満ちあふれる祝福を持って

◆祝福を携えて

パウロはまだ会ったことのないローマの教会の人たちに満ちあふれる祝福をもって会いに行きたいと強く望んでいました。

その思いは第1章にて語られた通りです。

 ローマ 1:10いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。

いつも教会のために祈り、一人一人の為に祈るならばその人たちに会いたいと熱望するのは人情なわけです。

永らく会わない友に会う時はたくさんのお土産と家族の土産話し、昔の懐かしい話など溢れんばかりに持ち友人を訪ねます。パウロが多少のお土産があったとしても何よりも携えて行きたいのは働きの中で神様が下さった祝福の話しでした。その祝福は教会に与えられるものでありローマの教会にも同じ恵みの祝福が与えられるkとを伝えたかったのです。

パウロは教会の人たちに会ってなにがしたかったのか次のように述べています。

  ローマ 1:11私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。

御霊の賜物とは信仰の賜物です。信仰は賜物であり神様からのプレゼント、自力で持ちえたものではありません。この信仰の恵みを分かち合い信仰を強くしたいと望んでいました。

励ましにより信仰を強くされて乗り越えて行く苦難多き世の中があるからです。

教会が交わりと励ましにより聖霊の恵みが注がれることを確信するからです。

◆溢れる祝福を届ける使命

パウロはローマに行った後の計画も考えていました。それはイスパニア(スペイン)です。

スペインはすでにローマ帝国の支配地でした、そして西の果てでした。地の果てまでも福音を伝えたいと望むパウロのあふれる福音宣教の思いが溢れています。

パウロのあふれる思いは自分のしたいことを優先させるような働きではありませんでした。

今はエルサレムに支援献金を持ち助けなければならない時でした。

26節それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです。

まだ会ったことはなくても神の交わりをいただく者たちには交わりの方法があります。

祈りと支援です。

マケドニアはアカヤ州首都でした。アレクサンダー大王はマケドニアの王で西インドまで征服しました。マケドニアに住む教会の人たちが、まだ会ったことのないエルサレムの貧しい人たちの窮状を聞いて支援金を集め助けたいと思い行動しました。

何故そうしたのか。それは福音を聞いて信じたからです。福音は情報伝達であるとともにキリストの心を伝えることです。愛された事を知った人たちがその心に実る愛を他者に注ぐようになるのは当然でした。これが交わりです。

私たちもいただいている祝福を携えて分かち合う交わりを大切にしましょう。

成長を遂げる望み

ロ-マ 15:14-21

15:14 私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。

15:15 ただ私が所々、かなり大胆に書いたのは、あなたがたにもう一度思い起こしてもらうためでした。

15:16 それも私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。

15:17 それで、神に仕えることに関して、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。

15:18 私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。キリストは、ことばと行ないにより、

15:19 また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。その結果、私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。

15:20 このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。

15:21 それは、こう書いてあるとおりです。「彼のことを伝えられなかった人々が見るようになり、聞いたことのなかった人々が悟るようになる。」

           『成長を遂げる望み』

◆聞く耳があること        

14節 私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。

 みなさんは、昔の自分に出会うことが出来たら何を話しますか?未来の自分から過去の自分へのメッセージです。そして、また、今の自分の言葉を過去の自分は素直に聞いてくれるでしょうか?あの時、失敗した自分に注意して変えられたらもう少し良くなっている現在になっていたのにと思う。だから、過去の自分に言ってあげられるといいのにと思う事。すなわち、今の自分を変えることになるのです。

(※しかし、あの時、選択をした自分へ止めろと言うメッセージではなく選択する自分への注意。)今の自分を変えたい、だから過去の自分に言いたいことがある。  

しかし、過去の自分に今の自分の言葉を聞く耳がなかったなら変えられない。

今の自分が聞く耳がないのに未来の自分から何か言われても聞く耳があるとは思われません。過去は変えられないだから今、未来に向かう自分を変えられるのは今なのです。いつ自分を変えたいですか?今でしょう。

成長し自分に変化をもたらすのは自分です。他人がしてくれる訳ではありません。大事なことは聞く耳心を持つことです。

◆成長を妨げるのは自分

14節訓誡しあうことができると確信しています。

訓誡、すなわち注意を受ける時は成長のチャンスです。子供であれば注意し従わせる事も出来ます。しかし、誰でもこのように思うわけではありません。

成長しないクリスチャンであり続けます。そんな自分を新しく変えたいと願う事を私は希望します。打開を願うなら方向転換しなければなりません。

聖書の御言葉で、、これは比較的低いハ一ドルですし、常に機会を与えられています。人の訓誡はそうは行きません。ある女性からの悩みにこういうものがりました。

注意やアドバイスを素直に聞けない。真剣に悩んでいます。

●長文失礼致します。

今年二十歳になる大学生の女です。私は頑固で妙にプライドが高く、ひねくれ屋で、何でも考えすぎる頭でっかちなタイプです。そのせいか幼い頃から、人から受けた注意や指摘・アドバイスを素直に聞くことができません。

叱られたり注意をされたり「〇〇した方が良いよ」と言われると無性に腹が立ち、自分全てを否定されたような気分になり、「勝手に言ってればいい」と思ったりあからさまに不機嫌な顔をしてしまいます。

諭すように言われるとイライラし、怒鳴られるとふて腐る自分が嫌いです。

自己啓発の書籍やコラム、テレビの占いでのアドバイスを見かけただけでもイライラしてしまいます。

こんな性格のせいで人間関係を壊すこともありました。高校時代は、同期のアドバイスを素直に聞かないのが原因で部活を辞めることになりました。世話好きで何でもポンポンと口に出す母親とは、もう6年程仲が悪い状態が続いています。

変にプライドが高いせいで、悩みを相談したり、わからないことを質問することも余程でないと出来ずにいます。私はできた人間ではありません。むしろ普通よりも取りかかりが遅く、要領も悪い方です。それがわかっていても質問することで、自分が馬鹿な人間だと思われたくないのです。

先日、バイト先の店長に「素直に質問してこないのはお前くらいだ」と言われ、無愛想な態度をとってしまいました。店長に嫌われたかもしれません。

★どうすれば注意やアドバイスを素直に聞き入れ、自然に「ごめんなさい」「すいませんでした」「わかりました」と言えるようになりますか?

質問や相談をもっと気軽にできるようにするにはどうすれば良いのでしょうか?

