愛は律法を全うします

ローマ書 13:8~10

13:8 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。

13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。

13:10 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

◆愛に借りはあっても貸しは無い

(8節) だれに対しても、何の借りもあってはいけません。

人は貸し借りで生きているわけではありません。しかし、人は貸し借りで生きているのです。家を買うとき銀行から借り、車を買うときもローンを組み返済しています。

人に貸しがある、借りがあると思うのは物質的なもの以上に恩の貸し借り、すなわち愛の貸し借りがあります。しかし、愛は貸し借りとは考えないものですが、必ずしもそうとばかりは言えません。

それは、人に良くしてあげてもそれが返ることがなければ見返りを求める自身の心は貸しと考えているのです。気づかないあいだに愛の貸し借りが存在しています。しかし、聖書は借りがあってはなりません。と言います。愛は別ですと。愛の貸し借りがあってもいいと。しかし、借りがあってもいいと。貸しがあると考えるならば人に報いを求めます。

母が亡くなりたくさんの愛と恩に報いることができなかった事に心が痛んでいます。しかし、自らが親となり子に報いられることを求めていないのも親であることが分かるようになり、愛は借りはあっても貸しがないのだと思います。

◆神の愛に生きる

(10節) 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

イエス様は律法で最も大切な教えは、神を愛し隣人を自身のように愛せよと言われました。それが律法であり預言者だと。すなわち、神の御心であると。

律法は人のために与えられたものです。人の社会を築き人がどう生きていくべきかを教えてくれる法令集のようなものです。人を愛し御心を語り働かれた証詞集が旧約聖書と言えます。愛を行うことが旧約(律法であり預言書)の本義ならば愛は律法を完成させるものなのです。

愛に借りはあっても貸しはありません。貸しがあるとしても報いは神様がはらってくれます。そして自分では払えない罪の代価をイエス様が御自分のいのちで払ってくださり今も未来も神様の元で生かされる保証を与えられた恵みにより律法である神の教えを完成うる愛を与えるクリスチャンとして歩ませていただくお互いでありましょう。

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