あわれみの器

神様は私たちの創造主として主権を持ち、愛とあわれみを持って召してくださった救い主です。

◆神様の主権

19節神に責められる人とは誰でしょうか?18節みこころのままにかたくなにされた人たちのことです。

イスラエルの民は神に背き偶像礼拝と罪に生き、放置しておけば滅びて行く人たちでした。しかし、神様はみこころにより救いの手を差し延べ救われました。「みこころのままにかたくなにされる」とは、神様が止めることなく放置されることです。

20節あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と神に言い逆らい抗議するのは人間の奢りです。

21節は神の主権を語ります。ある一部が人間の主権で、ある部分が神の主権であると思うがゆえに、神様は何故このような理不尽なことをと考えてしまいます。神は人間に自由をお与えになりましたが、主権はお渡しになられたのではありません。神様は奢り高ぶり罪と死の力に支配されている人間(その滅ぼされるべき怒りの器)とパウロは陶器に例えています。

◆あわれみの器

22節豊かな寛容をもって忍耐してくださった、と滅ぼされるべき怒りの器が、あわれみの器とされ神の愛が示されています。神様が人をあわれれみ選び救われるのは、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器を通し神様の栄光をあらわすためでした。

24節神様はあわれみの器をユダヤ人からだけではなく神を知らない偶像を礼拝する文化圏からも召されました。それが私たちです。

パウロはここで神の愛について旧約聖書を引用しています。

25~26節ホセア書2:23から「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び」、

27~29節イザヤ書7:22、1:9を引用し「救われるのは、残された者である。」と語り、創世記のソドム、ゴモラの滅びを引用し神の愛が無ければ全ての者は滅びているはずなのに神のあわれみを忘れ、罪を犯し続けたことも忘れていると警告するとともに深い神様のあわれみを語ります。

30節義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。神の義を得たのはただ神の恵みでありイエスの十字架の愛への信仰によるのです。32節信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。

信仰によらずに神を求めた神の民たちは、神に従う行いによる義へと信仰がすり変わるとき、つまづきの石であるイエスの言葉を受け入れられなかったのです。

33節「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」恵みにより救いを得た今、彼に信頼する者は、失望させられることがない。全てのことをに主に信頼を置きましょう。彼に信頼する者は、失望させられることがない。と約束されているからです。

わたしの名を知らせる器

◆恵みによる救いを得た今

パウロは前章節で、いかなるものも、私たちをキリスト・イエスの神の愛から引き離すことはありません。と語っていました。

(5:10)敵であった私たちが、御子の死によって神と和解を与えて下さった神は、(8:2) キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放され(8:1)今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがありません。とあるように、今までのように罪の苦悩に嘆き悲しむ必要はなくなりました。

そして、私たちは罪が赦されただけではありません。聖く生きられるようにと、助け主なる聖霊を与えてくださいました。キリストによる恵みは大きく、滅びる体をも贖う神の栄光に預かるキリストと同じ神の子の恵みの相続人として下さいました。

◆救われた後の悲しみ

しかし、この喜びも、次の瞬間には大きな悲しみに変わるのはなぜでしょう。私の喜びと感謝が大きいければ大きい程、私の悲しみも大きくなるのです。

私たちがこの喜び、感謝に浸っていても、私たちの愛する家族や友人たちはどうなるのだろうか。この喜び、福音の恵み、キリストによる救いを理解せず受け入れようともしないではないか。自分ひとりだけ救われても、真に嬉しくなれず、悲しみが増大するのです。今まで考えもしなかった思いが心に浮かび痛むようになります。

これは救われた者の良心の感覚です。故にパウロは、腹の底から絞り出すような言葉をもって「私には大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない(9:2,3)とまで言っています。

私たちもパウロと同じように恵みにあずかった故に、まだ信じていない愛する者たちの事を心配し心痛める者となっ「たのです。以前はそうではなかっ「たはずです。愛する者たちのために、神の救いの福音、恵みにあずかれるよう祈りましょう。

◆恵みを伝える者に選ばれて

イエス様を信じる信仰により神の子供となった私たちは約束の子と呼ばれます。(8節)すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。

私たちが神様に召され選ばれたのはイスラエルと同様に優れているからではありません。イスラエルの民という民がいて選ばれたのではなく、誰もいない状態から増やし群れとされた民、いわば0から創られた故に恵みをあらわす民なのです。

パウロは選ばれた者がいるなら選ばれなかった人はどうなるのかについても論じています。

神は不公平なのか?

人は何も与えられなくても平気でいますが、他人に与えられて自分には与えられないと不公平感を持ち不公平な仕打ちをされたと思いいらだちを覚えます。

しかし、神様は公平です。人は全て罪の力、死の力の支配に置かれています。救いを得る権利があり要求できる神様との関係ではないのです。罪で裁かれるのは自業自得です。それではこのように反論される方もおられるでしょう。罪はアダムによりもたらされたのでありアダムの責任なのだから私たちには責任ありません。それなら、自身の力で罪を払い罪を犯さなかったらいいじゃないですか。それができないのに罪の裁きアダムを非難するのは間違っています。

例えば、自分が貧乏である責任は親が悪いからだと思うようなものです。豊かになりたければ自分で頑張ればいいのです。親の遺産で豊かならそれは恵みなのです。私たちは恵みを信仰によりいただく者となりました。棚ぼたでいただいたものを私たちが分け与えるために召され選ばれたのですからさらに神の愛を知り救いの力である福音を証ししましょう。

恵みによる勝利

◆神様は私たちの味方

神様は私たちの味方である。と聖書は語ります。何と大きな慰め、励まし、安心でしょうか。

私たちは神に逆らい、罪に生き、反抗する心を持ち生きていました。そのような時でも神様は私たちの味方でした.

