喜びと痛みの伴う祝福

◆祝福を祈る者に変えてください

14節 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。

パウロのこの言葉は次のイエス様が言われた御ことばに通じる言葉です。

マタイ 5:44しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

ルカ6:28 あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。

しかし、私たちに危害を加えたり迫害したりする者を祝福することに感情はそれを受け入れることが出来ません。この言葉は迫害する者を擁護するのものではありません。では迫害する者を祝福するとはどういうことなのでしょうか。

祝福する側について考えてみる時、迫害する者に対する祝福と迫害しない者への祝福とどう違いがあるでしょうか。当然神様の祝福を祈るということであり恵みが伴うことを願うことです。この2つの対象に対して祝福の内容に違いはあるでしょうか。祝福自体には変わりはありません。あるとするならば祝福する側の心の問題です。 

迫害する者を祝福するのを心が拒否します。拒否する心に対し聖書はそれでも従えと言うのでしょうか?聖書がわたしたちに呼びかける事をもう少し考えてみましょう。喜びのともなう祝福の言葉と喜びの伴わない祝福とどう違うのでしょうか?祝福になにか違いが生まれてくるのでしょうか?感情が拒否するのはやむ得ないのです。しかし、祝福することを止めてはならないと聖書は語ります。神への祝福の祈りは、祝福する相手を神の祝福することのできるものへと変化させるものだからです。

◆イエス様の祝福

15節 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。

神様は御自身の御心に適わない行為に生きる者を祝福はなさいません。その人の為祈られる時、祈られる祈りに応え神の介入があります。

喜ぶ者といっしょに喜ぶ、泣く者といっしょに泣くこともおなじなのです。

喜ぶ人が感情的に好きではなかったら共に喜ぶことができるでしょうか?

泣く者が悲しんでいても好きではなければいっしょに悲しむことはしないでしょう。

嫌いな人が喜んでいても共に喜べないのです。どちらも問題点は同じなのを気がつきましたか?それは感情です。この感情をなんとかしないと迫害する者を呪い憎み祝福を祈るどころか呪いを祈ることになります。

詩篇22編のダビデの祈りをみてみましょう。敵に対して呪いの祈りをしています。しかし、その祈りの最後は呪いでは無く神への賛美で締めくくられ信仰に立ちます。神様は罪への呪いを祝福に裁きを赦しに、怒りを愛に変えてくださいました。

それは、神様を仰ぎ、イエス様の十字架を仰ぐ時のゆえにです。

どうして見捨て給うか。と十字架で祈る時、捨てられるはずの私たちが赦された理由をしるのです。罪人への裁きと呪いを赦しの愛と救いの祝福に変えてくださる恵みの前に、祝福を得て変えられなければならないのは私たち自身であることを知り御前にぬかずいてへりくだる者と変えていただけるよういのりましよう。

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