神様は私たちの創造主として主権を持ち、愛とあわれみを持って召してくださった救い主です。
◆神様の主権
19節神に責められる人とは誰でしょうか?18節みこころのままにかたくなにされた人たちのことです。
イスラエルの民は神に背き偶像礼拝と罪に生き、放置しておけば滅びて行く人たちでした。しかし、神様はみこころにより救いの手を差し延べ救われました。「みこころのままにかたくなにされる」とは、神様が止めることなく放置されることです。
20節あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と神に言い逆らい抗議するのは人間の奢りです。
21節は神の主権を語ります。ある一部が人間の主権で、ある部分が神の主権であると思うがゆえに、神様は何故このような理不尽なことをと考えてしまいます。神は人間に自由をお与えになりましたが、主権はお渡しになられたのではありません。神様は奢り高ぶり罪と死の力に支配されている人間(その滅ぼされるべき怒りの器)とパウロは陶器に例えています。
◆あわれみの器
22節豊かな寛容をもって忍耐してくださった、と滅ぼされるべき怒りの器が、あわれみの器とされ神の愛が示されています。神様が人をあわれれみ選び救われるのは、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器を通し神様の栄光をあらわすためでした。
24節神様はあわれみの器をユダヤ人からだけではなく神を知らない偶像を礼拝する文化圏からも召されました。それが私たちです。
パウロはここで神の愛について旧約聖書を引用しています。
25~26節ホセア書2:23から「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び」、
27~29節イザヤ書7:22、1:9を引用し「救われるのは、残された者である。」と語り、創世記のソドム、ゴモラの滅びを引用し神の愛が無ければ全ての者は滅びているはずなのに神のあわれみを忘れ、罪を犯し続けたことも忘れていると警告するとともに深い神様のあわれみを語ります。
30節義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。神の義を得たのはただ神の恵みでありイエスの十字架の愛への信仰によるのです。32節信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。
信仰によらずに神を求めた神の民たちは、神に従う行いによる義へと信仰がすり変わるとき、つまづきの石であるイエスの言葉を受け入れられなかったのです。
33節「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」恵みにより救いを得た今、彼に信頼する者は、失望させられることがない。全てのことをに主に信頼を置きましょう。彼に信頼する者は、失望させられることがない。と約束されているからです。