キリストの心があるのです

◆神の御こころを知る御霊

(11節) いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。

自分の心は自分のみが知る所です。他人にその思いを共有することを強いることはできません。できることがあるとするならば、ただ思いやるのみです。

神の思いを誰が知ることができたでしょうか。天地を創り人を創造された神が背かれ続け、それでも見捨てない神様のこころを誰が知りその計画を共有したでしょうか。 聖書は言います。神の御こころは御霊が知っていると。

(12節)ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。神の御こころを唯一知る御霊が私たちに与えられているとパウロは語ります。

ならば神様の御こころを全て知り得るのかとそうではありません。御こころを知る御霊が教えてくれることのみです。

私たちが知り得るのは神様の恵みの賜物、すなわち信仰に関する賜物だけです。

例えば私たちは病院に行き自身の病気と治療、手術ならば懇切丁寧に手術のやり方まで聞きたいでしょうか?私たちが聞きたいのは可能性があり治るかどうかだけです。全てを知るのは担当医だけでいいのであり、後は信じて委ねるのではないでしょうか。

◆キリストのこころ

(16節) いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。

御こころを知り、神にも勝る知恵と知識、新しい計画を持ち得る人はありません。

なのに人はなぜ神様はと奢り疑義を挟むのでしょうか。

おもしろいのは次の言葉です。ところが、と言うパウロです。次ぎに来る言葉が、思い高ぶらずへりくだり信じなさい。なら分かるのですが、ところが、神の御心も計画も計り知れない神の思いに比べるべきもないことは百も承知、私たちに与えられた御霊は何よりも大切な賜物を下さっているとパウロは言いたいのです。それは、キリストの心です。信仰と愛の心が御霊により与えられていると。

以前にイエス様のこころについて語りました。それは病に苦しむ人が御こころ一つで癒されますと言い言葉で癒されることを求めたにも関わらずイエス様はわたしの心だと言われ病人に触れられました。それは苦しむものに触れ愛を持たれるイエス様のこころでした。私たちには神様の御計画や御心についてどうこう言うことができる知恵や思慮があるわけではありません。イエス様は御計画と御心を成就する当事者でありましたがただ信頼して従う十字架の道を歩まれました。私たちは神様の御こころに理解が及ばず自分の思い通りに「ならなくても、最善に無し、説きに逃れの道をも供えてくださる神様に信頼し、イエス様の思いに満たされて信仰と神様への愛を下さる御霊に導かれて歩みましょう。

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