信じる力

ロ-マ 12:12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。

◆望みを抱いて喜び

私たちは神にあってどのような信仰の望みを抱いているでしょうか?しかし、私たちが思っている望みは漠然としているかもしれません。

神様がくださる恵みの賜物は人間が約束しているのではなく全能の神様が約束してくださっているものです。ゆえに望みが確信のレベルになり望みを抱いて喜ぶことができるのです。

望みは、約束に対して抱くものですから約束を知らなければ望むことも少ないと言えます。私たちが抱く望みは天国をまず挙げますが神様は多くの約束を与えてくださっているのに知らないことは残念なことです。例えば、飢えた人が大金持ちが欲しいものを与えると言っているのに水だけ欲しいと言うようなものです。

信仰の望みによる確信からくる喜びを与えたいと願われる神様に感謝しましょう。

◆望みを喜びにする祈り

望みを抱いて喜び、と言われた言葉を読むと喜べないこともあるのかと考えたくなります。実は言うと信仰の歩みには喜べないこともあります。喜べることばかりじゃありません。パウロは信じたら悩みも苦しみもなくなるような幻想は語りません。なぜならイエス様を信じて誰よりも苦しんできたのはパウロだったからです。

だからこそ信仰の歩みに苦しみがあっても望みを抱いて喜ぶことことができるのは望みに対する約束への確信が神様にある喜びに立たせてくれることを分かち合おうとしています。

この望みはイエス・キリストにある望みです。この望みが喜びとなるには、イエス様にあるものに与えられるわけですからイエス様に繋がる祈りが必要です。聖書の約束から与えられる望みが知識から信仰に変わるためには祈りが必要です。なぜなら祈りは祈る者がイエス様から受け取る確信の信仰を与えてくれるからです。

◆望みと祈りを繋ぐ患難

望みを抱いて喜ぶために祈りが必要です。そして、望みが確信となり喜びとなるために祈りが必要ですが。これが、絶えず祈るとなるにはもう一つ必要です。それは料理の隠し味のようなものです。ピリッと辛いスパイスのようなものが必要です。それは艱難、試練です。神様は私たちが祈らないことをよくご存じです。絶えず祈り、信仰からくる望みの確信がリアルなものとなるために艱難があり絶えられないと感じる時、神様に依り頼まなければ生きられないと悟るときより頼むものと変えられるのです。しかしここで私たちの信仰があきらめの信仰ならば望みを抱いて喜ぶ信仰からはほど遠いものです。

私たちが望みを抱いて喜ぶ者となるために、祈り神に寄り頼む者としてくださる神様の大きな愛に信頼しましょう。

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