神様が味方である根拠が2つあります。①ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された②キリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださることです。

①御自信の御子を惜しまずに死に渡された

(ヨハネ3:16)神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

救いのために最も大切なものを引き替えにすることを厭わないほどに愛されている証拠を見て愛されている私たちに対し神様が味方であることが納得できるでしょう。また、この神の愛があるがゆえに、私たちは自分に失望落胆してもイエス様がいてくださり味方である御言葉の励ましは私たちの力です。

②キリスト・イエスが…、私たちのためにとりなしていてくださる。

私たちの弱さを知り、救いのためにとりなし弁明して助けてくださるのです。

◆キリストから引き離すのは何か

(35節) 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

みなさんがもし自分が信仰を捨てイエス様から離れる理由が起こるとしたらどんな理由だと思いますか?家族の死、病気、自身の病気、災害(大震災級)、人生が上手く行かない、世の中の方が楽しい、日曜日に教会行く時間が無駄に思える。様々上げましたがこれらの誘惑も最も自分が攻撃されたら弱い部分がネックとなります。その様な誘惑、罪と肉などの力が信仰から引き離し信じる前の状態よりも悪くします。出エジプト記でエジプトから脱出した民は荒野で飢えと渇きに見舞われた時、再びエジプトに帰ろうとみんなに呼びかけました。

恵みを経験してもネガテイブな思いから他者を巻き込み再び奴隷に戻ろうとしました。彼らを神様の救いから元に戻ろうと思わせたのは今の苦しみ、現状への不満でした。神に近づこうとせず不満を正当化する思いに神への反抗心が離れさせてしまいました。

◆勝利の鍵はキリストの愛

そんな力、思いに勝利し、神様から離れる心をつなぎ止めるのはイエス様の愛です。死と病の苦しみも、いのち(この世の楽しみ)もキリストへの愛が私たちを神様から離そうとする力に勝利する鍵はイエス様が私たちに顕された愛です。イエス様が表された愛に繋ぎ止められて信仰を持ち歩む私たちでありましょう。

神に召された人たち

◆すべての事を益と

(28節) 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

皆さんは神様がすべてのことを働かせて益としてくださる事を知っているでしょうか。そして、この知識が信仰の確信となっているいるならばキリストに強く結びつけてくれるものとなります。この御言葉の信仰に立っていて欲しいと願います。

28節は信仰の道において起きてくる神の御業について語っています。すべての事が私たちをキリストに近づかせる神様の恵みと信頼する確信がここにあります。

◆弱い私たちのために

(26節) 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。

信仰は見た目ではわかりません。肉体的強さで信仰が強いわけでもなく、気が強いから信仰が強いわけでもありません。人は様々な弱さを抱えていますが、自分は強いと自信を持ち神様なんか必要ないと思う人ほど弱いような気がします。

キリストと栄光を受けるための信仰の道は苦難の道です。そんな私たちを御霊は同じようにして助けてくださいます。何と同じでしょうか?それはキリストと同じようにです。具体的にはとりなしの祈りです。34節罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちのためにとりなしてくださっていると書かれています。御霊とキリストが弱い者のためにとりなしてくださる心強い約束がここにあります。

◆とりなしの祈り

(26節)御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

(27節)人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

私たちはとりなしが必用です。何故なら私たちは罪、信仰、様々な弱さをもっているからです。例えば私たちは思いを尽くし、力を尽くし、神様と人を愛せてはいない不義なる者です。神様はわかっておられます。真理に従えない弱さを持つ私たちのために、御子と聖霊にとりなすよう神様は御霊が私たちの心に住まわれるのでその思いを誰よりも知っておられ、うめきをもってとりなされます。それは言葉にならない祈りなのです。言葉にしやすい祈りは楽ですがうめくように祈る祈りほど大変なものはありません。何故か、それは弱さを持つものの為に祈るからです。神の御こころにより御子イエスと聖霊に祈られているている私たちへの愛を向ける神様へ深い信頼を持ち歩めるお互いとなりましょう。

からだの贖われることを

◆栄光の望み

(18節) 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

私たちの今経験する苦しみや悩みは何のためにあるのでしょうか。人生はどこに向かって歩んでいるのでしょうか。あなたの人生の目的は?と聞かれてすぐに答えられる人は多くはないでしょう。 聖書は18節で教えてくれています。

理解するためにここで使われている語句について3つ説明します。

①今の時のいろいろの苦しみ  ②啓示  ③栄光

①今の時のいろいろの苦しみ

それはキリストと共に歩む苦難です。(17節) 私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしている。信仰を持ち歩む者が栄光を受けるための苦しみです。キリストの苦難は十字架の苦難です。そして、この苦難は罪を裁かれる私たちが負うべき十字架ですがイエス様が背負ってくださっています。イエス様とともに歩む限り罪の滅びから救われあすが共に歩む苦難はあります。その歩みが信仰の歩みなのです。

