愛は律法を全うします

ローマ書 13:8~10

13:8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。

13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。

13:10 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

◆愛に借りはあっても貸しは無い

(8節) だれに対しても、何の借りもあってはいけません。

人は貸し借りで生きているわけではありません。しかし、人は貸し借りで生きているのです。家を買うとき銀行から借り、車を買うときもローンを組み返済しています。

人に貸しがある、借りがあると思うのは物質的なもの以上に恩の貸し借り、すなわち愛の貸し借りがあります。しかし、愛は貸し借りとは考えないものですが、必ずしもそうとばかりは言えません。

それは、人に良くしてあげてもそれが返ることがなければ見返りを求める自身の心は貸しと考えているのです。気づかないあいだに愛の貸し借りが存在しています。しかし、聖書は借りがあってはなりません。と言います。愛は別ですと。愛の貸し借りがあってもいいと。しかし、借りがあってもいいと。貸しがあると考えるならば人に報いを求めます。

母が亡くなりたくさんの愛と恩に報いることができなかった事に心が痛んでいます。しかし、自らが親となり子に報いられることを求めていないのも親であることが分かるようになり、愛は借りはあっても貸しがないのだと思います。

◆神の愛に生きる

(10節) 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

イエス様は律法で最も大切な教えは、神を愛し隣人を自身のように愛せよと言われました。それが律法であり預言者だと。すなわち、神の御心であると。

律法は人のために与えられたものです。人の社会を築き人がどう生きていくべきかを教えてくれる法令集のようなものです。人を愛し御心を語り働かれた証詞集が旧約聖書と言えます。愛を行うことが旧約(律法であり預言書)の本義ならば愛は律法を完成させるものなのです。

愛に借りはあっても貸しはありません。貸しがあるとしても報いは神様がはらってくれます。そして自分では払えない罪の代価をイエス様が御自分のいのちで払ってくださり今も未来も神様の元で生かされる保証を与えられた恵みにより律法である神の教えを完成うる愛を与えるクリスチャンとして歩ませていただくお互いでありましょう。

神に立てられたゆえに

1節 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。

◆神に立てられた権威

上に立つ権威、存在している権威なみな神によって立てられていると聖書は語ります。

この聖書の言葉を読み素直に納得できる人は多くは無いのではないでしょうか。

人類の歴史の中で神の御心に適う政治、政治家、国があったでしょうか?神を信じるイスラエルの歴史を見ても該当する人は僅かです。キリスト教がヨーロッパ世界の価値観を形成した時代をみても皆無と言えます。個人レベルで見たらもう少し見出す事が出来ますが上に立つ人たちが神に立てられていると言える人格であり人を見定めてのことであれば1節の御ことばは現代を生きる私たちには意味をなさないものとして捉えられてしまいます。御ことばが普遍的真理の言葉としてこの御ことばをどう理解すべきなのでしょうか。

◆上に立つ権威に従うべきです

専制君主国家であっても民主主義国家、または社会主義国家であっても制度を維持する国の法律があります。法は人が定めたものであり法の権威と言うものがあるならばそれは人の定め人の考えた決めごとに従うことになります。福沢諭吉は言いました。「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と。人は対等です。人に上下貴賤はありません。なのになぜ人が人に従わなければならないか?

人の社会には上下関係は付きものです。親子、会社の上司と部下、学校の先生と生徒など様々です。しかし、誤用された平等主義は良き上下関係の道を否定し良き社会と関係を築いてきたものを崩壊させてしまいました。上に立つ権威に従うべきです。とは神が定められたものがあり上下の敬うべき道があると教えているのではないでしょうか。人と人の関係に権威があるのではなく神が置かれたが故の権威なのです。人の定めた制度や法律さえも欠点がありますから改革し修正が必要でしょう。盲目的に立てられた人に従うことでは無く、従わない事を前提ではなく従うことを前提に制度、関係はより良いものに変え良い社会を求めるべきはクリスチャンとしての道なのです。クリスチャンは「人に従うよりは神に従うべきです」と信仰第一として上に立つ権力者に逆らいました。しかし、良き市民であるよう務めたのです。クリスチャンは良き市民であるべきです。

(7節 )あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。

打ち勝ちなさい

(17節)だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、

悪に悪で報いない。悪とは何か?悪の存在とは誰か?それは常に自分以外の相手は悪となりうる存在です。

悪―大、中、小  (大)傷つけてくる存在、(中)傷つけ派しないが怒りを向けてくる存在 (小)不満に思う相手(何らかで自分が不満に思う)例ばおはようございますと言ったのに言わない。自分も言わないようにしよう。聞こえない振りをした。自分の意見に反対。文句、苦情を言う。

怒りを呼び起こす相手はすべて悪(悪く良くない)存在。

怒りで報いるーそれが悪を悪で報いると言うことです。

腹が立つ、少し言い返した。それが悪いの?(動機はどうか?

すべての人が良いと思うことを図りなさい。 

公善―怒りで返さない。これがクリスチャンとしての戦い方だと言うのです。 

いきなりハードル高いです。恵みの高き嶺日々我が目当てに祈りつ歌いつなおも登りゆかん。

(18節)あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。

自分に関する限り(原意=もしできるならば)必ずそうしなさいと言う事ではない

ラゲ訳汝らが力の及ぶ限り平和を求めよ、人と平和を保ちたいと誰もが願っている、と信じたい。敵対する人が怒りを持つ時、必ずしも平和を保てるとは限りません。

しかし、神様との平和を失うような怒りに心をまかせてはなりません。

(19節)愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

復習は悪に対する報いを与えることです。仕返し、敵討ち、

※自分の正しさの確信に基づいて復讐しないにように。

神様、悪に報いてくださいと指さすその指が自分に向いている。

罪にたいする報い…それは十字架にかかるためにこられたイエス様に向けられました。

(20節)もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、

良きサマリヤ人のような隣人愛    イエス様の十字架を見上げることなくそのような愛はできない。

あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。

燃える炭火を積む…積むとは載せること怒りを燃え上がらせる隙間をつくらせない

薪はたくさんくべれば逆に燃えない、薪が燃えるためには息を吹き込まなければならない。他人の意見、同調、共感、あおるような意見があるとさらに頭にくる。

(21節)悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

悪に善で報いるという戦い方がクリスチャンとしての戦い方であることを。

天国への招待状

11節 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。

マリやは主イエスの遺体が失われたことを知っていました。しかし、それでも再び墓の前に戻ってきました。そこに主はおられないと分かりながらも墓ののぞき込むマリヤの姿に深い悲しみ感じます。イエス様は大きな愛をくれたのに自分は何もできない悲しみの中にいました。