正直、これから社会人になることに自信が持てません。打たれ強くなりたいのです。

(回答をきちんと受け入れられるかわかりませんが、できるだけ努力したいので、何かアドバイス頂けると幸いです。といってもどう努力すればいいのか、正直本当にわからないのです…

仕事をするにしても勉強をするにしても料理を作ることだって、誰にでも得意・不得意な分野があるでしょう。本人がいくら努力をしても努力しなくても完璧にこなしてしまう人がいたら「私はできないのか……」と自信を無くしてしまうかもしれません。良かれとおもって周囲の人が言ってくれるアドバイスすら素直に聞くことができなくなっている、という人がいました。

『人からアドバイスを受けると、”アンタはダメ人間”と責められているように聞こえます。とにかく、自分を否定されているようにしか感じられず、嫌な気持ちになります。完璧に業務を遂行したい。どうすれば完璧にこなせるかを常に考えています。それには、他人からの指摘も必要です。が、言われた瞬間、無能! の烙印を押された気持ちになります。どうすれば、素直に他人からの指摘を聞けますか?』

◆キリストに耳を傾ける

15節 ただ私が所々、かなり大胆に書いたのは、あなたがたにもう一度思い起こしてもらうためでした。

思い起こしてください。14章で考えの違いで侮り裁き合うのではなく存在を受入キリストのようにへりくだり神の御心に一つとなることができる所が教会であることを。

ローマ書を話し講解してきましたが教えはここで終わりです。あとは交わりのあいさつです。互いに訓戒しあうことができるほどにキリストの言葉に目を向けられるお互いでありましょう。

心を一つにする教会

 ローマ 15:1-6

15:1 私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。

15:2 私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。

15:3 キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。

15:4 昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。

15:5 どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。

15:6 それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。

『心を一つにする教会』

◆心を一つにする神の恵み

同じ思い、心を一つにすることは簡単なことではありません。

一つ目標に向かい取り組んでいてもそれぞれの意見がありますから、そこで出された意見が否定される批判され攻撃の言葉で意見が言えなくなってしまう。そうすると声の大きい人の意見が通り心が一つにはならないことがあります。言わば強い人の意見が通り弱く声の小さな意見はかき消されてしまいます。

教会は強い人の意見も弱い人の意見もことさら重要視するところではなく互いにキリストの言葉と御こころに心をむけ一つとなる所です。

5節後半 互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。

互いに同じ思いになるように。と語る聖書の言葉は別の角度から言えばそれぞれが違う思いがあることを表しています。だからこそ、同じ思いになるようにと語るのではないでしょうか。

14章で学んだようにお互いの意見が違ってもさばき合わず否定しない。批判しないなど妨害とつまずきを置かないことの大切さを教えていました。

考えが違い心を一つにするために大変な努力と忍耐を必要とするでしょう。

5節前半 どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、

わざわざこの所で忍耐と励ましの神との言葉を挿入するのも、心を一つにすることの難しさ、忍耐と励ましが必要であるからです。

話し合い、意見調整、問題点をどうするか?協力者は?費用は?その他様々な意見の違いを調整しなければならず時に意見の違いから協力しないとなるかもしれません。そんな時に私たちは一致することをあきらめてしまいます。

私たちはこの働きが自分のサークルのような思いでいるなら気に入らないなら止めるのもありでしょう。しかし、この働きが主の救いの事業であることを理解しておくべきです。

趣味の教会、気の合う人たちの集まり、意見が合わないなら止めてしまえばいい。教会はキリストの教会です。主が私たちを召し出しご自身の命の代価で贖われた尊い集りなのです。

◆心を一つにするキリストの模範

心を一つにするには謙遜が必要です。聖書は、キリストが十字架の苦しみと死さえも自分の思いではなく神の御こころを第一にされたことを取り上げています。

3節 キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。

私の意見を強固に主張することなく、また意見がくみ取られないと主張することなくキリストの教会にとり益となるために互いの心が聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。

声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。そのような教会である信仰の集まりが一つとなるために、5 どうか、忍耐と励ましの神が、いなければ教会は今は存在しなかったでしょう。

◆忍耐と励ましを与える神の言葉

4節 昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。

人の励ましは助けとなり励ましとなるでしょう。しかし、神ことばから与えられる励ましはその人を神への信仰へと結び付け永遠の命の確信がより深くなります。

私たちは御言葉により導かれ歩みを励まされ主の御こころに一つであることを求める教会の結びつきでありましょう。

役立つことを追い求める

ローマ書 14:13-19

14:13 ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。

14:14 主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。

14:15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。

14:16 ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。

14:17 なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。

14:18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。

14:19 そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。

          『役立つことを追い求める』

◆神に喜ばれる歩み

(18節) このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、と聖書で奨められる歩みをすべきです。

神に喜ばれる生き方の目標は三つ、(17節) 義と平和と聖霊による喜びです。それは、神の義(信仰)、神との平和、聖霊による喜びある信仰を目指して生きる歩みです。

信仰の父アブラハムのように神の言葉を信じて歩む事、神の赦しである十字架の和解を得て神に近づき、信仰が生きた信仰となるために聖霊による導きによる喜びに歩めるお互いでありたいと願うのです。しかし、信仰の歩みはアスファルトの道、車で進める道ではありません。また観念的なものではなく信じえない時にあなたは私を信じるかと問われる歩みの中での信仰なのです。

では、この聖書の語る困難な問題点について考えてみましょう。

◆教会の問題

著者のパウロは教会に起こる問題に手紙を書きコメントしています。14章でこれまで見て来た問題を覚えているでしょうか。それは、食物の規定に関する問題でした。そこで起こる問題は妨げになるもの つまずきになるもの 互いにさばき合うということです。

妨げとは妨害することであり攻撃することです。つまづきを置くこともまた進路妨害です。つまり理解と信念、信仰の考え方の違いからくる問題を批判しあう事における争いです。

(13節) ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。

この言葉を見ると教会が世間が考えるような聖なる厳かな場所ではないことがわかります。

たがいにさばき合うことがありました。別な言葉で言うと傷つけ合うことが行われていました。カウンセリングが必要かもしれません。問題発生する集りでした。

建物で言うと段差のある家にたいらな所でバリヤーフリーのつまずかない場所ではありませんでした。人は高い段につまずくのではなく畳のヘリのような、あるかないかの段につまずいてこけてしまうのです。教会のつまずきは畳敷きの日本家屋のような住まいと言えます。

では教会にどんなつまづきがあったでしょうか?

(14:2) 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。

(14:15) もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。

すなわち「飲み食いのこと」でいがみ合い争いがおきていました。はた目から見て大した問題ではありませんが(しょうもない事)です。出来れば関わらずに当人どうしで解決してもらいたいことです。

パウロはどちらの側にたち解決したでしょうか?

皆さんはどちら派?問題が起きた時、わたしの意見を聞いて欲しい、理解して味方になって欲しいと思うものです。

①聖書に書かれたように神の御こころは食物規定を守るのが信仰的に正しく穢れたもの食べることは信仰が堕落している行為。

②神様はすべての食物をくださったのでお供え物も含めて気にせず食べて良い。

問題は大したことではありませんが問題が発生して当人同士がさばきあい傷つけ合うことによる結果がもたらす傷が問題であり波紋へと広がります。ゆえにパウロは小さな問題ですが放置しませんでした。

◆お互いの役立つことを目指して

  • 私は聖書のことばに従い肉を食べません。酒を飲みません。これが私の信じていることです。
  • 私は食物はすべて神様が与えてくださったのですからお供え物も神に感謝して食べます。

②が①を律法から解放されたのに今も縛られてると批判し言葉の口撃をしたとします。

すなわちそれをもうさせまいとしての正論かもしれませんが口撃しさせまいと妨害しているのです。たとえそうなったとしても自己満足に過ぎないのです。教会でお供え物を出され食べる人はどう感じるでしょう。良心が痛むのです。食べながらこれは罪ではないかと思いながら食べるならそれは罪なのです。なぜか?食べないことで神の言葉にしたがい喜ばれる生き方をしてきたが今食べることで神が喜ばれることではないと疑いながらする行為は、喜ばれない生き方を選び取る選択により、罪となるからです。

この人は神に背を向けてる意識に神の光の中を歩めなくなるでしょう。太陽の光を浴びなくなった植物のように枯れるのです。理由は妨げられつまづくもので妨害され、さばきあい傷つけあって信仰を失うなら、この正論の行為は神の喜ばれない行為として非難されるからです。

教会にとり波紋となり痛手を受けます。正論であっても愛の配慮がないとしたら、また愛の配慮が無いと非難する人もまた同じ過ちをしているのです。

私たちは信仰があっても愛が無いなら信仰が無いのも同じす。そして、愛があると自負して信仰が無いなら神の愛の赦しであるイエス様の十字架の愛を受け入れられないなら罪の赦しの救いは無いのです

(19節)そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。

それでも、神様はあなたを愛している

講演会 説教 佐藤彰牧師(福島第一バプテスト教会)

ヨハネ3章16節
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

未来に向かって

イザヤ43章18節~21節

礼拝 説教 佐藤彰牧師(福島第一バプテスト教会)

イザヤ 43:18-21
43:18 先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。
43:19 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。
43:20 野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
43:21 わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。

主の前で生きる覚悟

ローマ書 14:7-12

14:7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。

14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

14:9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。

14:10 それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。

14:11 次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」

14:12 こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。

             『主の前で生きる覚悟』

人は生きるのも死ぬのも覚悟が必要だと言われた方がいました。覚悟次第だと。

進学も就職も結婚も、それが死を覚悟する時も生き抜く覚悟があるなら生を全うできるのではと思います。

7節 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。

質問:あなたは誰のために生きていますか。

と問われるなら大半の人たちは自分のために生きています。とお答えになるに違いない。

しかし、本当に自分の為だけに生きている人はいないように思います。自分を必要としてくれ、愛する者のために生きているのではないでしょうか?

質問:あなたは誰のために生きていますか。

それはあなたの愛する人、大切に思う人、一諸に生きる人、がその対象ではないかと思います。

自分に生きる人は、自分のために仕事に行き働き、懸命に残業します。食事を作りごちそうを食べます。毎日自分のための日常を繰り返し趣味に生き、喜びを見出し死ぬまでこれを繰り返すのです。

私たちは本当に自分の為だけにこのような営みを繰り返しているのでしょうか。

人は自分が大切に思い、愛する者のため、すなわち自分以外の誰かのために生きることによりそこから得る喜びに生かされているのではないでしょうか。

死でさえも大切に思う人のためならできるのです。自分のために死ぬ人はいません。と言う聖書が言う通りです。

8節 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

私たちが誰かのために生き働き、誰かのために死んだとしても、その誰かがそんなことを望んいないとしたらどうでしょうか?

例えば、愛する子供のために一所懸命生きたとしてしかし、子供はそれを望んでいず迷惑が

られたらどうでしょうか。あなたはそれをやめますか?家族のために懸命に生きたことに報われない言葉にあなたを支えた生きる力を失われるでしょう。しかし、自分のためにいきている

なら力は失われることはないはずです。人に依存する動機は相手の態度で愛する気力が失われてしまいます。しかし、あなたの愛が、あなたを愛し救いのためにその命を捨て十字架に掛から

れた方の言葉があなたを愛する者、愛の行動の動機となるならば人から言われる力を奪われるような言葉もあなたから愛する力を奪うことはできません。愛する者に向けられて来た愛も、キリストの愛に報いる動機に生きることになるのです。

10節 それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。

さばくとは裁判のことではありません。右と左にさばく振り分けることです。すなわち白黒はっきるとつけることです。

当然自分は白であり相手は黒です。相手に黒のレッテルを貼る(悪)自分は正しいとしてしま

うのです。前回に14章1~6節には信仰として野菜しか食べない人は自分が信仰に厚くそう

でない人を不信仰と侮ります。逆もまた神様が作られたものを何故感謝して食べないのか理解に苦しみます。お互いに自身の見解を正しいとして譲らない。さばき合うのです。

なぜさばき合うのでしょう?

自分の義(正しさ)、自己愛に生きるなら相手は裁くべき存在として映ってしまいます。しかし、キリストが語られる愛に生きる時、赦されて生きる自分として生きる意味を見出すのです。キリストと共に信仰で生きる。心に決めて生きるお互いでありましょう。

見ておられる神

創世記16:1~16

16:1 アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。

16:2 サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。

16:3 アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。

16:4 彼はハガルのところにはいった。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。

16:5 そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」

16:6 アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。

16:7 主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、

16:8 「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」

16:9 そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」

16:10 また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」

16:11 さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。

16:12 彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」

16:13 そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからである。

16:14 それゆえ、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。

16:15 ハガルは、アブラムに男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュマエルと名づけた。

16:16 ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。

             『見ておられる神』

神様はお約束を守られアブラハムの血を継ぐ子孫を天の星、砂の数のように多くの子孫をお与えになると約束されました。アブラハムは故郷を出発する時も保証を得て出発したのではなく語りかける生ける神と出会いその言葉を信じる信仰により生まれて初めて出発しました。