②啓示

啓示とは天から映し出される映像のようなものではありません。神様が創造される具体的な形を意味しています。神様は創造された人間を御自身の形に創造されました。神様が望んでおられる本来の人間の形を意味しています。

③栄光

何故、体が贖われることを望むのでしょうか?それは、私たちの体はイエス様の救いを得た今も罪に犯され死の力に支配されているからです。(信じて死と病が無くなった人はいますか?)いないとしたら死の力はまだ皆さんを支配しています。)  私たちはこちら側の世界から見ているで死と病は常識のことですが、天国は死と病のない世界でそれが常識の世界なのです。私たちは信じて御国の国籍を得て住民登録ができているのです。

罪から完全に救われる完成の時、栄光の姿を望みを抱いてイエス様と共に死と滅びの世界を歩んでいるのです。イエス様と共に歩む道、それは十字架の道かもしれません。しかしこの十字架は私たちの罪を裁く十字架でありイエス様が背負ってくださっているものです。

十字架の贖いにより魂は救われていますが、体は贖われていないので罪の誘惑と力が私たちを苦しめます。その証拠は、永遠の命を与えられた私たちの体は死と病の支配からは解放されてはいないことです。罪によりもたらされる人の不幸は今も続いています。からだの贖いは霊とからだの完全な罪からの救い、死から勝利です。私たちは罪から完全に救われた体が与えられる日を待ち望んでいるのです。    

◆被造物の叫び(からだが贖われること)

ここで被造物と私たちのからだが贖われる事についてお話します。

19節被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。

神の子の現れは、霊も体も贖われて死の力と支配に勝利した者達の現れです。

被造物はこの時を待っているというのです。

あらゆる生き物は死にます。罪があっても無くても死の力は支配しています。

悪魔の支配する死の力に屈しているのが現実です。

21節 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

20節では神の意志により虚無に服したと書かれています。

人間の罪により全ての命が死に従属させられるようになりましたが、自然界の死は神様の御意志による死に服しています。霊も体も贖われた神の子たちの現れが被造物も死から解放される自由の時なのです。

御霊によりからだの行いを

8:17 私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

私たちはキリストと栄光をともに受けるために、イエス様と苦難をともにしているでしょうか。イエス様の苦難とは十字架です。私たちはこの十字架の死と一つになっていなければならないことを今日の聖書で教えています。

キリストの十字架の苦難は神の栄光のためです。そして、私たちはこの栄光をキリストとともに受けることができます。キリストの苦難について、私たちはキリストと信仰で一つであるならば苦難もあります。

神様はキリストを信じる者が試練に会うことを隠したりなさいません。信じたら良いことばかりあるよと言えば人は喜ぶでしょう。しかし、真の神様は信じても苦しいこともあるし、悩んでしまうこともあるよ。と世の中を真正面から捉えます。

キリストと、栄光をともに受けるために苦難を2つの面からお話します。

◆外からくる苦難  

長崎の原爆で被爆した医師であり作家となった永井隆というクリスチャンの方がいました。永井さんの書いた有名な著書に「長崎の鐘」という本があります。その中でご自身の体験と信仰を語っておられます。ある復員兵が我が家に帰ると最愛の妻と五人の子供の骨が散乱、人は原爆は天罰、生き残った人は神様の恵みをいただいたのだという。そして永井さんに問います。「そんじゃ私の家内と子供は悪者でしたか?」死んだ者は罰があたったのかと。永井さんはこう言います。「原爆が浦上に落ちたのは大きな神の摂理、恵みである。」と自らも被爆され苦しみのなかにいました。戦争を容認しているのではありません。生涯を核兵器反対の為に筆をとり続けられた方でした。長崎の原爆は当初、小倉に落とすはずでしたが悪天候のため次の候補地である長崎に急遽変更となりました。長崎も軍港があり兵器工場ありましたからそこが目標でした。目標から外れ浦上上空550mで炸裂し9000度の熱と爆風、放射線が多くの人命を奪いました。永井さんはこれを小倉ではなく他の地では無くこの地に落とされたのは人知では計り知れない神の摂理だと。永井さんは言います。この苦しみは神の苦しみである。と

人類の罪である核兵器の苦しみを味わい死と向かいあい、他者の為に祈り涙するために選ばれたことは恵みだと。この悲惨をこれで最後にしなければならない。

信仰により苦難の意味を見出した時、それはキリストと共に受ける栄光となりました。

◆内からくる苦難  

私たちは自分の自我、罪、肉に対してキリストの十字架の苦難を体験しなければなりません。肉は、神に反抗するものであり従わないものです。律法の中心である

マタイ 22:37-40

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。 

22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

神を愛し、人を愛す愛に生きるよりもまず自分を愛します。自分が可愛いのです。

8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

律法によるなら私たちは落第生です。義とされることなく罪の代価である死と滅びが終着点です。人類には自己の正しさにより義とされる道は無理でした。しかし、キリストの死に繋がることにより御霊によって、からだの行ないを殺すなら、こっれがキリストにある内なる苦難です。神学用語では磔殺と言いますが。キリストともに十字架につけられこの死を日々信仰によりキリストと十字架の死を歩む時、栄光と恵みが天で与えられる栄冠が待っているのです。