12節 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。

白い衣は天国の住人の証し、その人たちが悲しみと死を表す場所に座っている。それはマリヤの悲しみから見える天国の希望が。前回は墓の前から見えたものは闇と墓、すなわち絶望でした。

13節 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」

マリヤはまだ悲しみと闇の中にいました。「よみがえることを理解していなかったのです」。その理由が誰かの責任にしている言葉に表れています。悲しみにある時、それが自分の責任であろうと。

14節 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。

悲しみの中にいる人、苦しみのしか見えていない人にはよみがえったイエス様が共におられる事のに気づくことは簡単なことではない

15節 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」

人の声も彼女を苦しみから立ち上がらせ、主が共にいることを気づかせることはできない。

16節 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。

主は共におられる。しかし、人はそれに気づかないで自分の心にあるものしか見えていない時、その人に語りかけ悲しみにうちひしがれているそんな人を見つめておられることを気づかせてくださる。それが「名を呼ぶ」ことだ。

自分が呼ばれていること、自分に語りかけていることに気づくのは名で呼ばれることだ。

17節 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」

イエス様は喜びのあまりすがりつこうとするマリヤをご存じでした。しかし、それをしてはならないと言われました。言葉を裏返して読むと父のもとに登ったイエス様にならすがりついても良いと言うことではないでしょうか。すなわち、天に昇り父なる神の右にて私たちを執り成すイエス様にすがりついてもいいと言うことです。

18節 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました。」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。

17節で語られた主のことばは、マグダラのマリヤにとり古い今までの自分との決別です。絶望の中で見出したイエス様、目の前にいるイエス様を追いかけてすがることはマリヤの精神的な拠り所だっいたからです。イエス様のおっかけ、目の前のイエス様は消えていきます。しかし、あなたを見つめて執り成し共にいて救うイエス様に信仰で寄り頼む者はイエス様はもう失われることはありません。

今イエス様はあなたに呼びかけています。執り成し祈られるイエス様、それがよみがえられたイエス様です。

何を信じたのか

◆目の前の失望に翻弄される弟子たち

イエス様の死とよみがえりは人類に様々なものをもたらしました。信じた者に罪の赦しによる救いを与え神の御国の恵みを保証されました。それゆえに死は終わりではなく御国への通過点に過ぎません。

ではイエス様の死は信じた最初の人たちに何をもたらしたのか。

(1節)マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。闇と墓は彼女に与えたものが何であるのかをイメージさせます。七つの悪霊に憑かれたと書かれるこの女性にとりそこから救われたことは地獄から天国に移されたようなものです。イエス様の十字架の死は彼女に再び闇と死をもたらす絶望でした。(2節)それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」主の遺体が見つからないのは死を悲しむことすら出来ない苦しみが彼女を襲いました。

そのことを知らせに使徒たちの集まる家に行きました。それを聞いたペテロと(おそらくヨハネ)が走りだしました。足の遅いペテロでしたが最初に墓に入ったのはぺテロでした。あとからもう一人の弟子が入ってきましたが中にはイエスの遺体は無く遺体を包んでいた布だけがありもぬけの殻でした。それを見たもうひとりの弟子について考えてみましょう。(8節 )そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。(9節) 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。

もう一人の弟子は、何を信じたのでしょうか?イエスがよみがえったことでしょうか?

この弟子が見たものは空の墓とイエス様の遺体が包まれた時の布でした。

最初のそれを見たマグダラのマリヤの報告を聞き確認して、その通りだったので、そに言葉を信じたと考えられます。それゆえに次の9節の御ことばがイエスの弟子たちの信仰の状態を教えてくれ問題点を教えてくれます。

◆神の約束を

イエス様が以前に御自身のよみがえりについて語られた言葉はどうしたのでしょうか。目の前の悲しみ、苦しみ、試練に飲み込まれ聖書の約束はどこえやら。

9節の言葉がわざわざ書かれている理由は、弟子たちはよみがえりを信じたのではなかったようです。今を生きる試練と苦しみは私たちに聖書が語る約束への希望を見失わせます。今の時代、疫病感染の恐れと苦しみに翻弄される時代です。

イエス様は言いました。終わりの時代の苦しみについてイエス様は、ルカ 21:11大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます。しかし目の前の絶望に心を奪われてはなりません。21:32 よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。21:33 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。   神様の約束に心を止め時代に動かされることなく信仰により歩み励まし合い歩む教会でありましょう。

へりくだる心と信仰

互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。      ローマ書12:16

◆一つにさせる事を邪魔するもの

互いに一つになることは難しいことです。なぜなら、みな違うからです。しかし同じ考え同じ気持ちにならなければならないわけではありません。パズルのピースのように皆違う形でいいのです。しかし信仰は一つでなければ教会はバラバラです。

ローマ教会には様々は人たちがいました。ローマ人の市民階級で市民権を持つ人たち、ローマ人以外の人たち、非市民で市民権を持たない人たち、奴隷、商人、技術者など身分や職業、人種の違いなど様々です。

