わたしの名を知らせる器

◆恵みによる救いを得た今

パウロは前章節で、いかなるものも、私たちをキリスト・イエスの神の愛から引き離すことはありません。と語っていました。

(5:10)敵であった私たちが、御子の死によって神と和解を与えて下さった神は、(8:2) キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放され(8:1)今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがありません。とあるように、今までのように罪の苦悩に嘆き悲しむ必要はなくなりました。

そして、私たちは罪が赦されただけではありません。聖く生きられるようにと、助け主なる聖霊を与えてくださいました。キリストによる恵みは大きく、滅びる体をも贖う神の栄光に預かるキリストと同じ神の子の恵みの相続人として下さいました。

◆救われた後の悲しみ

しかし、この喜びも、次の瞬間には大きな悲しみに変わるのはなぜでしょう。私の喜びと感謝が大きいければ大きい程、私の悲しみも大きくなるのです。

私たちがこの喜び、感謝に浸っていても、私たちの愛する家族や友人たちはどうなるのだろうか。この喜び、福音の恵み、キリストによる救いを理解せず受け入れようともしないではないか。自分ひとりだけ救われても、真に嬉しくなれず、悲しみが増大するのです。今まで考えもしなかった思いが心に浮かび痛むようになります。

これは救われた者の良心の感覚です。故にパウロは、腹の底から絞り出すような言葉をもって「私には大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない(9:2,3)とまで言っています。

私たちもパウロと同じように恵みにあずかった故に、まだ信じていない愛する者たちの事を心配し心痛める者となっ「たのです。以前はそうではなかっ「たはずです。愛する者たちのために、神の救いの福音、恵みにあずかれるよう祈りましょう。

◆恵みを伝える者に選ばれて

イエス様を信じる信仰により神の子供となった私たちは約束の子と呼ばれます。(8節)すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。

私たちが神様に召され選ばれたのはイスラエルと同様に優れているからではありません。イスラエルの民という民がいて選ばれたのではなく、誰もいない状態から増やし群れとされた民、いわば0から創られた故に恵みをあらわす民なのです。

パウロは選ばれた者がいるなら選ばれなかった人はどうなるのかについても論じています。

神は不公平なのか?

人は何も与えられなくても平気でいますが、他人に与えられて自分には与えられないと不公平感を持ち不公平な仕打ちをされたと思いいらだちを覚えます。

しかし、神様は公平です。人は全て罪の力、死の力の支配に置かれています。救いを得る権利があり要求できる神様との関係ではないのです。罪で裁かれるのは自業自得です。それではこのように反論される方もおられるでしょう。罪はアダムによりもたらされたのでありアダムの責任なのだから私たちには責任ありません。それなら、自身の力で罪を払い罪を犯さなかったらいいじゃないですか。それができないのに罪の裁きアダムを非難するのは間違っています。

例えば、自分が貧乏である責任は親が悪いからだと思うようなものです。豊かになりたければ自分で頑張ればいいのです。親の遺産で豊かならそれは恵みなのです。私たちは恵みを信仰によりいただく者となりました。棚ぼたでいただいたものを私たちが分け与えるために召され選ばれたのですからさらに神の愛を知り救いの力である福音を証ししましょう。

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *