そこでわたしに会えるのです

すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」 マタイ28:10

イースターおめでとうございます。 私たちの信仰の泉は「イエス様に会う」所から始まります。 イエス様といつ出会うでしょうか。それはどこかの場所とか言うことではありません。 イエス様の言葉をどういう時に聞くかということです。それは「祈り」の時、神に心を向ける時神の言葉が心に届きます。「御言葉を読む」時にイエス様は私たちに語られる。それをイエスに会うと言います。イエスに会う時、そこで信仰の力を得るのです。

◆原点からの出発

主の弟子たちは十字架にかかる前のイエス様からこう言われていました。 マタイ 26:32 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」そこでイエスに出会えると。 何故ガリラヤなのかは後で話しますが、弟子たちがイエス様と初めて出会ったのはどこでしたか?ガリラヤです。弟子たちそれぞれにイエス様が来て声をかけられ、信じて従う決心を持って踏み出した場所がガリラヤでした。 何故、エルサレムではなくガリラヤなのか?事実、復活されたイエス様にエルサレムでその姿を見、墓の前で、隠れていた部屋で、エマオに行く道でイエス様に会っています。それでもイエス様は弟子たちとガリラヤで会う必用がありました。 エルサレムは弟子たちにとりイエス様を見捨てて逃げた嫌な記憶の残る場所となりました。失敗して挫折を味わった場所でした。 私たちは失敗をした所から立ち上がって歩き始めようと励ましの言葉を使います。イエス様を信じる者は挫折した所から始めるのではなく、イエス様を出会った出発点からやり直すのです。挫折した所から始める場合は自己本位の反省からの出発です。しかし、私たちはイエス様と出会った原点で再び出会う必用があるのです。 イエス様がガリラヤのこだわったメッセージがそこにあります。 「イエス様に出会う」最初は一方的に弟子たち、私たちに会いに来てくださいました。

◆ガリラヤでイエス様と出会う

次は私たちがイエス様に会うために行動を起こすことを主は願っておられます。 「ガリラヤ」に行くために、イエス様に会うために行動を起こしてください。 イエス様と出会うために祈り、イエス様と出会うために御言葉を渇き求めて聖書を読む。そこで私に会うのです。と約束してくださったイエス様と会い信仰の力をいただいてください。

選びとる道

マタイ 27:11さて、イエスは総督の前に立たれた。すると、総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスは彼に「そのとおりです。」と言われた。

◆ユダヤ人の王 イエス・キリストにとり「ユダヤ人の王」という言葉は人生の鍵となる言葉です。 ユダヤ人は、かつての偉大な王の子孫が神の約束により生まれ、その方が救い主として世に生まれでる。この伝説的な期待で生きる人たちでした。 イエスが誕生の時、東方から天体に示された星により、ユダヤ人の王として生まれられた方をたずねて来た博士たちがいました。また、イエスの十字架の上に掲げられた札にはユダヤ人の王と書かれていました。誕生である生と死にまつわるこの言葉を理解する時、イエス・キリストの人生の一面が理解できます。

◆神の御こころを選ぶ道 イエスにとりユダヤ人の王として生まれることは神の御計画でありましたが、王宮に住む王ではなく神の国とその民を治めその王として人々の前に現れました。しかし、ユダヤ人の王と言う言葉はイエスが訴えられ死の原因となる不吉な言葉でした。 イエスは自分が神の子であると言ったという神への不敬罪で訴えられ、答え次第では死刑に処せられる状況でした。総督はイエスの言葉尻を捉えて言葉で追い込もうとしていました。総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスはこの言葉の真意を説明する事が出来ましたが悪意に満ちた状況でそれをしませんでした。しかし、それをしなければ悪意と誤解の中で死が待ち受けていました。イエスは弁明しない事を選択したのです。このイエスの姿は信仰により歩もうとしている人にも見る信仰を選ぶ選択の道です。 天に帰られた方々の中には、信仰を持った時に周りから理解されず誤解されていた方もおられたでしょう。 イエスの人生の見る生き方に人は人生を選び取る道のあり方を考えさせられます。それが不利な選択であり、他にもっと上手く立ち回ればと思う道もあったでしょうと。 上手く立ち回る道が本当に良いことなのでしょうか。上手に説明して死を逃れた方がイエスにとり良かったのでしょうか。