教会の交わりにおいて一つの心にあるとはどういうことはどういうことでしょう。

次の言葉から何が一つにさせないのか見てみましょう。

身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはなりません。

おそらく教会には身分と教育が受けられた人とそうでない人、経済格差の壁がありました。ローマ貴族の人~奴隷まで様々な人たちがいて、日常生活では奴隷を所有する人が、主人と奴隷という関係が教会では対等な関係で会話するわけです。中には嫌悪感を持つ人、そこまで行かなくても不快な感情を抱く人もいたのかもしれません。また、自分こそ知者などと思っている人がいたからこそ忠告しているのかもしれません。事実この手紙を書いた時、コリント教会にはそういう人たちがいた為問題が引き起こされていたのですから。知識のあるそういう職業の人、教育を受けられず公用語のギリシャ語が読み書きできない人、

何がキリストの体なる教会に壁をもたらし機能不全、動脈硬化をもたらすのか。

これまで当たり前と信じてきた価値観が神の教えの前に光に照らされる時、剥がして捨てなければななないものであることが明らかにされる時、剥がされるのを拒否  する人はプライドが邪魔をして教会を去るかもしれません。そうでなければ無視をするか、痛みを伴っても信仰で受け入れるかです。

◆キリストにへりくだる姿に

10節兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。尊敬心を持つ人はへりくだる人なのです。へりくだればればくだるほど重みのある態度、言葉となり重んじられる人のなるからです。尊敬される人にならなくてもいいです。へりくだる人になるとき重んじられ尊敬される人となるのです。この違いを乗り越えることができるのはキリストにある信仰と愛です。

キリストのへりくだりの十字架こそ教会を一つにできるものです。

身分の低い者に順応するのは見返りの無い愛を求め神の報いを求める信仰から来るものです。知者である高学歴の人がいたのでしょう。財産、地位、その知り合い、学歴、人は誇ろうと思えば何でも自慢します。誇るこころを持つ人とへりくだる心を持つ者が神の御前に立つのみです。十字架の主の血の流れを遮る動脈硬化となる者を取り除き健全なキリストの体としてくださいますよう願いましょう。

喜びと痛みの伴う祝福

◆祝福を祈る者に変えてください

14節 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。

パウロのこの言葉は次のイエス様が言われた御ことばに通じる言葉です。

マタイ 5:44しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

ルカ6:28 あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。

しかし、私たちに危害を加えたり迫害したりする者を祝福することに感情はそれを受け入れることが出来ません。この言葉は迫害する者を擁護するのものではありません。では迫害する者を祝福するとはどういうことなのでしょうか。

祝福する側について考えてみる時、迫害する者に対する祝福と迫害しない者への祝福とどう違いがあるでしょうか。当然神様の祝福を祈るということであり恵みが伴うことを願うことです。この2つの対象に対して祝福の内容に違いはあるでしょうか。祝福自体には変わりはありません。あるとするならば祝福する側の心の問題です。 

迫害する者を祝福するのを心が拒否します。拒否する心に対し聖書はそれでも従えと言うのでしょうか?聖書がわたしたちに呼びかける事をもう少し考えてみましょう。喜びのともなう祝福の言葉と喜びの伴わない祝福とどう違うのでしょうか?祝福になにか違いが生まれてくるのでしょうか?感情が拒否するのはやむ得ないのです。しかし、祝福することを止めてはならないと聖書は語ります。神への祝福の祈りは、祝福する相手を神の祝福することのできるものへと変化させるものだからです。

◆イエス様の祝福

15節 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。

神様は御自身の御心に適わない行為に生きる者を祝福はなさいません。その人の為祈られる時、祈られる祈りに応え神の介入があります。

喜ぶ者といっしょに喜ぶ、泣く者といっしょに泣くこともおなじなのです。

喜ぶ人が感情的に好きではなかったら共に喜ぶことができるでしょうか?

泣く者が悲しんでいても好きではなければいっしょに悲しむことはしないでしょう。

嫌いな人が喜んでいても共に喜べないのです。どちらも問題点は同じなのを気がつきましたか?それは感情です。この感情をなんとかしないと迫害する者を呪い憎み祝福を祈るどころか呪いを祈ることになります。

詩篇22編のダビデの祈りをみてみましょう。敵に対して呪いの祈りをしています。しかし、その祈りの最後は呪いでは無く神への賛美で締めくくられ信仰に立ちます。神様は罪への呪いを祝福に裁きを赦しに、怒りを愛に変えてくださいました。

それは、神様を仰ぎ、イエス様の十字架を仰ぐ時のゆえにです。

どうして見捨て給うか。と十字架で祈る時、捨てられるはずの私たちが赦された理由をしるのです。罪人への裁きと呪いを赦しの愛と救いの祝福に変えてくださる恵みの前に、祝福を得て変えられなければならないのは私たち自身であることを知り御前にぬかずいてへりくだる者と変えていただけるよういのりましよう。

祝福を分かちあう心

ロ-マ 12:13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。

聖徒とは、クリスチャンのことです。学校で学ぶ生徒ではなく、神に学ぶ人たちです。ここにおける対象となるのは聖徒でも無ければ、旅人でもありません。

聖人の入用に協力し、もてなしを与える側に神様は語りかけています。

すなわち与える側の愛を実践するように語られているのです。

私たちが御ことばを実践できるできるできないは別で、従うつもりがあるかどうかなのです。聖徒の入り用、旅人をもてなす。なにも命を与えよとは言ってはいません。協力ともてなしは比較的できる愛だと言えます。

◆無償の愛の実践

聖徒は同じ信仰者ですから身近な人と言えます。旅人(巡礼者)は常に身近な存在だったのです。

身近な存在に出来ることをしてあげる愛。しかもキリストの愛で見返りを求めない愛。私たちはすぐに見返りを求めてしまいます。してあげたのにわたしが困ってても無視してるしありがとうもない。ありがとうは礼儀ですがこれは受けた側が求められることで与えた側が求めることではありません。あげたのに何の返しもしてもらったことが無い、見返りを求めそれが無ければ裁いてしまう自己の愛。