内住の御霊

◆肉の思い

御霊の内住はクリスチャンの根幹に関わる部分です。何故なら御霊に導かれる歩みを願う者は御霊に導かれ神の内に歩むからです。

これまで肉について色々書かれていましたが整理して見ておきたいと思います。

7:18肉の内には善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。

7:25この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

8:3罪深い肉と同じような形で  肉において罪を処罰された

8:4肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。

8:5肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。

8:7肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。

8:9神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

ヨハネ3:6肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

まとめ

肉とは私たち自身の体と心を指しています。その肉には善が住んでなく悪に傾く力が働いています。

そのため善(神の御心)を実行したいと思ってもそれをする力が無く、罪の要求する自我の力の前に支配されています。神はそんな私たちを救うためにイエス・キリストを人としてお遣わしになり肉を処罰されました。律法が求める、善、神を愛する事、従う事が出来なくなって罪人である私たちにキリストと繋がることで一つとなり死んだ者と認め、今は律法により失格者としていた者を聖霊が心に入り導き赦されつつ歩む者としてくださり、絶えず私たちのためにうめき取りなしてくださる御霊が導いてくださるのです。

◆御霊に導かれる

生存欲求は肉か霊か、理性は肉か霊か

肉の欲求からくる考えー神の思いを求めない

人―生存欲(命の保存)眠る、食べる、貪ることで罪となる。

   理性―自我、神の事を思わず自己中心

人―御霊 生存、魂、思い、考え(自身の思いとは別に御霊の導きがある)

    聖書は神の思いですから聖書を読み御霊の導きが分かる。

理性であるとか経験があるとかでは無く、最初の執事が御霊に満たされた

ひとが選ばれた理由はここにあります。

御霊の思いに満たされるために、一諸懸命に聖められたいと思っても聖められない(邪念を振り払おうとしても無理、別の思い出満たすこと。御言葉で満たされる為に聖書を読む。

8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

御霊に従って歩みなさい

◆今は罪に定められることは決してありません

(1節) こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

こういうわけで、とはどういうわけなのでしょうか?なぜこう問うのかと言うと、この後の言葉が7章最後のことばと繋がらないからです。ではどこに繋がるのかと言うと7:6の言葉に繋がります。

(7:6) しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。

(7:7)からパウロは「私は」と一人称で自分の事を語りますが、それまでは「私たち」と二人称で語ります。パウロは自信の経験を語り終えあらためて前の語った所の戻り、こういうわけでと語り始めているわけです。

1節後半を見ましょう。今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。人は罪がもたらす死に支配されています。従属させられています。そして神の言葉は律法違反者としての私たちを断罪します。これが罪に定められていますと言うことです。

断罪され罪に定められている人類が、今は、すなわち過去と決別しキリストを信じた者は罪に定められることが無くなりました。(2節)なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

と理由を陳べています。

◆御霊に従って歩みなさい

(3節)で罪に定められた私たちを神様がどの様な方法で救うのか明らかにされ、解放された私たちがどの様に歩むのかについて語る言葉をみたいと思います。

(4節)それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。

(5節)肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。この2つの節で語られている共通事項は「御霊に従う」ということです。

肉に従う=義務の要求(しなければならない善)、7章後半でパウロはしたいと願うが無力な自分がいて神の言葉に従えないでいる自分がいることを訴えました。

御霊に従う=内住の聖霊の心の要求

御言葉を義務と考える限りその要求を完璧に満たさない限り失格者です。

しかし、御霊は義務要求はしません。内に住む御霊が御言葉を心の声として語られる時、義務ではなく自発的な願いとして従うことになるからです。

御霊が心の内にその人の内の願い渇きとして神の言葉に従い、例え従いきれずまた愚かな罪に捉えられても御霊が語る心の声を聞いてキリストに繋がるならもはや罪に定められることなく歩みが続けられるのです。

敬虔を修練せよ

Ⅰテモテ6:11正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。

◆敬虔とは

御言葉にあるごとく神様を信じるすべての人は神の御前に敬虔であるべきです。信仰の道を歩む上で全ての心の姿勢態度が神様に敬虔であるべきです。

では敬虔とはどういうものでしょうか?敬虔なクリスチャンとはどういう人でしょうか?

