何を信じたのか

◆目の前の失望に翻弄される弟子たち

イエス様の死とよみがえりは人類に様々なものをもたらしました。信じた者に罪の赦しによる救いを与え神の御国の恵みを保証されました。それゆえに死は終わりではなく御国への通過点に過ぎません。

ではイエス様の死は信じた最初の人たちに何をもたらしたのか。

(1節)マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。闇と墓は彼女に与えたものが何であるのかをイメージさせます。七つの悪霊に憑かれたと書かれるこの女性にとりそこから救われたことは地獄から天国に移されたようなものです。イエス様の十字架の死は彼女に再び闇と死をもたらす絶望でした。(2節)それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」主の遺体が見つからないのは死を悲しむことすら出来ない苦しみが彼女を襲いました。

そのことを知らせに使徒たちの集まる家に行きました。それを聞いたペテロと(おそらくヨハネ)が走りだしました。足の遅いペテロでしたが最初に墓に入ったのはぺテロでした。あとからもう一人の弟子が入ってきましたが中にはイエスの遺体は無く遺体を包んでいた布だけがありもぬけの殻でした。それを見たもうひとりの弟子について考えてみましょう。(8節 )そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。(9節) 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。

もう一人の弟子は、何を信じたのでしょうか?イエスがよみがえったことでしょうか?

この弟子が見たものは空の墓とイエス様の遺体が包まれた時の布でした。

最初のそれを見たマグダラのマリヤの報告を聞き確認して、その通りだったので、そに言葉を信じたと考えられます。それゆえに次の9節の御ことばがイエスの弟子たちの信仰の状態を教えてくれ問題点を教えてくれます。

◆神の約束を

イエス様が以前に御自身のよみがえりについて語られた言葉はどうしたのでしょうか。目の前の悲しみ、苦しみ、試練に飲み込まれ聖書の約束はどこえやら。

9節の言葉がわざわざ書かれている理由は、弟子たちはよみがえりを信じたのではなかったようです。今を生きる試練と苦しみは私たちに聖書が語る約束への希望を見失わせます。今の時代、疫病感染の恐れと苦しみに翻弄される時代です。

イエス様は言いました。終わりの時代の苦しみについてイエス様は、ルカ 21:11大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます。しかし目の前の絶望に心を奪われてはなりません。21:32 よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。21:33 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。   神様の約束に心を止め時代に動かされることなく信仰により歩み励まし合い歩む教会でありましょう。

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