◆測り難し神様への信仰
(33節)ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。
(別訳) ああ、深きかな、富と知恵と知識、極めがたき神の裁き、尋ね難きその道は。
全能の神、全知の神、愛と恵みに富む私たちの主について、人はどれほどこのことを受け入れているでしょうか?
いつも神を測ろうとする人間―私という物差しで測ろうとする人間、測れないと、何故、どうしてと、測れないことが間違っていて理不尽であるかのように思ってしまう人間。
神の深さ、大きさ、測り難いと言うことを受け入れることができるのは知識ではなく信仰しかありません。
神の救いについてパウロは語ります。改めて神の深さを知るとき、ああ、と感嘆しか出ない。ギリシャ語ではΩ。日本語では ん ですが。驚きとこれ以上語る言葉がないのが感嘆すると言うことです。
◆その次ぎも信仰
(34節) なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。
イエス様は神の御心を知りどうしたでしょうか?御計画に対して、私は父なる神とは違う意見なんだけどと言われたでしょうか。十字架なんか止めて、
人類を救うことは止めて新しく創り直せばいいじゃないですかと言ったんですけどね。と言われたでしょうか?
イエス様は神様の御計画にただ従われました。これが信じて歩む道です。
教会はどうでしょうか?働きの計画を立て、意見を陳べます。神様は委員会を開き意見を求められません。何故?神様は全知全能だからです。最も良い計画を立てられご自身の方法を進められるからです。私たちはこのことを受け入れているでしょうか?
何故神様はと、イスラエルの民は受け入れませんでした。
私たちもそうなうかもしれません。大切な事は、神様のなさることに意見を言うことではありません。
神様の御計画に意見が言えるような知恵をもたない私たちは信仰をもって受け入れる。御計画を受け入れることのできる心は信仰しかありません。
(36節)どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。