敬虔を(口語訳)信心=(ギリシャ語)エウセベイア 

敬虔は心の姿勢とおれをあらわす行動と言えますが、敬虔であるために求めて得られ、目指すものだと聖書は教えています。辞書には、敬い慎み深い心と態度、行いと書かれています。敬虔はどのような時に使われるでしょうか。それは信仰、祈り、態度などです。例えば聖書を読み、祈るクリスチャンと礼拝の時しか聖書読まず祈りは人まかせのクリスチャンではどちらが敬虔でしょうか。

敬虔であるとはどのようであるか、色々考えられることですが神様は私たちに敬虔であることを望まれます。聖書に出てくる敬虔な人を紹介します。

使徒の働き 9:36 ヨッパにタビタ(ギリシヤ語に訳せば、ドルカス)という女の弟子がいた。この女は、多くの良いわざと施しをしていた。

10:1 さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。10:2彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、

◆敬虔でない人

敬虔を理解するためにその対義語を考えてみましょう。不敬虔、不信心、不敬

Ⅰテモテ6:5また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。

パリサイ人の中には敬虔(信心)を利得と考えている人たちがいました。マタイ6:5四通辻に立ち祈り敬虔であることをアピールしていました。

教会備品は誰のものですか?教会のものです。それは神様のものです。

聖書には神様に捧げられた物は聖別されたものと呼ばれます。それを取り扱うのに敬虔さを必用としました。同じ物と考え家で取り扱うのと同じように扱う、または教会のものだからと思いぞんざいに扱うならそこい敬虔な信心はありません。

神様のものである理解に敬虔が加わるとき、神様は畏れ敬い信仰を捧げるお方として存在されるお方として共にともにおられる。

◆敬虔を修練せよ

Ⅰテモテ4:7敬虔のために自分を鍛練しなさい。

敬虔な信仰と行動は修練し神様の喜ばれる信仰であるために身につけるべき習慣が必用だと思います。信心とは行動に心を込めるということだと思います。

(4節)その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。

神様を畏れ敬うことを学ぶ時、神の御性質にあずかる者と変えられるのです。

人の心を明らかにする神の言葉

前置きを省き、本論に入りたいと思います。なぜなら、ローマ書の最深部と言われる今日の聖書の言葉を深く理解しキリストの深き愛にも触れたいからです。

◆自己矛盾に生きる私

「ああ、われ悩める人かな」24節冒頭の文語訳の言葉です。

パウロが自分の心を探り、神の言葉に真剣に向き合う中で見出した深い人間理解の内容です。

15節~20節についてその悩みを見てみましょう。

(15節) 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。

ここに自分の中に自己矛盾を発見したパウロの言葉があります。神様の前に喜ばれる正しい生き方をしたいと望む心に対し、欲とエゴを満足とさせたいと行動する自分がいることを見出しました。

律法に従い生きたいと頑張れば頑張るほどそれとは逆のこころの力に引きずられる自分の矛盾した心に、罪に引きずられ死へと落ちていく自身の未来を見たのです。続いて御言葉を見てみましょう。

(19節)節 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。これが人間の真の姿であることを見出したのです。

(21節)節 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。

(22節)節 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、

(23節)節 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。

私の体のなかには罪が支配している現実を見出した時、自分ではあらがえない力に、「ああ」という感嘆の声を「あげるしかない罪人の姿がありました。

◆主イエス・キリストのゆえに

ある牧師は受難週にてこの聖書の言葉を読みイエスの十字架の救いの深き恵みを理解したと語りました。(24節)節 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

この死の体から救う方は自らの十字架の死でピリオドを打ってくださいました。

この死の体の贖いについて8章にて話したいと思いますが今日は「ああ、悩める人かな」と罪に向かう非力な自身に向き合い、キリストの十字架の福音が我を救えり、と信じる恵みに感謝しましょう。

罪が生き私は死にました

私たちはローマ書の主題である1:16「福音は信じる全ての人にとって、救いを得させる神の力」というキリストの救済方法と恵みから目を離してはなりません。

◆罪からくる報酬は死です

人類に戒めを与えたのは神様です。具体的には十戒です。私たちはこの十戒から逃れられません。私たちは日本国憲法に従い生活しているのであり十戒に従うのではありません。と言う人もこの十戒から逃れられません。例えば十戒に「盗んではならない」とあります。日本の法律にこの戒めはありませんか?

十戒の第一の戒めの「あなたには他の神々があっ「てはならない という言葉は日本の法律には無いでしょう。しかし、私たちは創造者との関係から離れて命はないのです。律法は十戒の法律判例集と言えます。十戒の短い教えを具体的に信仰から生活の行動まで規定しています。神に創造された被造物が神の戒め適応範囲に入ります。

原子爆弾の被爆範囲はおおよそ半径5Kmと言われています。このたくさんの人たちが被爆しました。私たちは爆弾で被爆していませんが、罪の被爆は誰もがしています。直らない病です。心と魂を蝕みます。私たちに待ち受けるのは死です。罪から受ける報酬は死です。とパウロは言いました。律法である神の教えはこのことを教えるとともに律法が私たちを罪に定め死を宣告するのです。

◆律法は罪なのでしょうか。

(4節)「律法に対しては死んでいるのです。」神が私たちに求める義に対し私たちは応えることが出来ません。すなわち私たちは違反者、失格者、落伍者なのです。違反者のレツテルを貼られその罪により裁かれます。しかし、律法に対し死んでる者はその対象外です。律法に対する関係が切れているのです。