◆天に通じる選ぶ道 私たちの人生も自分で選んだものでは無いと思います。しかし、イエスが選んだように天国への道は選んで歩む道なのです。こう言えます。誕生は選べないが天国への道は選べる。 この世にて賢く生きる道ではなく、なにが天へ通じる道なのか祈り求め歩む人生を全うしましょう。

祈ることを教えてください

ルカ 11:1~4

さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」 11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。 11:3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。 11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」  

『祈ることを教えてください』

1節「祈りを教えてください」 口語「わたしたちにも祈ることを教えてください」 信仰をもたれたばかりの方にこのように言われたらどのように答えますか。 この質問者が求めるものは、祈りの言葉でしょうか。それとも他にあるのでしょうか。 祈りは神様に何か願うこと。と答えるなら、祈りを教えてくださいと問われて教えることは何もありません。この答えを見つけたいなら祈りとはなにかを再度自らに問うことから始めなければなりません。 ◆祈りとは 御祈願すること。自分の願いを聞いてもらう為に神様にお願い事をすること。 確かにこれも祈りです。 しかし、私たちが神に願うように、私たちの信じる神も私たちに願うものがありました。それは、この方を神とし、信じる信仰に歩むことです。アブラハムと神は約束を結びました。創世記17:8 わたしはあなたと後の子孫とにあなたの宿っているこの地、すなわちカナンの全地を永久の所有として与える。そしてわたしは彼らの神となるであろう」。祈りとはこの方を神として敬い、信じ、私たちと共に歩む神に呼びかけ近づくことです。神が近づかれるように私たちが近づくことを神は求めておられます。イエス様は神様が願われてる近づき方を教えられました、それが主の祈りです。 (2節)イエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。 父とはアバ(幼子が父親を呼ぶときの呼び方です)神は人間とのこの幼子のような関係をもつて呼びかけられ近づいてきて欲しいと願われていると、イエス様は父の願いを伝えておられるのです。 ◆祈りを教えられる 祈りを学ぶ方法は3つあります。ルターは聖書を学ぶ方法を聞かれて3つの原則を答えました。①祈り②黙想③試練 聖書を学ぶ方法は祈りを学ぶ方法に通じます。 祈りをするのには心が祈りの姿勢で無ければなりません。体は仕事をしていても、トイレで便座に座っていてもかまいません。 ジョン・ウエスレーの母、スザンナは16人の子供を産み、牧師夫人の立場で平日の聖書研究祈り会を導き、子供を義務教育の終了する年齢まで自分で教育し大学に行かせました。そんな彼女は祈る暇が無い、時間が無いとは一言も言い訳しませんでした。台所で食事の準備をしながら時に顔をエプロンで隠しながら涙し祈りました。そんな母の姿を見て育つたジョンウエスレーは、祈りの時間が無いなどとは我が母の前には言い訳に過ぎない。と言っています。 黙想は聖書を神の言葉として味読することです。御言葉が糧となるためにはその意味を味わい知ることなく信仰は生まれません。祈りは二度三度と応えられず聞かれないのが祈りである事を知らなければなりません。だからこそ信仰が養われ成長しなけらばならないのです。三番目に試練です。祈りは祈らなければならない状況から生まれます。私たちが祈るよう導かれている時、そこに祈りの課題があります。嘆きの壁が立ちはだかります。どんな苦境の中に置かれても「祈りを教えてください」祈りと信仰が私たちを導き支える力でありますように祈りましょう。