TVの人気番組に初めてのお遣いという番組があります。小さな我が子がはじめてお遣いに出かけます。

おっかなびっくり着いていきたい気持ちを押さえてハラハラドキドキしながら待つ親の思い、神様は信じて歩みだす初めての信仰による出発に見守るスタッフのカメラの中継のモニター前で釘づけになる親の思いは神様の思いだったようの思うのです。

買い物を終え買い物袋の重さに疲れて引きずりながら歩く子供は中身が道に落ちても分かりません。

大きな失敗かもしれません。アブラハムも目的地にたどり着いてから信仰が零れ落ちるように失敗しました。でも神様は咎めたりしませんでした。祝福して財産が増えているのです。

神様の約束に従いましたが後継ぎが生まれません。神様に嘆き祈ります。神様はアブラハムの子孫をお与えになると固く約束されました。それを信じたアブラハムは信仰による義を与えられ祝福されたのです。

アブラハムの子孫であることの確信は夫婦共通の確信となりましたが、サラは年老いた自分では普通に考えて無理だと判断したのです。それならアブラハムの血を受け継いでさえいればいいわけですから身近に仕えて良く知るハガルに女主人のサラは命じました。

しかしここからが家庭問題が起きました。女奴隷ハガルが懐妊し女主人を見下し始めたからです。

江戸時代の大奥で将軍の後継ぎであるお世継ぎを身ごもり部屋子がいままで偉そうにしていた人たちを見下し確執が起きたような話しです。

サラは自分で考え判断しハガルをアブラハムに与えた事が発端でした。にも関わらず事の責任はアブラハムのせいだと奥さんから責められた可哀そうなアブラハムでした。

アブラハムも面倒臭いのかサラの好きなようにしたらいいと問題丸投げにしてしまいます。

いじめに耐えかねて家出してしまうハガル。自業自得と言えばそれまでですが、アブラハムもサラもハガルも信仰により歩む姿は見られません。しかし、神様は見捨てられない方なのです。

ハガルに女主人のもとへへりくだり帰るようにと語られます。帰れば針の筵です。しかし、みことばに従うハガルに神様は祝福を与えました。彼女から生まれた子供によりサラと等しい恵みが与えられたのです。

サラもアブラハムも神様は責められづつまらない家庭問題にも介入され導き見守られる神様なのです。

語る使命

ペンテコステ祝日礼拝

使徒の働き 2:1-13

2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。

2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

2:3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。

2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、

2:6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。

2:7 彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。

2:8 それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。

2:9 私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、

2:10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、

2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」

2:12 人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか。」と言った。

2:13 しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。」と言ってあざける者たちもいた。

                『語る使命』 

イエス・キリストを信じた人はその恵みを証しし伝える使命があることを初代教会のイエスの弟子たちから受け継いでいます。

教会を家にたとえられますが、家はどこからが家でしょうか。土台からが家でありイエス様は教会の土台です。その教えを土台としイエス様の十字架とよみがえりまでが土台です。そして使徒たちが使命を受けて伝え始めたのが家のやぐらです。ペンテコステは家の棟上げ式みたいなものです。その棟上げ式に起きた出来事から外に向けて教会は拡大を始めたのです。

教会が基礎を築き建物を建て上げるために必要なのは人と語るということです。

2:1にペンテコステの祭りの日に起きた出来事が書かれています。この日聖霊が注がれました。

突然起きたかのように思いますがこれはイエス様が前もって予告され弟子たちには故郷に帰らずにエルサレムで待つているように言い聞かせられていました。

この日の出来事に注目してみましょう。2節~3節に突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、この音を聞いたのは6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。とあるように外にいる人々も何事が起きたのかと驚き集まってきました。

この時聖霊が注がれましたが、旧約聖書に書かれている聖霊が注がれたものと今回は違う点がありました。それは3 炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。

言葉が発せられる舌と表現されています。このことはその後の出来事と大きく関わりがあります。

4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

聖霊が注がれることは神様の約束でした。その目的についてイエス様が言いました。

ルカ 24:47-48

24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。24:48 あなたがたは、これらのことの証人です。

罪の赦しによる救いが宣べ伝えられる。教会に十字架があるのはそして外の見えるように建てられているのはこの意味です。

宣べ伝えられイエス様の目撃者たちが証しする使命を持ち語る働きをするのに舌の形で聖霊が現れたのは大きな意味があります。

その後、他国の言葉で語り始めたとあります。語られた言葉は当時の公用語のギリシャ語やラテン語ではなく離散したユダヤ人や信仰を持つた異邦人も含んだと思われます。

何故多種の言語を語るのか。あらゆる言語で語られ伝えられことを意味しています。

幕末のまだ禁教令が解除していない頃、フランスのパリ外国宣教会と言う団体がありました。

長崎の大浦天主堂を作った宣教団体です。長崎の宣教に入る前に沖縄の漂流民である人から日本語を習い聖書を翻訳したフォルカード神父という人がいました。彼は日本へ潜伏し宣教しようと準備をしている時、別の日本からの漂流民と出会い伝えようとしましたが言葉が通じないことがわかりました。しかも、苦心して翻訳した聖書も標記としては読めたのですが何が書いてあるのかわからないと言われ自分が日本語だと信じて苦労して学んだものが無駄だったと知り宣教を諦めました。日本の中でも方言の違いは言語の違い程大きく意味が通じません。

しかし、この神父が残した聖書は沖縄宣教の基礎をなした事業として今も輝いています。

沖縄のクリスチャン人口は4%だと聞きました。

あらゆる言語で神の恵みが伝えられることは神の御計画です。

福音は語られなければなりません。何故、それは罪による滅びからの救いがかかっているからです。神様はその使命を教会に御与えになりました。

聖書を語ることは語る技能を必要とします。そしてすべて信じる人たちにその技能を持つようにと勧めているわけではありません。教会は語らなければならない使命を共有することです。

ある人は祈り、ある人は語り、ある人は証詞し、ある人は掃除し、食事の準備をし、語る使命を与えられた教会の働きにそれぞれの役割を担い教会の語る使命を担う共同体でありましょう。

弱い者を受け入れなさい

ロ-マ 14:1~6

14:1 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。

14:2 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。

14:3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。

14:4 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。

14:5 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。

14:6 日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。

                     

