知っていました。しかし、その熱心は知識に基づかないものでした。

熱心な努力、探求も的はずれではどんな努力をしても目的を達成できず無駄に終わるからです。

その的外れとは(3節) 彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかった、ことです。

彼らの目標は「神に義とされる事」でした。神様の義を得るために言われる通りに右にも左にもそれず行うことが正しい道でその到達点は神の義の栄冠だと理解していました。しかし、アブラハムの子孫がその出発点の恵みによることを見失い、従うことに信仰の意義を求めました。キリストは神の言葉の本来の意義を見出させようとされたのです。

(4節)キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。イエス様は神の教えを破棄されてしまわれたと言う意味ではありません。御自身でこう言われました。

マタイ5:17わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

律法の終わり、信仰による義。矛盾していませんか?とパウロは話しを展開します。

(5節)モーセは、律法による義を行なう人は、その義によって生きる、と書いています。モーセは律法を行えば、義とされると言ってるじゃありませんか?

神に従い律法を行えば義とされる事は聖書が教えているのではありませんか?

◆神の恵みにだけ目を止めて

(6節)しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。

7節また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。

パウロの論理はこうです。信仰により義とされ救われるのはイエス様が成し遂げてくださった真理だ。だから、信仰による義ではなく行いによる義を追い求めるイスラエル人は救われない。とは言うな。と語ります。

キリストを引き降ろすことは救いの十字架を無意味とすることであり、キリストを死者の中から引き上げることは滅びに落ちる必要が無いと言っていることだとパウロは語ります。主はユダヤ人のように行いで義を求める人のためにも、異邦人のためにも死んでくださいました。

誰が救われて誰が救われるかは私たちが論ずることではありません。ただ、信じる者に与えられる信仰の義の恵みを確信し、イエス様の福音が伝えられ広がり、神の国が来たることを祈りましょう。

そして、誰でも信じる信仰による救われる救いを完成してくださった恵み。この恵みに信頼する者でありましょう。