神の義と私の義

◆救霊の思い

パウロには切実な心の願いがありました。それは「彼らの救われることです。」と言っています。彼らとは誰でしょう。彼ら(同胞、同国)すなわちユダヤ人の救いでした。この思いを9:2 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。9:3 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。とその思いを吐露しています。イエス様に近づき、その心に神の愛が注がれて満たされて行くならば、この悲しみと痛みを共有する者となります。クリスチャンは主にある喜びの人である反面パウロと同じように悲しみを持つ人です。しかし、その痛み悲しみは悲嘆に暮れる世の悲しみとは違います。なぜならこの悲しみは福音を伝える力だからです。「彼らの救われること」私たちも切実な思いを持ちまだ信じていない家族、知人、日本のために祈りましょう。

◆的を外した信仰

「彼らが救われること」ちょっと待ってください。ユダヤ人はアブラハムの子孫、聖書を学び、従い、礼拝を捧げ、献金をささげる神の対して熱心な信仰者たちです。なのに彼らが救われることを切実に願うとはどういうことでしょうか。

(2節) 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。

ユダヤ人が神に対して熱心であることは自らも熱心であったパウロが一番良く知っていました。しかし、その熱心は知識に基づかないものでした。

熱心な努力、探求も的はずれではどんな努力をしても目的を達成できず無駄に終わるからです。

その的外れとは(3節) 彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかった、ことです。

彼らの目標は「神に義とされる事」でした。神様の義を得るために言われる通りに右にも左にもそれず行うことが正しい道でその到達点は神の義の栄冠だと理解していました。しかし、アブラハムの子孫がその出発点の恵みによることを見失い、従うことに信仰の意義を求めました。キリストは神の言葉の本来の意義を見出させようとされたのです。

(4節)キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。イエス様は神の教えを破棄されてしまわれたと言う意味ではありません。御自身でこう言われました。

マタイ5:17わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

律法の終わり、信仰による義。矛盾していませんか?とパウロは話しを展開します。

(5節)モーセは、律法による義を行なう人は、その義によって生きる、と書いています。モーセは律法を行えば、義とされると言ってるじゃありませんか?

神に従い律法を行えば義とされる事は聖書が教えているのではありませんか?

◆神の恵みにだけ目を止めて

(6節)しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。

7節また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。

パウロの論理はこうです。信仰により義とされ救われるのはイエス様が成し遂げてくださった真理だ。だから、信仰による義ではなく行いによる義を追い求めるイスラエル人は救われない。とは言うな。と語ります。

キリストを引き降ろすことは救いの十字架を無意味とすることであり、キリストを死者の中から引き上げることは滅びに落ちる必要が無いと言っていることだとパウロは語ります。主はユダヤ人のように行いで義を求める人のためにも、異邦人のためにも死んでくださいました。

誰が救われて誰が救われるかは私たちが論ずることではありません。ただ、信じる者に与えられる信仰の義の恵みを確信し、イエス様の福音が伝えられ広がり、神の国が来たることを祈りましょう。

そして、誰でも信じる信仰による救われる救いを完成してくださった恵み。この恵みに信頼する者でありましょう。

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