前回、その関係が夫婦の関係「に例えてパウロが説明していたことを語りました。

律法との関係が切れたなら律法は守らなくてもいいのでしょうか。

私たちは律法との関係が終わり、キリストとの結ばれてキリストとの関係に生きる者と立場が変わりました。キリストは私たちに神の言葉に生きるように求めますからその中に十戒も含まれています。しかし失格者としてのレツテルは剥がされ罪赦された者の札がついています。パウロは律法は私たちを義とするものではないと教えています。では何のためにあるのでしょう。(7節)律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。ある牧師が子供の頃、近所の家の塀に節穴がありました。きになり少し覗いたら見つかってしまい「覗くな」と張り紙が貼られてしまったそうです。それからその張り紙を見るたびに節穴が気になり見たくて我慢ができなくなり覗いてしまったそうです。覗くなと言われると覗きたくなり、食べるな「と言われると食べたくなるのが私たちです。

(8節)しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。

律法は罪を教えます。しかし、罪を教える神の言葉が心を刺激する欲求となることを知るのです。

◆私は死にました

(9節) 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。

「私は死にました。」それはキリストとともに死んでいる信仰に立つことです。

ガラテヤ 2:20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

キリストがわたしのうちに生きている。主の教えに生きる喜びに生きましょう。

霊の強さ

ルカの福音書 1:80

岡野貞一について

1878年鳥取に生まれる

姉とともに教会に通う、14歳受洗、15歳岡山薇陽学院に学ぶ、宣教師にオルガン演奏の才を見出され、東京音楽学校に入学、首席で卒業

同学校で教鞭をとる、4文部省唱歌の編纂に従事、多くの唱歌を作曲する

40年間にわたり教会の奏楽者として忠実に奉仕する

1941年召天。その日まで家族は唱歌の作曲を貞一が手掛けたことを知らなかったという。

ふるさと

帰るべきは天の故郷、信仰の志を果たして帰るのだ、との思いを込めて作曲したという。

志を果たして いつの日にか帰らん

山は青きふるさと 水は清きふるさと

「赦すはよし、忘れるはなおよし」(ロバート・ブラウニング)

忘れられない不完全な我々

全能者の忘却

「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(エレミヤ書 31章34節)

完全に忘れ去ることこそ、全能の所以である。

だから、明日は心配しなくて良い

いつも主が共にいてくださるから

I don’t know about tomorrow

I just live for day to day

I don’t borrow from the sunshine

For it’s skies may turn to gray 

I don’t worry o’er the future

For I know what Jesus said

And today I’ll walk beside Him

For He knows what lies ahead

 Many things about tomorrow

I don’t seem to understand

But I know who holds tomorrow

And I know who holds my hand

明日を心配することなく、罪赦されたものとして、希望を持って歩み続けたい。

幼稚園の保護者からご相談を受けた。朝幼稚園に行きたがらない、泣く、拒絶する、母親から離れない。という日々が続いている。

例年4月は環境が変化する時期である。担任、お友達、お部屋など、戸惑いと緊張の中を過ごしながら順応して行く。ところが今年の長らくの休園、自粛生活が子どもたちにもたらしたストレスは測りがたい。

感受性が強い、変化に対する鋭敏さ

正義感が強い、ちゃんとしていない友だちへの批判的な想い

人が生きて行く上で大切なことは、

人の痛みがわかること

善悪を弁えること

この二つの要素を持っている、大切に育ててあげること、とお話しした。

クリスチャン生活にとっても、重要な要素である。

成長することは霊が強くされること、と聖書は言う

霊とは、私たちの存在の根源である。日々新たにされ続けることが成長である。

「みことばは、たましいと霊を刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分ける」

(ヘブル人への手紙4章12節)

強く生きる、とはどういう生き方か

打たれ強い、我慢強い、耐えて堪えて生きることが強さなのか

人の痛みに寄り添う者であれ

弱い時にこそ強い、弱さの中に溢れる恵

弱いからこそイエス様の愛が身にしみる

「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」

(ピリピ人への手紙 2章4節)

「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」

(ヘブル人への手紙 2章18節)

「ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。」

(ルカの福音書 10章33~34節)

「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」

(ヨハネの手紙 第一 3章16節)

善をもって悪に打ち勝つ者であれ

罪と戦って血を流すまで抵抗したことのない私たち、罪を甘く見てはいけない。

「あなたがたの従順はすべての人に知られているので、私はあなたがたのことを喜んでいます。しかし、私は、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしい、と望んでいます。」

(ローマ人への手紙 16章19節)

「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。」

(ローマ人への手紙 12章9節)

「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」

(ローマ人への手紙 12章21節)

レールのしなやかさ

あらゆる曲線高低差にも対応している

動かぬ枕木に固定されて、何千トン何万トンの負荷にも耐えうる強さを持つ

揺るがぬ土台に築かれた人生

それは罪赦された喜び感謝が謙って生きるものとされる

悔い改めの実を結び、日々新しくつくりかえられてゆく

霊において成長する者でありたい

よみがえった方と結ばれて

◆神の愛が心に注がれ変わる私たち

夫婦の結びつきに例えられる、私たちの罪とイエス様との関係。

夫婦の関係は地上だけにおけるものです。今日の聖書箇所でパウロは語ります。じゃあ天国では赤の他人になってしまい天国では地上での生活を思い出すので知らないふりをする冷たい関係になってしまうのですか?という疑問も成り立たない訳ではありません。またその逆も考えられます。