◆真に強い信仰とは

1節あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。

信仰の弱い人について聖書はこう言っています。弱い人は野菜よりほかには食べません。

信仰が強い強い弱い人とはどんな人でしょうか?信仰の熱い人、薄い人、足りない人など様々な表現で言われますが、宗教的に信仰熱心な人は信仰熱心な熱い人ー強い人と考えられています。

野菜しか食べない人はベジタリアンではなくおそらく信仰の理由で肉や魚を殺して食べず野菜しか食べてはいけないと考える信仰を堅く守る人だったと思われます。これが信仰として神の御心にかなう生き方だと信じている人です。

私たちはこのような自分の信じた事柄を実践する人を信仰熱心な人と呼びますがパウロは信仰の弱い人と呼んでいます。どうしてでしょうか?特に旧約聖書の律法に従うユダヤ人だと思います。

コーシエと呼ばれる食物規定を守り信仰を生きる人たちが同じ教会の仲間にいたようです。かつてパウロも熱心に規定を守る人でしたからそういった人たちとの違いを持つ人たちとの良き関係を築いて平和を保つ秘訣を教えてくれています。

パウロがなぜそれらの人の信仰、すなわち昔の自分を含めて弱い信仰と呼ぶのか。それは、自分を強く見せたい、熱心で倒れることのない強い信仰のように見せる人が実は弱い信仰なのだと言うのです。強い信仰と見せようとする人が実は弱い信仰なのだと。誰よりも自身の弱さを知りキリストに寄り頼む弱い人が実は強い信仰の人だという語っているのです。

◆十字架の信仰に立つ信仰の教会

3節食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。

同じ信仰なのに微妙に違和感を感じてしまう。その考えをダメだししてしまう人。

自分は神の与えられたものをすべて感謝して食べている。自分の方が正しくて他は狭い考えで生きていると。その人と意見を交わす時どう言うでしょうか?あなた間違っているよ。神様は…

果たして間違いなのでしょうか?おかしな考えなのでしょうか?

自分の正しさで他人の意見を裁きダメだししてしまう人に神様の十字架の赦しが分かつているでしょうか。意見を裁いてはなりません。

これがパウロの奨める教会における意見の違いを持ちながらも受入合う人間関係の奨めです。これは教会における人間関係だけでなく普段の人間関係にも言える考えです。

5節ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。

6節日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。

他を見て生きる信仰ではなく自分と神様との歩みを大切にするお互いでありましょう。

時刻は来ています

ローマ書13:11~14

◆主イエス・キリストを着なさい。

私の友人で、すこし変わった趣味の人がいます。怪獣映画ゴジラのファンなのですが彼の部屋にはゴジラの特撮映画の本やグッズがありプレミアもののマニアが垂涎のものがありました。ある時、この人が私の所に訪ねてきてしばらく泊めて欲しいと言いました。なぜかたずねたら特撮映画を撮る円谷プロが経営難のため映画で使用した着ぐるみを売却することがマニア本ででたために彼はなんと親から仕送りされていた学費を使いこみ着ぐるみを買いました。そのため電気代が払えずガスも止められてしまい食べるに困りましたが親にも頼めず、要するにバイト代が入るまで居候させてほしいと言うことでした。仕方なくそれからは友人と寝起きを共にすることになり買い共同生活をしました。そのお礼がわりにゴジラの着ぐるみを私だけにきさせてあげると言われ手伝ってもらい着てみました。ゴジラとはこういう気分なのかと貴重な体験をし着るものにより来たものの気分、心になれる体験でした。

イエス・キリストを着なさい。それは、イエス様として生きることです。イエス様になれるわけではありませんが、イエス様のように考え、生き、心を用いることです。

◆時刻がもう来ています。

この時刻はめざましアラームが鳴っていて行動を開始する時です。なぜなら始まっているからです。

なにが終わりの時ですか。

私たちクリスチャンは終わりの時が来ている緊張感が必要です。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。

ここで言われる救いは艱難時代と再臨による主の救いです。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。

光の武具とは何でしょうか。

エペソ6章に神の武具について書かれています。

ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、 また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

これらの備えを自分の洋服をきてはいませんか?

腰に真理、それは全ては腰です。腰に知識である真理ではなく自身の古い価値観で歩んでいませんか?胸に正義、自分の義が心を支配していませんか。

足には福音、あなたの足で歩いていませんか?信仰の大盾、攻撃は遠くからではなく懐に飛び込んでくるものかもしれません。それらを守るものは神への信頼です。眠りから覚めて信仰の火と心に聖霊の油を備えて歩みましょう。

愛は律法を全うします

ローマ書 13:8~10

13:8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。

13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。

13:10 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

◆愛に借りはあっても貸しは無い

(8節) だれに対しても、何の借りもあってはいけません。

人は貸し借りで生きているわけではありません。しかし、人は貸し借りで生きているのです。家を買うとき銀行から借り、車を買うときもローンを組み返済しています。

人に貸しがある、借りがあると思うのは物質的なもの以上に恩の貸し借り、すなわち愛の貸し借りがあります。しかし、愛は貸し借りとは考えないものですが、必ずしもそうとばかりは言えません。

それは、人に良くしてあげてもそれが返ることがなければ見返りを求める自身の心は貸しと考えているのです。気づかないあいだに愛の貸し借りが存在しています。しかし、聖書は借りがあってはなりません。と言います。愛は別ですと。愛の貸し借りがあってもいいと。しかし、借りがあってもいいと。貸しがあると考えるならば人に報いを求めます。

母が亡くなりたくさんの愛と恩に報いることができなかった事に心が痛んでいます。しかし、自らが親となり子に報いられることを求めていないのも親であることが分かるようになり、愛は借りはあっても貸しがないのだと思います。

◆神の愛に生きる

(10節) 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

イエス様は律法で最も大切な教えは、神を愛し隣人を自身のように愛せよと言われました。それが律法であり預言者だと。すなわち、神の御心であると。

律法は人のために与えられたものです。人の社会を築き人がどう生きていくべきかを教えてくれる法令集のようなものです。人を愛し御心を語り働かれた証詞集が旧約聖書と言えます。愛を行うことが旧約(律法であり預言書)の本義ならば愛は律法を完成させるものなのです。

愛に借りはあっても貸しはありません。貸しがあるとしても報いは神様がはらってくれます。そして自分では払えない罪の代価をイエス様が御自分のいのちで払ってくださり今も未来も神様の元で生かされる保証を与えられた恵みにより律法である神の教えを完成うる愛を与えるクリスチャンとして歩ませていただくお互いでありましょう。