私たちはこのような身近な小さな愛にも利己的なのです。小さな愛ではなく狭い愛と呼べるかもしれません。

小さな愛も持たない私たちが御ことばに従い無償の愛を実践したいと求める心があるならあなたも聖徒です。そして聖書の言葉は人生を導く指針となります。方位磁石が常に北を指すようにどこにいても天の御国への道を指し示してくれます。

◆与えられ分かち与える神の愛

12:1霊的礼拝について語りました。神のチュー二ングを合わせ日々神の御声を求める者に生ける言葉は聞こえるのです。

12:13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。もう一度言います。これはクリスチャンが目指す見返りを求めない愛の実践、しかも大きな愛ではなくいつでもできる無償の愛なのです。

例えば、今私たちは天国の門の前にいると過程します。あと50cm 無償の愛を行うなら天国に入れます。しかし、私たちは見返りを求める愛になってしまう。ではどうしたらいいのでしょうか?

……………………無償の愛・あなたは持ち合わせていますか?

無ければどうしたらいいでしょうか?

ルターは言いました。主の祈りの「日毎の糧を今日も与え給え」とは食物の糧だけではなく私をキリスト者として生かしめる霊的糧なのです。求めなければ生きられないと知るキリスト者は今日も主に日毎の糧を求めるのです。と言いました。

キリストが豊かに持つ無償の愛の賜物を分けていただき12:13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。分かち与える愛を与えよと宣う主の声に従う者でありたいと願います。

信じる力

ロ-マ 12:12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。

◆望みを抱いて喜び

私たちは神にあってどのような信仰の望みを抱いているでしょうか?しかし、私たちが思っている望みは漠然としているかもしれません。

神様がくださる恵みの賜物は人間が約束しているのではなく全能の神様が約束してくださっているものです。ゆえに望みが確信のレベルになり望みを抱いて喜ぶことができるのです。

望みは、約束に対して抱くものですから約束を知らなければ望むことも少ないと言えます。私たちが抱く望みは天国をまず挙げますが神様は多くの約束を与えてくださっているのに知らないことは残念なことです。例えば、飢えた人が大金持ちが欲しいものを与えると言っているのに水だけ欲しいと言うようなものです。

信仰の望みによる確信からくる喜びを与えたいと願われる神様に感謝しましょう。

◆望みを喜びにする祈り

望みを抱いて喜び、と言われた言葉を読むと喜べないこともあるのかと考えたくなります。実は言うと信仰の歩みには喜べないこともあります。喜べることばかりじゃありません。パウロは信じたら悩みも苦しみもなくなるような幻想は語りません。なぜならイエス様を信じて誰よりも苦しんできたのはパウロだったからです。

だからこそ信仰の歩みに苦しみがあっても望みを抱いて喜ぶことことができるのは望みに対する約束への確信が神様にある喜びに立たせてくれることを分かち合おうとしています。

この望みはイエス・キリストにある望みです。この望みが喜びとなるには、イエス様にあるものに与えられるわけですからイエス様に繋がる祈りが必要です。聖書の約束から与えられる望みが知識から信仰に変わるためには祈りが必要です。なぜなら祈りは祈る者がイエス様から受け取る確信の信仰を与えてくれるからです。

◆望みと祈りを繋ぐ患難

望みを抱いて喜ぶために祈りが必要です。そして、望みが確信となり喜びとなるために祈りが必要ですが。これが、絶えず祈るとなるにはもう一つ必要です。それは料理の隠し味のようなものです。ピリッと辛いスパイスのようなものが必要です。それは艱難、試練です。神様は私たちが祈らないことをよくご存じです。絶えず祈り、信仰からくる望みの確信がリアルなものとなるために艱難があり絶えられないと感じる時、神様に依り頼まなければ生きられないと悟るときより頼むものと変えられるのです。しかしここで私たちの信仰があきらめの信仰ならば望みを抱いて喜ぶ信仰からはほど遠いものです。

私たちが望みを抱いて喜ぶ者となるために、祈り神に寄り頼む者としてくださる神様の大きな愛に信頼しましょう。

御霊によって生きる

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。

                                ガラテヤ5:22~25

私たちにとり生きる力はどこからくるのでしょうか。

食べ物、仕事、人間関係、健康などでしょうか。たしかに人が生きる上でこれらのものは必要不可欠です。しかし、これが私の生きる力であると言えるものがあるでしょうか。人が生きる上で力を得るのは肉体の力でもなく、食べ物でもなく、人間関係でも無く、健康でもないように思います。生きる力の根源の力は心に得られるものであり、心から出るものによるのではないでしょうか。心に生きる力が無ければ生きるために必要なものも役立たないのではないでしょうか。

◆生きる力を与える御霊

生きる力は御霊により与えられます。

御霊の実はどこに結ぶものでしょうか。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の9つの実はみなこころに結ぶものです。これらの物が植物の実に例えられたように、実は養分を貰い時を経て成長するもと言えます。心に結ぶ実が豊かである時、人間関係に表れる愛が豊かである時、良い関係が生まれます。喜びは心が見出すもと言えます。神様は御霊を人に与えられます。御霊は聖霊なる神、人と交わる人格神として私たちにお住まいになられます。いわばもう一人の人格を持つ人が私たちの中に住むことです。聖書によると悪霊が人に住むと人格破壊を持たらしますが、聖霊は私たちを神にある豊かな者へと導いてくださる方です。人を豊かにしてくれる力の供給源は御霊なる御聖霊です。御霊はこころにお住まいになり、イエス様への信仰を与えるために福音の御言葉に光を与え、悟りを与え、従う信仰を与えキリストに強いつながりを与え給うお方なのです。

