【福音により集められた群れ】
それが教会です。そしてどういうのが教会なのか
【教会には同じ動きをするものはない】
(4節) 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、教会はキリストの体です。人体に例えられる体はみな同じ動きはしません。いわばバラバラな動きをしています。
【同じ動きをしないのが教会の姿】
教会に人数まだ少ない頃は、教会の活動も何をするのも皆で活動します。
しかし、人数が増え奉仕を分担するようになると自分の担当する奉仕以外のことは分からなくなります。しかし、これは成長し働きが拡大したといえます。
聖書はこのようになるのが体として当然の姿であると、(4節)すべての器官が同じ働きはしないと説明しています。つまり望むべき姿であると言っています。
【賜物により動く教会】
(6節)私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので
私たちはみな賜物を持つ者たちです。すなわち、自分で獲た物以外のものを持つ者はみなギフトにより生きています。
自分の体を鏡で見てください。どれか自分で創ったものはありますか。みな創り主が造り私たちにくださったもの、ギフトです。
人と違う何かの才能、技能を賜物と呼ぶのは的を得ていません。それらのものは生まれつき得ている人はいませんし努力し習い身につけたものです。後からの賜物と呼ぶ人もいますが無いなら求めて得られるものとも言えます。
【大切なことはキリストにあること】
大切なことは、(5節)キリストにある、と言うことです。教会の人数が増えお互いのことが分からず、活動で何をしているのか分からなくても一致がないのではありません。どれほど大きな教会も、素晴らしい説教も、建物も、奉仕も、キリストに繋がろうとしないものは教会としての意味を持ちません。(礼拝、聖研、家庭集会、役員会であってもそうです)これらのものが他の集まりと違うものでなければなりません。
それはキリストにあって、と言う集まりでなければなりません。
一人一人がキリストにつながっていることです。ただ胆に教会に来ているとか奉仕しているとか、問題ではありません。教会は共同体であることを重視しますが神様に繋がるのは個人的なことです。教会が救われるのではなく個人が救われるからです。家長が救われたから家族が救われるわけではないからです。
だからこそ一人一人がキリストに繋がる、キリストのある、キリストとともにある、キリストの内にある希望、キリストの恵みのうちにある者として歩みましょう。