神に立てられたゆえに

1節 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。

◆神に立てられた権威

上に立つ権威、存在している権威なみな神によって立てられていると聖書は語ります。

この聖書の言葉を読み素直に納得できる人は多くは無いのではないでしょうか。

人類の歴史の中で神の御心に適う政治、政治家、国があったでしょうか?神を信じるイスラエルの歴史を見ても該当する人は僅かです。キリスト教がヨーロッパ世界の価値観を形成した時代をみても皆無と言えます。個人レベルで見たらもう少し見出す事が出来ますが上に立つ人たちが神に立てられていると言える人格であり人を見定めてのことであれば1節の御ことばは現代を生きる私たちには意味をなさないものとして捉えられてしまいます。御ことばが普遍的真理の言葉としてこの御ことばをどう理解すべきなのでしょうか。

◆上に立つ権威に従うべきです

専制君主国家であっても民主主義国家、または社会主義国家であっても制度を維持する国の法律があります。法は人が定めたものであり法の権威と言うものがあるならばそれは人の定め人の考えた決めごとに従うことになります。福沢諭吉は言いました。「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と。人は対等です。人に上下貴賤はありません。なのになぜ人が人に従わなければならないか?

人の社会には上下関係は付きものです。親子、会社の上司と部下、学校の先生と生徒など様々です。しかし、誤用された平等主義は良き上下関係の道を否定し良き社会と関係を築いてきたものを崩壊させてしまいました。上に立つ権威に従うべきです。とは神が定められたものがあり上下の敬うべき道があると教えているのではないでしょうか。人と人の関係に権威があるのではなく神が置かれたが故の権威なのです。人の定めた制度や法律さえも欠点がありますから改革し修正が必要でしょう。盲目的に立てられた人に従うことでは無く、従わない事を前提ではなく従うことを前提に制度、関係はより良いものに変え良い社会を求めるべきはクリスチャンとしての道なのです。クリスチャンは「人に従うよりは神に従うべきです」と信仰第一として上に立つ権力者に逆らいました。しかし、良き市民であるよう務めたのです。クリスチャンは良き市民であるべきです。

(7節 )あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。

打ち勝ちなさい

(17節)だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、

悪に悪で報いない。悪とは何か?悪の存在とは誰か?それは常に自分以外の相手は悪となりうる存在です。

悪―大、中、小  (大)傷つけてくる存在、(中)傷つけ派しないが怒りを向けてくる存在 (小)不満に思う相手(何らかで自分が不満に思う)例ばおはようございますと言ったのに言わない。自分も言わないようにしよう。聞こえない振りをした。自分の意見に反対。文句、苦情を言う。

怒りを呼び起こす相手はすべて悪(悪く良くない)存在。

怒りで報いるーそれが悪を悪で報いると言うことです。

腹が立つ、少し言い返した。それが悪いの?(動機はどうか?

すべての人が良いと思うことを図りなさい。 

公善―怒りで返さない。これがクリスチャンとしての戦い方だと言うのです。 

いきなりハードル高いです。恵みの高き嶺日々我が目当てに祈りつ歌いつなおも登りゆかん。

(18節)あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。

自分に関する限り(原意=もしできるならば)必ずそうしなさいと言う事ではない

ラゲ訳汝らが力の及ぶ限り平和を求めよ、人と平和を保ちたいと誰もが願っている、と信じたい。敵対する人が怒りを持つ時、必ずしも平和を保てるとは限りません。

しかし、神様との平和を失うような怒りに心をまかせてはなりません。

(19節)愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

復習は悪に対する報いを与えることです。仕返し、敵討ち、

※自分の正しさの確信に基づいて復讐しないにように。

神様、悪に報いてくださいと指さすその指が自分に向いている。

罪にたいする報い…それは十字架にかかるためにこられたイエス様に向けられました。

(20節)もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、

良きサマリヤ人のような隣人愛    イエス様の十字架を見上げることなくそのような愛はできない。

あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。

燃える炭火を積む…積むとは載せること怒りを燃え上がらせる隙間をつくらせない

薪はたくさんくべれば逆に燃えない、薪が燃えるためには息を吹き込まなければならない。他人の意見、同調、共感、あおるような意見があるとさらに頭にくる。

(21節)悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

悪に善で報いるという戦い方がクリスチャンとしての戦い方であることを。

天国への招待状

11節 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。

マリやは主イエスの遺体が失われたことを知っていました。しかし、それでも再び墓の前に戻ってきました。そこに主はおられないと分かりながらも墓ののぞき込むマリヤの姿に深い悲しみ感じます。イエス様は大きな愛をくれたのに自分は何もできない悲しみの中にいました。

12節 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。

白い衣は天国の住人の証し、その人たちが悲しみと死を表す場所に座っている。それはマリヤの悲しみから見える天国の希望が。前回は墓の前から見えたものは闇と墓、すなわち絶望でした。

13節 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」

マリヤはまだ悲しみと闇の中にいました。「よみがえることを理解していなかったのです」。その理由が誰かの責任にしている言葉に表れています。悲しみにある時、それが自分の責任であろうと。

14節 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。

悲しみの中にいる人、苦しみのしか見えていない人にはよみがえったイエス様が共におられる事のに気づくことは簡単なことではない

15節 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」

人の声も彼女を苦しみから立ち上がらせ、主が共にいることを気づかせることはできない。

16節 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。

主は共におられる。しかし、人はそれに気づかないで自分の心にあるものしか見えていない時、その人に語りかけ悲しみにうちひしがれているそんな人を見つめておられることを気づかせてくださる。それが「名を呼ぶ」ことだ。

自分が呼ばれていること、自分に語りかけていることに気づくのは名で呼ばれることだ。

17節 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」

イエス様は喜びのあまりすがりつこうとするマリヤをご存じでした。しかし、それをしてはならないと言われました。言葉を裏返して読むと父のもとに登ったイエス様にならすがりついても良いと言うことではないでしょうか。すなわち、天に昇り父なる神の右にて私たちを執り成すイエス様にすがりついてもいいと言うことです。

18節 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました。」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。

17節で語られた主のことばは、マグダラのマリヤにとり古い今までの自分との決別です。絶望の中で見出したイエス様、目の前にいるイエス様を追いかけてすがることはマリヤの精神的な拠り所だっいたからです。イエス様のおっかけ、目の前のイエス様は消えていきます。しかし、あなたを見つめて執り成し共にいて救うイエス様に信仰で寄り頼む者はイエス様はもう失われることはありません。