◆御霊を消してはなりません

エペソ4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

悲しませることは神様の御こころと違う考えと行いをしていることです。

御霊はこころに住まう方であると共にその住まいから存在を消される方であるとも言えます。コロナ禍の中で送った昨年、何が起こるか予測できないのが世の中でありました。導き給う神様の御声に信仰を持って進めるようでありましょう。御霊の存在を意識し、心に語り導き、光を与えて教え悟らしめキリストに深く根ざすキリスト者とし給う聖霊を学ぶこの一年でありましょう。

霊に燃え主に仕えなさい

今日の聖書の言葉でパウロは3つのクリスチャンとしての生き方を薦めています。

①善に親しむ

愛に偽りがない。も数えたらもっとあるのではありませんか?と思われるかもしれませんがこれは善なる生き方に含まれますので1つと数えます。

しかし私たちは善に親しめない罪あるものだとパウロは言いました。

7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。7:19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。善に親しめない理由は罪の力だと。しかし、御霊は私たちを罪の力から解放し神の言葉に従える者としてくださいました。8:2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。8:3 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。8:4 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。

私たちの性質をキリストにより変えてくださる御霊の力が、善を愛し悪を憎む裏表の無いクリスチャンと変えてくださるのです。

②心から互いに愛し合う

信仰の交わりに必要なのは尊敬心が必要です。

兄弟愛は相手の事を思い自分を与える愛です。しかし、あなたの事を思って言ってあげてるのになぜこの愛が分からないの。と思う愛はどのような愛でしょうか。愛の押しつけ、上から目線の愛。尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。へりくだる者でなければないません。上から目線では尊敬は生まれません。   私たちは常に貧しい者であり日毎に与えられなけらば生きられない、心の貧しい霊的貧困者であり主に日毎求める者です。心へりくだり与えられなければならないのが自分であることを知るならば、兄弟愛と尊敬を持ち人と接することができます。

③勤勉で怠らず、主に仕えなさい。

霊に燃えが抜けているじゃないかと思われるかもしれませんがそうではありません。このことを話す前に勤勉であることについて話したいと思います。

勤勉なクリスチャンであるべきです。勤勉であることは、何かを思いつき情熱を持ち始めるよりも大変なことです。継続するモチベーションが求められるからです。

主に心を向けていき信仰を堅く守り、守らなければ悪魔はあなたの勤勉さの心に緩みを与えるだけで勤勉では無くなりさらに怠惰になり仕えることも捧げることもさせなくしてしまえば元の状態よりも悪くなります。そのエネルギーは主に心を向けて行くものだけが得られるものです。歩み続ける事が主に仕えることであり心を内燃させる福音により救われた私たちがどう歩むべきか今日もパウロが語ってくれています。勤勉であり続けることを助けてくださる主により心から主に仕えさせてくださいと祈りつつ歩みましょう。

キリストの体

【福音により集められた群れ】

それが教会です。そしてどういうのが教会なのか

【教会には同じ動きをするものはない】

(4節) 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、教会はキリストの体です。人体に例えられる体はみな同じ動きはしません。いわばバラバラな動きをしています。

【同じ動きをしないのが教会の姿】

教会に人数まだ少ない頃は、教会の活動も何をするのも皆で活動します。

しかし、人数が増え奉仕を分担するようになると自分の担当する奉仕以外のことは分からなくなります。しかし、これは成長し働きが拡大したといえます。

聖書はこのようになるのが体として当然の姿であると、(4節)すべての器官が同じ働きはしないと説明しています。つまり望むべき姿であると言っています。

【賜物により動く教会】

(6節)私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので

私たちはみな賜物を持つ者たちです。すなわち、自分で獲た物以外のものを持つ者はみなギフトにより生きています。

自分の体を鏡で見てください。どれか自分で創ったものはありますか。みな創り主が造り私たちにくださったもの、ギフトです。

人と違う何かの才能、技能を賜物と呼ぶのは的を得ていません。それらのものは生まれつき得ている人はいませんし努力し習い身につけたものです。後からの賜物と呼ぶ人もいますが無いなら求めて得られるものとも言えます。

【大切なことはキリストにあること】

大切なことは、(5節)キリストにある、と言うことです。教会の人数が増えお互いのことが分からず、活動で何をしているのか分からなくても一致がないのではありません。どれほど大きな教会も、素晴らしい説教も、建物も、奉仕も、キリストに繋がろうとしないものは教会としての意味を持ちません。(礼拝、聖研、家庭集会、役員会であってもそうです)これらのものが他の集まりと違うものでなければなりません。

それはキリストにあって、と言う集まりでなければなりません。

一人一人がキリストにつながっていることです。ただ胆に教会に来ているとか奉仕しているとか、問題ではありません。教会は共同体であることを重視しますが神様に繋がるのは個人的なことです。教会が救われるのではなく個人が救われるからです。家長が救われたから家族が救われるわけではないからです。

だからこそ一人一人がキリストに繋がる、キリストのある、キリストとともにある、キリストの内にある希望、キリストの恵みのうちにある者として歩みましょう。

信仰の量りに応じて


◆キリスト者としての歩み

ローマ1章から12章までは福音による救いについて12章から福音により救われた人がどう歩むかについて話し始めています。

(2節) この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

神様に焦点を合わせた歩みに自分を変えていく事を薦めています。

◆霊的な礼拝

キリスト者として生きるために「自分を変えなさい」と語っています。

なにが変わらなければならないのか?この世と調子を合わせる生き方が波風立たないし無難な生き方ですがそんな生き方が福音を信じた私たちの信仰の道として、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、ることなのか問われ神の教えに適う自分に変わらなければなければなりません。

私たちがこの世と合わせるのではなく、神の御心に合わせる生き方に、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。と語られる生き方こそ神を日々仰ぎ見る礼拝でありなさいとパウロは薦めます。

◆慎み深い考え方を

12:3節では「思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。」と注意を促しています。

私たちの心は何を思おうが自由ですが、思うことが必ずしも益となるわけではありません。心は神の前に罪を犯すからです。すなわち心で信じて義と認められるのも心なら、心で不満と不平、自己正当化で神に思い上がるならば命の道から踏み外してしまうからです。

例えば、どうしたらいいんですか?と問う時、答を求めてそう問うのか、それとも疑いを挟んで問うだけの疑念を挟んだだけの問いとの違いは何か?

