信仰は聞くことから

前回のテーマは「心に信じて義と認められ」でした。信じるためには聞かなければ信仰は呼び起こされないとパウロは語っています。

(14節)しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。

パウロはまた聞いてもすべての人が信じるわけではないとも語ります。

(16節) しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。」とイザヤは言っています。

◆聞いて信じるとはどういうことでしょうか。

(17節)そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

確かに、すべての人が福音を信じるわけではない、しかし、信仰の始まりはイエス様の福音を聞くことから始まります。

私たちの信仰にとり「聞く」ということは最も重要なことです。ユダヤ人の家庭の入口には必ず小さな箱が付けられています。その中には小さな紙がありこう書かれています。「シェマ」聞けというヘブライ語です。

古来よりイスラエルの民は聖書を読む民ではなく神の言葉を聞く民です。

聖書は羊の皮の巻物で手書きですから誰でも持つことができるものではありません。礼拝で巻物の聖書朗読を聞くことから礼拝が始まり心に信じて神と繋がります。ですから聞くことが重要な礼拝になるわけです。

聞く場合他のことをしていると聞いたことを忘れてしまいます。忘れないために書き留めるかしなければ思い出すこともしないでしょう。他のことを考えていたり心ここにあらずの状態あったりすれば聞く耳は整えられてはいないのです。聞く事は聞くための備えが必要です。

イエス様は群衆にこういわれました。「聞く耳のあるものは聞きなさい」聞くことは今この場で神の言葉を聞く耳を整えて聞き、心に信仰が呼び起こされ応答することなのです。

◆聞いて信じないかった民に対して神様はどうされたでしょうか。

では神様を信じない人たちは神(18節)でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」

聖書を持つイスラエルの民も持たない民にも神様は語りかけておられたとパウロは言います。

1:19 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。

1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

たとえイエス様の福音を聞くことがなかっとしても、被造物によって創造主の存在は明らかであるにも関わらず教育は目を開かせるどころか神を見えなく曇らせてしまいました。

(19節)でも、私はこう言いましょう。「はたしてイスラエルは知らなかったのでしょうか。」まず、モーセがこう言っています。「わたしは、民でない者のことで、あなたがたのねたみを起こさせ、無知な国民のことで、あなたがたを怒らせる。」

イスラエルの民は被造物によって神様を知るばかりではなく、神様からの御言葉でしる特別な民でした。しかし彼らの不信仰もまた特別でした。なぜなら、異邦人はパウロの宣教によりユダヤ人」よりも多くの人が信じた「からです。

しかし、神様「は頑な民を見捨てたわけ「ではありません。神様への熱心を逆手にとり恵みを異邦人に与えることでねたみを起こさせ、神を求める思いを起こさせようと計画されたことをパウロは語ります。

神様の愛は(21節)「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」限りなく深く広い愛なのです。

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