今イエス様はあなたに呼びかけています。執り成し祈られるイエス様、それがよみがえられたイエス様です。

何を信じたのか

◆目の前の失望に翻弄される弟子たち

イエス様の死とよみがえりは人類に様々なものをもたらしました。信じた者に罪の赦しによる救いを与え神の御国の恵みを保証されました。それゆえに死は終わりではなく御国への通過点に過ぎません。

ではイエス様の死は信じた最初の人たちに何をもたらしたのか。

(1節)マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。闇と墓は彼女に与えたものが何であるのかをイメージさせます。七つの悪霊に憑かれたと書かれるこの女性にとりそこから救われたことは地獄から天国に移されたようなものです。イエス様の十字架の死は彼女に再び闇と死をもたらす絶望でした。(2節)それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」主の遺体が見つからないのは死を悲しむことすら出来ない苦しみが彼女を襲いました。

そのことを知らせに使徒たちの集まる家に行きました。それを聞いたペテロと(おそらくヨハネ)が走りだしました。足の遅いペテロでしたが最初に墓に入ったのはぺテロでした。あとからもう一人の弟子が入ってきましたが中にはイエスの遺体は無く遺体を包んでいた布だけがありもぬけの殻でした。それを見たもうひとりの弟子について考えてみましょう。(8節 )そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。(9節) 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。

もう一人の弟子は、何を信じたのでしょうか?イエスがよみがえったことでしょうか?

この弟子が見たものは空の墓とイエス様の遺体が包まれた時の布でした。

最初のそれを見たマグダラのマリヤの報告を聞き確認して、その通りだったので、そに言葉を信じたと考えられます。それゆえに次の9節の御ことばがイエスの弟子たちの信仰の状態を教えてくれ問題点を教えてくれます。

◆神の約束を

イエス様が以前に御自身のよみがえりについて語られた言葉はどうしたのでしょうか。目の前の悲しみ、苦しみ、試練に飲み込まれ聖書の約束はどこえやら。

9節の言葉がわざわざ書かれている理由は、弟子たちはよみがえりを信じたのではなかったようです。今を生きる試練と苦しみは私たちに聖書が語る約束への希望を見失わせます。今の時代、疫病感染の恐れと苦しみに翻弄される時代です。

イエス様は言いました。終わりの時代の苦しみについてイエス様は、ルカ 21:11大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます。しかし目の前の絶望に心を奪われてはなりません。21:32 よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。21:33 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。   神様の約束に心を止め時代に動かされることなく信仰により歩み励まし合い歩む教会でありましょう。

へりくだる心と信仰

互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。      ローマ書12:16

◆一つにさせる事を邪魔するもの

互いに一つになることは難しいことです。なぜなら、みな違うからです。しかし同じ考え同じ気持ちにならなければならないわけではありません。パズルのピースのように皆違う形でいいのです。しかし信仰は一つでなければ教会はバラバラです。

ローマ教会には様々は人たちがいました。ローマ人の市民階級で市民権を持つ人たち、ローマ人以外の人たち、非市民で市民権を持たない人たち、奴隷、商人、技術者など身分や職業、人種の違いなど様々です。

教会の交わりにおいて一つの心にあるとはどういうことはどういうことでしょう。

次の言葉から何が一つにさせないのか見てみましょう。

身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはなりません。

おそらく教会には身分と教育が受けられた人とそうでない人、経済格差の壁がありました。ローマ貴族の人~奴隷まで様々な人たちがいて、日常生活では奴隷を所有する人が、主人と奴隷という関係が教会では対等な関係で会話するわけです。中には嫌悪感を持つ人、そこまで行かなくても不快な感情を抱く人もいたのかもしれません。また、自分こそ知者などと思っている人がいたからこそ忠告しているのかもしれません。事実この手紙を書いた時、コリント教会にはそういう人たちがいた為問題が引き起こされていたのですから。知識のあるそういう職業の人、教育を受けられず公用語のギリシャ語が読み書きできない人、

何がキリストの体なる教会に壁をもたらし機能不全、動脈硬化をもたらすのか。

これまで当たり前と信じてきた価値観が神の教えの前に光に照らされる時、剥がして捨てなければななないものであることが明らかにされる時、剥がされるのを拒否  する人はプライドが邪魔をして教会を去るかもしれません。そうでなければ無視をするか、痛みを伴っても信仰で受け入れるかです。

◆キリストにへりくだる姿に

10節兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。尊敬心を持つ人はへりくだる人なのです。へりくだればればくだるほど重みのある態度、言葉となり重んじられる人のなるからです。尊敬される人にならなくてもいいです。へりくだる人になるとき重んじられ尊敬される人となるのです。この違いを乗り越えることができるのはキリストにある信仰と愛です。

キリストのへりくだりの十字架こそ教会を一つにできるものです。

身分の低い者に順応するのは見返りの無い愛を求め神の報いを求める信仰から来るものです。知者である高学歴の人がいたのでしょう。財産、地位、その知り合い、学歴、人は誇ろうと思えば何でも自慢します。誇るこころを持つ人とへりくだる心を持つ者が神の御前に立つのみです。十字架の主の血の流れを遮る動脈硬化となる者を取り除き健全なキリストの体としてくださいますよう願いましょう。

喜びと痛みの伴う祝福

◆祝福を祈る者に変えてください

14節 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。

パウロのこの言葉は次のイエス様が言われた御ことばに通じる言葉です。

マタイ 5:44しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

ルカ6:28 あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。

しかし、私たちに危害を加えたり迫害したりする者を祝福することに感情はそれを受け入れることが出来ません。この言葉は迫害する者を擁護するのものではありません。では迫害する者を祝福するとはどういうことなのでしょうか。

祝福する側について考えてみる時、迫害する者に対する祝福と迫害しない者への祝福とどう違いがあるでしょうか。当然神様の祝福を祈るということであり恵みが伴うことを願うことです。この2つの対象に対して祝福の内容に違いはあるでしょうか。祝福自体には変わりはありません。あるとするならば祝福する側の心の問題です。 

迫害する者を祝福するのを心が拒否します。拒否する心に対し聖書はそれでも従えと言うのでしょうか?聖書がわたしたちに呼びかける事をもう少し考えてみましょう。喜びのともなう祝福の言葉と喜びの伴わない祝福とどう違うのでしょうか?祝福になにか違いが生まれてくるのでしょうか?感情が拒否するのはやむ得ないのです。しかし、祝福することを止めてはならないと聖書は語ります。神への祝福の祈りは、祝福する相手を神の祝福することのできるものへと変化させるものだからです。

◆イエス様の祝福

15節 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。

神様は御自身の御心に適わない行為に生きる者を祝福はなさいません。その人の為祈られる時、祈られる祈りに応え神の介入があります。

喜ぶ者といっしょに喜ぶ、泣く者といっしょに泣くこともおなじなのです。

喜ぶ人が感情的に好きではなかったら共に喜ぶことができるでしょうか?