心に思うことは信仰にもなり不信仰にもなる。だからこそ慎み深い考え方をしなさいと語ります。

◆信仰の量り

信仰の量りとは自分が今、信仰の確信として持てる自分の心の器の量です。

私は神様の恵みにより頼んでいますが、今確信を持ち進めるのはここまでです。

後は、神様に祈り、答を待ち進むか立ち止まり待つか、次の導きを祈るか?

神様に自分思いを押しつけるような思い上がるような自分であるなら、神と向き合う日々の霊的礼拝の中で自分が聖霊により新しく変えられていくものとなるお互いでありましょう。

キリストの心があるのです

◆神の御こころを知る御霊

(11節) いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。

自分の心は自分のみが知る所です。他人にその思いを共有することを強いることはできません。できることがあるとするならば、ただ思いやるのみです。

神の思いを誰が知ることができたでしょうか。天地を創り人を創造された神が背かれ続け、それでも見捨てない神様のこころを誰が知りその計画を共有したでしょうか。 聖書は言います。神の御こころは御霊が知っていると。

(12節)ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。神の御こころを唯一知る御霊が私たちに与えられているとパウロは語ります。

ならば神様の御こころを全て知り得るのかとそうではありません。御こころを知る御霊が教えてくれることのみです。

私たちが知り得るのは神様の恵みの賜物、すなわち信仰に関する賜物だけです。

例えば私たちは病院に行き自身の病気と治療、手術ならば懇切丁寧に手術のやり方まで聞きたいでしょうか?私たちが聞きたいのは可能性があり治るかどうかだけです。全てを知るのは担当医だけでいいのであり、後は信じて委ねるのではないでしょうか。

◆キリストのこころ

(16節) いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。

御こころを知り、神にも勝る知恵と知識、新しい計画を持ち得る人はありません。

なのに人はなぜ神様はと奢り疑義を挟むのでしょうか。

おもしろいのは次の言葉です。ところが、と言うパウロです。次ぎに来る言葉が、思い高ぶらずへりくだり信じなさい。なら分かるのですが、ところが、神の御心も計画も計り知れない神の思いに比べるべきもないことは百も承知、私たちに与えられた御霊は何よりも大切な賜物を下さっているとパウロは言いたいのです。それは、キリストの心です。信仰と愛の心が御霊により与えられていると。

以前にイエス様のこころについて語りました。それは病に苦しむ人が御こころ一つで癒されますと言い言葉で癒されることを求めたにも関わらずイエス様はわたしの心だと言われ病人に触れられました。それは苦しむものに触れ愛を持たれるイエス様のこころでした。私たちには神様の御計画や御心についてどうこう言うことができる知恵や思慮があるわけではありません。イエス様は御計画と御心を成就する当事者でありましたがただ信頼して従う十字架の道を歩まれました。私たちは神様の御こころに理解が及ばず自分の思い通りに「ならなくても、最善に無し、説きに逃れの道をも供えてくださる神様に信頼し、イエス様の思いに満たされて信仰と神様への愛を下さる御霊に導かれて歩みましょう。

霊的な礼拝

ここからパウロの話しの内容が転換して行きます。これまで、福音による救いについて語ってきました。ローマ書の最後の詰めで、救われれた者がどう生きるべきかについて語っています。言わば救いの目的であり最も重要な部分とも言えます。

◆問題提起

1節の霊的礼拝とは何かを理解するために2節から考えてみましょう。

この世と調子を合わせてはいけません。「調子」とはリズムのことです。

私たちは良きにしろ悪しきにしろマイペースで生きています。自分なりのリズムがあり周りとの違いのなかで合わせることは自分のリズムを崩しストレスにもなります。  

しかし、周りから浮いた存在とならないためには合わせなければなりません。人と合わせて生きることでストレス社会に少しでもストレスの少ない生き方が出きる方法を探りながら生きています。すなわち、周りと違うリズムで生きることによる自分のリズムが不協和音となり和を乱すことを避けようとしなければならないと信じて生きてきたわけです。世と調子を合わせて生きる。クリスチャンとしての生き方にパウロは問題提起しています。

◆神に合わせる生き方

何も周りを気にせずマイペースで生きなさいとか、その逆に合わせて生きなさいと言っているのではありません。そのどちらでもないのです。

神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る

神様に合わせる生き方がある。それがクリスチャンとしての最善の生き方がある。と薦めているのです。神様とチャンネルを合わせて生きる時、神のみこころは何か何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知ることができる、迷いのない生き方をすることが出来るようになるのです。

◆霊的な礼拝

(1節)心の一新によって自分を変えなさい。

すなわち、そんな生き方はやめなさい。と言っています。チャンネルを変えなさいと。

(1節)あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。

世のリズムと合わせようとして心砕いた生き方が私たちの人生に何の益をもたらせてくれたでしょうか?合わせるチャンネルは1つなのだとパウロは言います。その生き方に身を捧げることが霊的礼拝なのだと。

私たちはその心のチャンネルを常に神様に合わせているでしょうか?

そうでないなら心のチャンネルを神様に合わせて歩む互いでありましょう。

測り難し神の御計画

◆測り難し神様への信仰

(33節)ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。

(別訳) ああ、深きかな、富と知恵と知識、極めがたき神の裁き、尋ね難きその道は。

全能の神、全知の神、愛と恵みに富む私たちの主について、人はどれほどこのことを受け入れているでしょうか?