天国ではキリストの愛に満たされますから神の愛で愛せないことがないので他人の振りするという愛のない行為自体ができないのです。

愛の磁力に惹かれる力により地上で嫌いであった人も愛し、愛さないという偽りの行為ができなくなる。イエス様のより贖われた天における姿なのです。

◆神の御心に歩む結びつき

神様は夫婦の結びつきを2人が一体となると教えられました。

創世記2:24それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。

隣に家が建てられています。外壁工事を見ながら、壁のセメントを流し込むまでに鉄金が入れられ壁が完成しました。セメントと鉄金が一体となった姿を見た時、セメントだけでは脆いが鉄金が入ることにより強度が増す。夫婦関係とはこうではないかと思うのです。男は塵で作られ、女は骨でできています。強度は女の方があります。男は脆いです。しかし、一体になる時に神の創られた目的に、義しとみられるのです。形も素材も違う男と女、これが一体となるというのは無理な話しなのですが、一体となると言われた神の御言葉を信じて様々な違いで一体となることが生半可なことではなく、ぶつかり合い削られ神の御心に一つとなる道に歩む。これが夫婦の道です。並大抵なことではありません。この夫婦の関係も解消される時がきます。聖書は夫が死んだ時はと書かれていますが、夫が先に逝くと決めてかかるところが腑に落ちませんがまあいいでしょう。どちらかがこの関係に背く行為がある時は姦淫の罪、すなわち神を裏切る罪になるというのです。

しかし、片方が死ねば一体となる地上での道が成り立たないので他に結婚してもいいと教えています。夫婦は神が結び合わされた(二人三脚で結び合わされている)絆なのです。独身の頃の自由がないのは当たり前す。

◆よみがえった方と結ばれて

どちらの力が強くても一体となる関係を求められます。罪と私たちも罪の奴隷とされる従属的関係、罪を喜ぶ、欲に惹かれる、支配を受け入れている関係でも一体なのです。

この関係が解消されることを願いますか。この関係を解消させるためには片方が死ななければならないという神の教え、イエス様は人となり死なれました。そして、この方の死と一体になりつながり罪との関係に終わりを告げました。もう別れたのです。振り返ることはできません。携帯のアドレスに前の彼氏のアドレスを残しまた連絡を取ることは罪です。

7:4あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。

私たちは今、イエス様と結ばれているのです。前の罪との関係は支配する関係でした。しかし今は愛によるイエス様と一体となることの信仰の歩みをする今、イエス様とともに歩みましょう。

行き着く所は

◆恵みの下にある今

6:15 それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。

パウロが「絶対そんなことはありません。」と強調して否定する言葉が11回出てきます。そのうち10回がローマ書に出てきます。

パウロは恵みによる救いについての説教で大きな誤解を受けていました。

それは、神様の恵みで罪が赦され続けるなら罪を犯しても大丈夫。罪を犯す事に裁きを規定する律法に対し罪を犯しても大丈夫、良い行いをしなくても神様の恵みがあれば赦して貰える。パウロは律法を否定していると教会内外から誤解されていました。

恵みの下にあり、罪が支配することがないなら「罪を犯そう」罪を犯しても大丈夫?絶対にそんなことはありません。と力を込めて否定しました。

◆罪の奴隷も今は主のしもべ

「奴隷」という言葉が10回でてきます。たった8節の御ことばに数多く出てくることはこの言葉がキーワードとなっています。奴隷という言葉はネガティブに捉えることが多いでしょう。確かに、主人のために過酷な労働、自由の無い生活だとしたら好ましいものではありません。

しかし、パウロは1:1で自分がイエス・キリストに召され応答し喜びをもって奴隷(ドゥーロス)であると名乗り従う者とされたと言っています。

召されキリストの僕(奴隷)となり福音のために働けることを誇りと感じていたパウロは過酷な奴隷でしょうか?自由ではないでしょうか?

罪は人間の欲望に働きかけあらゆる心の汚れに染まるよう誘惑します。

そこには一時の喜び、解放、刺激、快楽が伴います。麻薬のようなものです。

たとえば、薬があります。薬には様々な効能があります。私は血圧が高いので血圧の薬を毎日のんでいます。飲んでも何の変哲もなく、喜びも気分高揚もありません。しかし、飲めば血圧が下がり命が長らえています。また、他の薬には刺激、喜び、高揚感、快楽、ストレス解消、現実から逃避させてくれるものがあります。麻薬と呼ばれるものです。

血圧の薬は毎日飲み忘れない事が大切です。飲めば命を守ってくれます。麻薬は忘れなくても体が求めずにはいられなくなり依存症となり幻覚を引き起こしやめたいと思うけれどその自由はありません。止められないのです。

そして死をもたらします。罪は麻薬のように逃れたいと思っても逃れられない力で人を支配します。

主イエスに継続した信仰をささげ御ことばは忘れず摂取すれば罪に対する免疫を与え、心に信仰と忍耐と平安と希望を与え永遠の神の命が与えられます。

◆キリスト十字架に休み場あり

私たちは肉の弱さは心の弱さがあります。「弱い鳥」と書いて「ひわ」と読みます。黄緑色と黄色の中間色をひわ色と言うそうです。日本は色や音に対し微妙な違いを表現してきました。

