わたしの心だ

◆主に近づく信仰

イエス様は5章1節で山に登られ、8章1節で山から降りられました。どちらかと言うと山よりも丘陵と言う方が当たっているかもしれません。イエス様の教えのみで3章分書かれているのは珍しいことです。そして、その教えを聞いた人々はイエス様を信じる心を持ち従いました。

山を降りられて直ぐに、一人のらい病人が来たと聖書第2版には書かれています。第3版にはツアラアトと原語発音で書かれています。第3版でらい病とされず原語の音読みをされているのは論議を呼んだ言葉だからです。らい病はハンセン氏病とも呼ばれ、日本では昔、業病とも呼ばれた前世で非道な罪を犯した報いで、あの様な苦しみを受けるために生まれてきたのだと考えられ、哀れみの対象ではなく蔑みの対象と見られていました。感染性のある病と誤解され長年隔離措置が執られて来ました。らい病からツアラアトへの改定の主な理由は差別用語を除くことでした。聖書が人を差別していいのか。と言われたからです。

元来、らい病は差別用語ではありませんでしたが、差別は人の心が生み出すものとして障害者を蔑視する言葉として使用されたため改定されました。改定委員会で何度も話し合われました。議論は聖書翻訳者から現場の牧師を巻き込んで議論となりました。この原語を「重い皮膚病」と訳さず「ツアラアト」とするかの2つまで絞られました。私はツアラアトとすべきだと言う方に賛成しました。それは、重い皮膚病がそのままツアラアトではないからです。アトピーで苦しむ人がみなツアラアトでは無いのです。イエス様の時代、ツアラアトの人は町から離れた死の谷と呼ばれた所で生活しなけらばなりませんでした。詩篇23編の死の陰の谷とはツアラアトの人たちが住む谷のことでした。ツアラアトに犯された人がイエス様に近づき恐れながら近づきお願い毎をします。本当は許されないことでした。そのことにこの人の必死さが伝わります。無理かもしれない、断られ無視されるかもしれない。律法を犯してまで取る行為が無視されたらこの人はどうなるでしょうか? この人のようにイエス様に近づき主の心を捕まえる祈りを捧げる者となりたいものです。

◆わたしの心だ

その心の現れは行動にあらわされます。

「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」ツアラアトの人に感じられるのは拒絶されることへの恐れではないでしょうか。イエス様のほんのわずかな憐れみでも私にかけてくださるならあなたには全能の神の力がおありなのですから。拒まないでくださいと言う必死さがあふれています。主はこの言葉を聞いて、その思いをあらわしました。イエス様の行動を順次みて行きましょう。

(3節)イエスは手を伸ばして、彼にさわり とあります。ツアラアトの人に触ることは常軌を逸した行為でした。感染症とみられ人々から恐れられた病気、律法で触れることも近づくことも禁止されていた。病気なのです。例えば、コロナで重症な人がいます。あなたにその人が会いたいと言われたら会いに行きますか。濃厚接触者になります。なにが言いたいのかと言うと、恐れが先立つと動けません。愛が先立つと行動に移ります。

イエス様のこころがその行動に現れました。手を伸ばして触れられたのです。ツアラアトの人もそんなことを期待していなかったでしょう。ツアラアトの人に触れられたことがイエス様のこころでした。

私たちの罪はもっと汚れていないでしょうか。人々を巻き込んで感染させていないでしょうか。

そんな汚れたこころを持つ私たちにも主は愛のこころを向けてくださる方なのです。そしてわたしのこころだきよくなれと今も目を注ぎ続けてくださっているのです。

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