いつも神を測ろうとする人間―私という物差しで測ろうとする人間、測れないと、何故、どうしてと、測れないことが間違っていて理不尽であるかのように思ってしまう人間。

神の深さ、大きさ、測り難いと言うことを受け入れることができるのは知識ではなく信仰しかありません。

神の救いについてパウロは語ります。改めて神の深さを知るとき、ああ、と感嘆しか出ない。ギリシャ語ではΩ。日本語では ん ですが。驚きとこれ以上語る言葉がないのが感嘆すると言うことです。

◆その次ぎも信仰

(34節) なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。

イエス様は神の御心を知りどうしたでしょうか?御計画に対して、私は父なる神とは違う意見なんだけどと言われたでしょうか。十字架なんか止めて、    

人類を救うことは止めて新しく創り直せばいいじゃないですかと言ったんですけどね。と言われたでしょうか?

イエス様は神様の御計画にただ従われました。これが信じて歩む道です。

教会はどうでしょうか?働きの計画を立て、意見を陳べます。神様は委員会を開き意見を求められません。何故?神様は全知全能だからです。最も良い計画を立てられご自身の方法を進められるからです。私たちはこのことを受け入れているでしょうか?

何故神様はと、イスラエルの民は受け入れませんでした。

私たちもそうなうかもしれません。大切な事は、神様のなさることに意見を言うことではありません。

神様の御計画に意見が言えるような知恵をもたない私たちは信仰をもって受け入れる。御計画を受け入れることのできる心は信仰しかありません。

(36節)どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

見てごらんなさい

パウロは何を見てご覧なさいと言うのでしょうか。それは、神のいつくしみと厳しさです。

(22節)見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。

それは親としての愛に例えられるものです。神様の厳しさは懲罰としての厳しさではなく学ぶための厳しさと言えます。鞭を与える厳しさと痛みと言えます。私たちには時に試練と言う形で臨みますがそこに神様の厳しさという形の本当の愛があります。

◆神の厳しさ

罪と死の力に支配され、それに心をゆだね流されようとする人間に、滅びを止めようとする神の愛が厳しさとなり現れています。

神様の厳しさは、愛の無い見捨てるような厳しさでないとパウロは言います。

(11節)彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。

(1節)神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。

(9:14)神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。

(10:18)はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。

神様の厳しさは救いの恵みとともに現れています。

①ノアの箱舟―洪水により滅びは厳しさです、ノアが洪水を伝えたのに誰も信じませんでした。 箱舟は神の愛と恵みを現しています。

②出エジプトー叫びを聞きエジプトの巨大な支配と奴隷から救われたのは神の愛です。荒野の旅の厳しさでしたが神の恵みを経験した民は、現状への不満を言い続け、新しい神を立て昔のままの方が良かったと思いました。彼らは約束の地へたどりつけませんでした。これは神の厳しさです。

③イスラエルの民―神の恵みの福音イエス様)を拒否して、福音は異邦人への恵みとなりました。それは厳しさと神の愛を現しています。

④残りの民―終わりの時代に艱難と悪魔の思想、支配という裁きの厳しさ、しか

し主の再臨と救いに神の愛が現れます。

◆神のいつくしみ

あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。

彼らの違反によって/彼らの捨てられること/ 彼らの違反が世界の富となり/

彼らの失敗が異邦人の富となる。  私たちは福音を拒んだイスラエルの民の不信仰、それが私たちへの宣教へと繋がっていることを知らなければなりません。イスラエルの民もまた異邦人が救われて行くことでねたみを引き起こさせ行いではなく恵みによる救いが民の出発点であることを気づかせてくださる恵みが残されているのです。

イスラエルの民の不信仰を見てごらんなさい、同じ失敗を私たちも繰り返し神の厳しさが臨むかもしれないことをパウロは警告しているのです。これは神様の愛です。神様のいつくしみと厳しさの愛の恵みに信仰の姿勢を正して歩む者でありましょう。

ただ神の栄光を現すために


本日の聖書の内容には偶像礼拝について語る部分もありますが、その部分については又の機会にして、神の栄光を現すクリスチャンの生き方について触れたいと思います。神の栄光を現すのは神を信じる者の使命です。

◆神の栄光の意味

神を知らず、見失い生きる方向が分からない世界に対し神の栄光の光を現さなければならないのです。私たちにはその使命がありその事ができます。クリスチャンであり信仰がある人にしか出来ないことがあります。

31節何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。

栄光を現わしなさい。と言われて、具体的に何をどうすれば良いのかわからないのがこの言葉です。

このことを理解するために3つのことを理解しましょう。①栄光とは②何故栄光を現すのか③栄光を現すにはどうすればよいのか

①栄光

辞書には、「大きな成功や勝利、名誉、輝かしい誉れ」

グローリ―、シエキナー(輝くもの、誉れ、栄誉、成功など)神の神殿が建てられソロモン王が奉献の祈りを捧げた時、神の栄光の雲が満ちました。栄光は神様の存在を現し、性質、声、が人の心に触れる物です。Ⅱ歴代誌7:1~3参照

②栄光を現す理由

栄光を現す理由は私たちのためです。神様がお一人なら栄光を現して何の意味があり、誰がその事で影響を受けるでしょうか。ですから神の栄光は私たちの益となるためです。栄光は神様の存在をあらわす方法なのです。

◆神の栄光を現す方法

③栄光を現す方法について

神様を知らない人が私たちの何を見て神様を知るでしょうか?それはこの人は神様を信じて生きてるんだと分かる行動です。30節もし、私が神に感謝をささげて食べるなら、私が感謝する物のために、そしられるわけがあるでしょうか。

31節 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも…

神様の食卓からこぼれ落ちる恵みをいただいていることを表す簡単な方法それは感謝の祈りです。祈る姿で神様を信じている信仰に触れるのです。何をするにも、祈ることにより信仰が表れるのです。