泣く者が悲しんでいても好きではなければいっしょに悲しむことはしないでしょう。

嫌いな人が喜んでいても共に喜べないのです。どちらも問題点は同じなのを気がつきましたか?それは感情です。この感情をなんとかしないと迫害する者を呪い憎み祝福を祈るどころか呪いを祈ることになります。

詩篇22編のダビデの祈りをみてみましょう。敵に対して呪いの祈りをしています。しかし、その祈りの最後は呪いでは無く神への賛美で締めくくられ信仰に立ちます。神様は罪への呪いを祝福に裁きを赦しに、怒りを愛に変えてくださいました。

それは、神様を仰ぎ、イエス様の十字架を仰ぐ時のゆえにです。

どうして見捨て給うか。と十字架で祈る時、捨てられるはずの私たちが赦された理由をしるのです。罪人への裁きと呪いを赦しの愛と救いの祝福に変えてくださる恵みの前に、祝福を得て変えられなければならないのは私たち自身であることを知り御前にぬかずいてへりくだる者と変えていただけるよういのりましよう。

祝福を分かちあう心

ロ-マ 12:13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。

聖徒とは、クリスチャンのことです。学校で学ぶ生徒ではなく、神に学ぶ人たちです。ここにおける対象となるのは聖徒でも無ければ、旅人でもありません。

聖人の入用に協力し、もてなしを与える側に神様は語りかけています。

すなわち与える側の愛を実践するように語られているのです。

私たちが御ことばを実践できるできるできないは別で、従うつもりがあるかどうかなのです。聖徒の入り用、旅人をもてなす。なにも命を与えよとは言ってはいません。協力ともてなしは比較的できる愛だと言えます。

◆無償の愛の実践

聖徒は同じ信仰者ですから身近な人と言えます。旅人(巡礼者)は常に身近な存在だったのです。

身近な存在に出来ることをしてあげる愛。しかもキリストの愛で見返りを求めない愛。私たちはすぐに見返りを求めてしまいます。してあげたのにわたしが困ってても無視してるしありがとうもない。ありがとうは礼儀ですがこれは受けた側が求められることで与えた側が求めることではありません。あげたのに何の返しもしてもらったことが無い、見返りを求めそれが無ければ裁いてしまう自己の愛。

私たちはこのような身近な小さな愛にも利己的なのです。小さな愛ではなく狭い愛と呼べるかもしれません。

小さな愛も持たない私たちが御ことばに従い無償の愛を実践したいと求める心があるならあなたも聖徒です。そして聖書の言葉は人生を導く指針となります。方位磁石が常に北を指すようにどこにいても天の御国への道を指し示してくれます。

◆与えられ分かち与える神の愛

12:1霊的礼拝について語りました。神のチュー二ングを合わせ日々神の御声を求める者に生ける言葉は聞こえるのです。

12:13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。もう一度言います。これはクリスチャンが目指す見返りを求めない愛の実践、しかも大きな愛ではなくいつでもできる無償の愛なのです。

例えば、今私たちは天国の門の前にいると過程します。あと50cm 無償の愛を行うなら天国に入れます。しかし、私たちは見返りを求める愛になってしまう。ではどうしたらいいのでしょうか?

……………………無償の愛・あなたは持ち合わせていますか?

無ければどうしたらいいでしょうか?

ルターは言いました。主の祈りの「日毎の糧を今日も与え給え」とは食物の糧だけではなく私をキリスト者として生かしめる霊的糧なのです。求めなければ生きられないと知るキリスト者は今日も主に日毎の糧を求めるのです。と言いました。

キリストが豊かに持つ無償の愛の賜物を分けていただき12:13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。分かち与える愛を与えよと宣う主の声に従う者でありたいと願います。

信じる力

ロ-マ 12:12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。

◆望みを抱いて喜び

私たちは神にあってどのような信仰の望みを抱いているでしょうか?しかし、私たちが思っている望みは漠然としているかもしれません。

神様がくださる恵みの賜物は人間が約束しているのではなく全能の神様が約束してくださっているものです。ゆえに望みが確信のレベルになり望みを抱いて喜ぶことができるのです。

望みは、約束に対して抱くものですから約束を知らなければ望むことも少ないと言えます。私たちが抱く望みは天国をまず挙げますが神様は多くの約束を与えてくださっているのに知らないことは残念なことです。例えば、飢えた人が大金持ちが欲しいものを与えると言っているのに水だけ欲しいと言うようなものです。

信仰の望みによる確信からくる喜びを与えたいと願われる神様に感謝しましょう。

◆望みを喜びにする祈り

望みを抱いて喜び、と言われた言葉を読むと喜べないこともあるのかと考えたくなります。実は言うと信仰の歩みには喜べないこともあります。喜べることばかりじゃありません。パウロは信じたら悩みも苦しみもなくなるような幻想は語りません。なぜならイエス様を信じて誰よりも苦しんできたのはパウロだったからです。

だからこそ信仰の歩みに苦しみがあっても望みを抱いて喜ぶことことができるのは望みに対する約束への確信が神様にある喜びに立たせてくれることを分かち合おうとしています。

この望みはイエス・キリストにある望みです。この望みが喜びとなるには、イエス様にあるものに与えられるわけですからイエス様に繋がる祈りが必要です。聖書の約束から与えられる望みが知識から信仰に変わるためには祈りが必要です。なぜなら祈りは祈る者がイエス様から受け取る確信の信仰を与えてくれるからです。

◆望みと祈りを繋ぐ患難

望みを抱いて喜ぶために祈りが必要です。そして、望みが確信となり喜びとなるために祈りが必要ですが。これが、絶えず祈るとなるにはもう一つ必要です。それは料理の隠し味のようなものです。ピリッと辛いスパイスのようなものが必要です。それは艱難、試練です。神様は私たちが祈らないことをよくご存じです。絶えず祈り、信仰からくる望みの確信がリアルなものとなるために艱難があり絶えられないと感じる時、神様に依り頼まなければ生きられないと悟るときより頼むものと変えられるのです。しかしここで私たちの信仰があきらめの信仰ならば望みを抱いて喜ぶ信仰からはほど遠いものです。

私たちが望みを抱いて喜ぶ者となるために、祈り神に寄り頼む者としてくださる神様の大きな愛に信頼しましょう。