恵みによるのであれば

◆恵みにより赦された者

(1節) すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。

神の言葉はまず最初にイスラエルの民に届けられましたが、神に認められる(神の義)をどれだけ行っているか(行い)によって良き民であることを求めた人々はイエス様の福音を受入られませんでした。だからといって神様はイスラエルの民を退けてしまわれたのではありません。

パウロはイザヤ書を引用して言いました。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」と。事実、教会を迫害したパウロ自身もまた赦され福音を伝えるために恵みを与えられたイスラエル人でした。

(2節) 神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。

 パウロはエリヤに語られた神の言葉を引用して、どんなに神に背を向け退けられる民がいても、その中には神への信仰を保つ少数の残りの民がいることを忘れてはならないとローマにいる教会の人たちに訴えました。

◆恵みにより残された民

(3節) 「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」

エリヤはこう言いました。「私だけが残されました」孤軍奮闘する弱者である自分の働きなど何になろうか。孤立感に恐れおののく神の人エリヤ。

私たちもこう考えていないでしょうか。社会の中、家庭の中では「クリスチャンは私だけしかいない」、「教会の中ではわたしぐらいの年齢の人は私しかいない」、教会のこれからを担う「若者」「壮年」はこんなに少ないし、私たちは教会の現状を心配し憂いているのだと。しかし、それは神を見上げない信仰です。主は信仰の民を備え給うお方なのです。(4節 )ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」

それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。

エリヤは自分だけが苦しんでる、自分だけが頑張っている、自分だけしか見えていなかった故の発言でした。そんな中でも神様の計画と恵みは充分でした。当時のイスラエルの民は1000万人、男子7千人、女子?を含め1%強と考えると現在の日本のクリスチャンの状況と大差はありません。

聖書の価値観とは違う価値観と偶像礼拝を強要する国家体制、迫害される信者たち。当時の王様は悪名高きアハブと三大悪妻のイゼベル、エリヤを殺すと公言していました。精神的にも追い詰められて行くエリヤに安心して休める場所などありませんでした。その残された者たちはそれと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。と神様が選んだ人たちなのです。

私たちは、少数だと考えていませんか。確かに少数でしょう。しかし、主は私たちをバアルにひざをかがめない残りの民として選びに加えてくださいました。

少数であるとか大人数であるとか神様の前に関係あるでしょうか。大切なのは、私たちが恵みにより信仰を得たその信仰を恵みにより頼み歩む選びの民であることだけです。恵みに寄り頼む以外にこの世に流されてしまいそうな弱者の私たちはイエス様に寄り頼むお互いでありましょう。

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