ローマ書 14:7-12
14:7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
14:9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。
14:10 それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。
14:11 次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」
14:12 こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。
『主の前で生きる覚悟』
人は生きるのも死ぬのも覚悟が必要だと言われた方がいました。覚悟次第だと。
進学も就職も結婚も、それが死を覚悟する時も生き抜く覚悟があるなら生を全うできるのではと思います。
7節 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
質問:あなたは誰のために生きていますか。
と問われるなら大半の人たちは自分のために生きています。とお答えになるに違いない。
しかし、本当に自分の為だけに生きている人はいないように思います。自分を必要としてくれ、愛する者のために生きているのではないでしょうか?
質問:あなたは誰のために生きていますか。
それはあなたの愛する人、大切に思う人、一諸に生きる人、がその対象ではないかと思います。
自分に生きる人は、自分のために仕事に行き働き、懸命に残業します。食事を作りごちそうを食べます。毎日自分のための日常を繰り返し趣味に生き、喜びを見出し死ぬまでこれを繰り返すのです。
私たちは本当に自分の為だけにこのような営みを繰り返しているのでしょうか。
人は自分が大切に思い、愛する者のため、すなわち自分以外の誰かのために生きることによりそこから得る喜びに生かされているのではないでしょうか。
死でさえも大切に思う人のためならできるのです。自分のために死ぬ人はいません。と言う聖書が言う通りです。
8節 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
私たちが誰かのために生き働き、誰かのために死んだとしても、その誰かがそんなことを望んいないとしたらどうでしょうか?
例えば、愛する子供のために一所懸命生きたとしてしかし、子供はそれを望んでいず迷惑が
られたらどうでしょうか。あなたはそれをやめますか?家族のために懸命に生きたことに報われない言葉にあなたを支えた生きる力を失われるでしょう。しかし、自分のためにいきている
なら力は失われることはないはずです。人に依存する動機は相手の態度で愛する気力が失われてしまいます。しかし、あなたの愛が、あなたを愛し救いのためにその命を捨て十字架に掛から
れた方の言葉があなたを愛する者、愛の行動の動機となるならば人から言われる力を奪われるような言葉もあなたから愛する力を奪うことはできません。愛する者に向けられて来た愛も、キリストの愛に報いる動機に生きることになるのです。
10節 それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。
さばくとは裁判のことではありません。右と左にさばく振り分けることです。すなわち白黒はっきるとつけることです。
当然自分は白であり相手は黒です。相手に黒のレッテルを貼る(悪)自分は正しいとしてしま
うのです。前回に14章1~6節には信仰として野菜しか食べない人は自分が信仰に厚くそう
でない人を不信仰と侮ります。逆もまた神様が作られたものを何故感謝して食べないのか理解に苦しみます。お互いに自身の見解を正しいとして譲らない。さばき合うのです。
なぜさばき合うのでしょう?
自分の義(正しさ)、自己愛に生きるなら相手は裁くべき存在として映ってしまいます。しかし、キリストが語られる愛に生きる時、赦されて生きる自分として生きる意味を見出すのです。キリストと共に信仰で生きる。心に決めて生きるお互いでありましょう。