役立つことを追い求める

ローマ書 14:13-19

14:13 ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。

14:14 主イエスにあって、私が知り、また確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです。ただ、これは汚れていると認める人にとっては、それは汚れたものなのです。

14:15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。

14:16 ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。

14:17 なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。

14:18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。

14:19 そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。

          『役立つことを追い求める』

◆神に喜ばれる歩み

(18節) このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、と聖書で奨められる歩みをすべきです。

神に喜ばれる生き方の目標は三つ、(17節) 義と平和と聖霊による喜びです。それは、神の義(信仰)、神との平和、聖霊による喜びある信仰を目指して生きる歩みです。

信仰の父アブラハムのように神の言葉を信じて歩む事、神の赦しである十字架の和解を得て神に近づき、信仰が生きた信仰となるために聖霊による導きによる喜びに歩めるお互いでありたいと願うのです。しかし、信仰の歩みはアスファルトの道、車で進める道ではありません。また観念的なものではなく信じえない時にあなたは私を信じるかと問われる歩みの中での信仰なのです。

では、この聖書の語る困難な問題点について考えてみましょう。

◆教会の問題

著者のパウロは教会に起こる問題に手紙を書きコメントしています。14章でこれまで見て来た問題を覚えているでしょうか。それは、食物の規定に関する問題でした。そこで起こる問題は妨げになるもの つまずきになるもの 互いにさばき合うということです。

妨げとは妨害することであり攻撃することです。つまづきを置くこともまた進路妨害です。つまり理解と信念、信仰の考え方の違いからくる問題を批判しあう事における争いです。

(13節) ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。

この言葉を見ると教会が世間が考えるような聖なる厳かな場所ではないことがわかります。

たがいにさばき合うことがありました。別な言葉で言うと傷つけ合うことが行われていました。カウンセリングが必要かもしれません。問題発生する集りでした。

建物で言うと段差のある家にたいらな所でバリヤーフリーのつまずかない場所ではありませんでした。人は高い段につまずくのではなく畳のヘリのような、あるかないかの段につまずいてこけてしまうのです。教会のつまずきは畳敷きの日本家屋のような住まいと言えます。

では教会にどんなつまづきがあったでしょうか?

(14:2) 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。

(14:15) もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。

すなわち「飲み食いのこと」でいがみ合い争いがおきていました。はた目から見て大した問題ではありませんが(しょうもない事)です。出来れば関わらずに当人どうしで解決してもらいたいことです。

パウロはどちらの側にたち解決したでしょうか?

皆さんはどちら派?問題が起きた時、わたしの意見を聞いて欲しい、理解して味方になって欲しいと思うものです。

①聖書に書かれたように神の御こころは食物規定を守るのが信仰的に正しく穢れたもの食べることは信仰が堕落している行為。

②神様はすべての食物をくださったのでお供え物も含めて気にせず食べて良い。

問題は大したことではありませんが問題が発生して当人同士がさばきあい傷つけ合うことによる結果がもたらす傷が問題であり波紋へと広がります。ゆえにパウロは小さな問題ですが放置しませんでした。

◆お互いの役立つことを目指して

  • 私は聖書のことばに従い肉を食べません。酒を飲みません。これが私の信じていることです。
  • 私は食物はすべて神様が与えてくださったのですからお供え物も神に感謝して食べます。

②が①を律法から解放されたのに今も縛られてると批判し言葉の口撃をしたとします。

すなわちそれをもうさせまいとしての正論かもしれませんが口撃しさせまいと妨害しているのです。たとえそうなったとしても自己満足に過ぎないのです。教会でお供え物を出され食べる人はどう感じるでしょう。良心が痛むのです。食べながらこれは罪ではないかと思いながら食べるならそれは罪なのです。なぜか?食べないことで神の言葉にしたがい喜ばれる生き方をしてきたが今食べることで神が喜ばれることではないと疑いながらする行為は、喜ばれない生き方を選び取る選択により、罪となるからです。

この人は神に背を向けてる意識に神の光の中を歩めなくなるでしょう。太陽の光を浴びなくなった植物のように枯れるのです。理由は妨げられつまづくもので妨害され、さばきあい傷つけあって信仰を失うなら、この正論の行為は神の喜ばれない行為として非難されるからです。

教会にとり波紋となり痛手を受けます。正論であっても愛の配慮がないとしたら、また愛の配慮が無いと非難する人もまた同じ過ちをしているのです。

私たちは信仰があっても愛が無いなら信仰が無いのも同じす。そして、愛があると自負して信仰が無いなら神の愛の赦しであるイエス様の十字架の愛を受け入れられないなら罪の赦しの救いは無いのです

(19節)そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。

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