◆キリスト者としての歩み
ローマ1章から12章までは福音による救いについて12章から福音により救われた人がどう歩むかについて話し始めています。
(2節) この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
神様に焦点を合わせた歩みに自分を変えていく事を薦めています。
◆霊的な礼拝
キリスト者として生きるために「自分を変えなさい」と語っています。
なにが変わらなければならないのか?この世と調子を合わせる生き方が波風立たないし無難な生き方ですがそんな生き方が福音を信じた私たちの信仰の道として、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、ることなのか問われ神の教えに適う自分に変わらなければなければなりません。
私たちがこの世と合わせるのではなく、神の御心に合わせる生き方に、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。と語られる生き方こそ神を日々仰ぎ見る礼拝でありなさいとパウロは薦めます。
◆慎み深い考え方を
12:3節では「思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。」と注意を促しています。
私たちの心は何を思おうが自由ですが、思うことが必ずしも益となるわけではありません。心は神の前に罪を犯すからです。すなわち心で信じて義と認められるのも心なら、心で不満と不平、自己正当化で神に思い上がるならば命の道から踏み外してしまうからです。
例えば、どうしたらいいんですか?と問う時、答を求めてそう問うのか、それとも疑いを挟んで問うだけの疑念を挟んだだけの問いとの違いは何か?
心に思うことは信仰にもなり不信仰にもなる。だからこそ慎み深い考え方をしなさいと語ります。
◆信仰の量り
信仰の量りとは自分が今、信仰の確信として持てる自分の心の器の量です。
私は神様の恵みにより頼んでいますが、今確信を持ち進めるのはここまでです。
後は、神様に祈り、答を待ち進むか立ち止まり待つか、次の導きを祈るか?
神様に自分思いを押しつけるような思い上がるような自分であるなら、神と向き合う日々の霊的礼拝の中で自分が聖霊により新しく変えられていくものとなるお互いでありましょう。