りっぱな行動で栄光があらわれるのではなく、あらゆる時に常にささげる感謝の祈りが神の栄光をあらわすのです。

もう一つの神の栄光を現す行為、それは愛により働く信仰の行為です。

27節もし、あなたがたが信仰のない者に招待されて、行きたいと思うときは、良心の問題として調べ上げることはしないで、自分の前に置かれる物はどれでも食べなさい。

28節 しかし、もしだれかが、「これは偶像にささげた肉です。」とあなたがたに言うなら、そう知らせた人のために、また良心のために、食べてはいけません。

29節 私が良心と言うのは、あなたの良心ではなく、ほかの人の良心です。

お供えものを貰い食べている牧師の姿を見て躓く人もいるのです。自身の信仰を堅く守ることも大事です。しかし、救いの本質に関わらないならば配慮にで現す信仰の愛は神の栄光を現すからです。

今年、信仰の祈りと愛を現すことで神様の栄光を求めるクリスチャンでありましょう。

Ⅰテサロニケ5:17-18 絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

福音の喜び

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。

寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

                           Ⅱテモテ4:2

◆宣教の喜び

今年度の教会のテーマは「福音を宣べ伝えなさい」です。今年をふり返り伝道のやりやすい年だったでしょうか。年間計画を立て一年間の伝道計画に皆で祈り、献金し協力して進めようとした矢先にコロナ問題で多くの計画にブレーキがかかりました。キリスト教の歴史の中でも迫害でも無いのに働きにブレーキがかかるなんて考えてもみない驚くべき重大事件です。その歴史的事件の中に私たちは今置かれているのです。

(2節)みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、と語るパウロは迫害と妨害、福音宣教のやりにくい中で福音を伝えました。テモテはパウロと共に伝道する若き伝道者でした。使徒の働き16章のパウロの第2回伝道旅行で初めて登場します。父はギリシャ人、母はユダヤ人のハーフです。

テサロニケでの妨害、訴訟、罰金などの迫害の後、ベレヤに逃れましたがテサロニケの群衆は徒党を組んで妨害に来たときパウロのみアテネに逃れさせテモテはイエス様を信じたばかりの少数の群れのために危険を顧みずそこに留まったのです。使徒17:14そこで兄弟たちは、ただちにパウロを送り出して海べまで行かせたが、シラスとテモテはベレヤに踏みとどまった。

迫害という抗しきれない力に対し「踏みとどまった」テモテの信仰と宣教の思いが溢れています。

ベレヤに住む人たちは迫害下の中でも他に移住できないでしょう。自分たちだけ安全な所に逃げる事はせず共に苦楽を共にし踏みとどまる時、主に従う福音宣教の喜びがあったのではないでしょうか。

◆信じる喜び

テモテが何故、迫害の中でも踏みとどまることが出来たのでしょうか。それは「福音の喜び」を持っていたからです。福音は知識でもあるのですが、信じると信仰から流れ出でる喜びが心に入ってきます。福音の喜びは2つに分けられます。①信じる喜び と②宣教の喜びです。

宣教の喜びに先立つのが信じる喜び。それは救いの喜びです。イエス様と個人的な関係で繋がる喜びです。福音によりイエス様に愛される喜びと、愛する喜びを十字架により与えられ、様々なイエス様の教えで信仰により生きる力が与えられ、よみがえられたイエス様が今、生きてともにおられ証しを示してくださる方が共におられる交わりあることを喜ぶのが信仰の喜びです。

時が悪い今、私たちも喜びを忘れ失うならば悪い時代の考えに流されてしまいます。福音の喜びの泉であるイエス様との交わりと、宣教の困難な時代に置かれても主への信頼に踏みとどまり、歩む思いを新たに、新しく来る年を迎えましょう。

救い主の誕生

ヨハネ 3:16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

◆イエス様の誕生それは私たちへの問い

対人関係のやりとりがキャッチボールに例えられますが、神様とのやりとりもまた同じ事が言えます。

イエス様が来られるまでは神様から投げられるボールをひたすら待ち続ける時でした。救い主を与えられた人類は神様からのボールを投げられています。そして、その投げられたボールをどうするかを問われています。

◆問いに対する応答

(10節前半)あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。

イエス様が誕生された当時も政治や社会も腐敗と争いが満ちた闇の世界でした。そんな世の中はイエス様を妬み、怒り、偽証により異分子として十字架にかけ排除しました。イエス様の存在は神様からのボールでしたがそれを受け取りませんでした。神様が救い主を送りましたがあなたはどうしますか?と問われています。

聖書は神様からの手紙です。そこに重要なメッセージが書かれています。預言者に託し、愛、慰め、励まし、希望、救い、警告、注意喚起、哀願、予告等

私たちはそれを信じました。それを人々は宗教と呼びます。そして、非科学的な人たちだと言う人がいます。科学で証明できないことが迷信でしょうか?それなら科学も迷信です。証明できないで仮説のままや理解できていないことばかりだからです。神様は人が信じられない奇跡をあらわし、あなたはこれを信じますか?と問われます。理解できますか?ではなく信じられないような事を起こされ、信じますか。と問われるのが神様です。信じますか?それは信仰であり、神様との愛と信頼関係で結びついた関係をお望みになっておられる方なのです。

◆イエス様の誕生は神様との関係回復

あなたは誰かから手紙をもらいました。その内容を信じました。それは宗教でしょうか?イエス様の誕生が私たちに投げかけ今問うことは何でしょうか?

イエス様の誕生は信じる者に救いをもたらしてくれるものです。

イエス様を信じる事、それは天国の鍵です。天国の鍵は死んでから開けるものではありません。最近は金属の鍵ではなく、カードキーや顔認証、指紋認証、角膜認証、ID認証で扉が開く時代です。扉が開かれるためのは鍵が必要です。

天国の門は信じた時に開かれました。天国は贖われていない肉体は入れないので死んでから肉体を脱ぎ捨てなければ入れませんが、今私たちは鍵が開かれ天の住人なのです。

 イエス様の誕生、それは私たちへの神様の愛、救いをもたらされた到来の喜び、天国への希望、神様との信仰による個人的な関係の回復なのです。

私たちの生きる力を与える希望(10節後半)この方こそ主キリストです。