何故、鶸と呼ぶのか、色々な節があるみたいですが、群れなければ生きられない。鶸は体に赤い模様があります。鶸について伝説があります。鶸は鳥の中でも茨のとげのある木にとまり羽を休める少し変わった鳥です。ある時、疲れて茨の枝に体を休めるために茨の枝に止まりました。

そして、茨のとげをくちばしで挟み引っぱったら血が飛びちり自分の体にその血がかかりそれ以来赤い斑点ができるようになったと言われています。鶸が抜いた茨のとげは十字架にかかるイエス様の茨の冠だったというのです。西洋画には幼子イエス、バプテスマのヨハネ、イエスの母マリヤの絵に鶸の絵も一諸に絵がかれることが多く、イエス様の受難を表す鳥となったそうです。

弱い鳥、しかし他の鳥が嫌う茨の枝に身を休め、キリストの十字架、イエス様の茨に身を休める場を見出しキリストの血を浴びた衣を身にまとい神の恵みに生かされる弱き鳥。

心の弱さを持つ人間。支えられなければ生きられない者たち。太くて止まりやすくて楽に止まれる木は他の大きな鳥も止まり、小さな鳥は狙われ休み場を得られないでしょう。しかし、茨が身を守り安住の場所を与えてくれるのです。

キリストの十字架に罪の攻撃から身を潜め、人生の苦難もキリストの苦しみに我が身を重ねるとき様々な人生の歩みに勝利なき我が身もキリストの死の勝利に平安に身を休めることができます。

キリストの平安と信仰に身を休めたら、その体をもってお仕えしましょう。

19節そのをささげ、のとなりてにれ。

so now offer them in slavery to righteousness leading to holiness

義の器として

パウロの確信は、1:16 福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。そこからのぶれはありません。

福音を信じた私たちが罪の支配を受け入れ従うことなく、恵みに満たされて歩む様にと奨めています。

◆罪の支配力

私たちの命について聖書は「死ぬべきからだ」と語っています。

人それぞれにより死の向かえ方は様々です。

老齢、病、事故、様々ですが誰もが死にからだは朽ちて行きます。

罪により死が入り支配され、死は当然にことであり避けられない運命であると理解しています。罪により死が入ったと書かれているように死と罪の歴史は同じです。

罪からの救いを信仰により得ている私たちのからだも死に支配されています。

魂は信仰により救われていても体はまだ贖われていませんから罪と死の力は私たちを支配しようとします。私たちはイエス様のものとなりました。しかし、かつての支配者は従わせようとし支配権を行使しています。

私たちの体を一軒の家に例えてみましょう。私たちを創られた方は神様です。所有権は神様です。しかし、その家に別な人が来て住み始め支配してしまいました。家は居住者の思いのままです。

イエス様が来てしの家を買い戻しました。所有者はイエス様です。しかし、所有者が変わったにも関わらず家を支配していた人は出ていかず相変わらず家に住んでいます。あなたが綺麗好きでも居住者はゴミ屋敷にしあらゆる汚れたものが住む家があなたです。あなたはどうしますか?①あきらめる ②所有者が変わった事を主張し出て行ってもらう。しかし、簡単には家の居住権を渡しません。

どうしますか?あきらめてしまうことは支配にゆだねて、従うことです。

私たちがキリストを信じキリストに所有権が移りました。私たちの中に居座り支配権を行使しようとする力に6:12 あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。と聖書は語ります。

◆キリストの支配にゆだねる歩み

6:13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

「ささげる」という行為は婚姻関係で互いの為に時間もあらゆるものをささげて仕えあう意味です。それは一時期相手のために何かをささげることではなく継続的にささげ従う行為と言えます。罪に支配される事を受入れ、従う(流されてしまう)ことに心をゆだねてしまうことにNOと言い、キリストの福音に心満たされ従い、信仰により歩むことにその手足、行為、思い、あらゆることをイエス様にささげる事を動機として歩みましょう。

キリストにつぎ合わされる

もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。  ローマ6:5

◆罪に対して死んだ私たち

(1節)それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。

パウロの1節の言葉は5:20の言葉に対する説明です。

5:20 律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

律法は法律であり生活全般に渡り規定するものです。たとえば、道交法は車社会となり定められましたが、これで何が違反で何が違反ではないのかが明確になりました。信号機は車と人の往来を円滑にするゆずりあいを機械が示しています。信号ができる前も譲り合いは必要でしたが信号機はありませんでした。律法が明示される前も罪は神に対する罪としてありましたが律法により違反とそうでない事が明確になりました。

ゆずりあいが人の良識としてあるならば事故は防げるでしょう。しかし、良識ない人もいますから信号機とルールを守らない人は法律で罰せられなければなりません。例えば、法律を違反してしまい可哀そうに思った金持ちが違反者の罰金を払ったとしたらどうでしょうか。違反者がそれから増え違反者が増えたために罰金も増えました。すなわち、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。違反者はこう思いました。違反しても金持ちがはらってくれるから大丈夫。聖書はこれを否定しています。

(2節)絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。違反者であり続けることはできないと。

人はこう思ったとしたらどうでしょうか。違反をしても金持ちが払ってくれると。しかし、それで良いのでしょうか?金持ちは違反の者の罰金を払うことが望みで喜んでいたのでしょうか。違反者が罰金を払えないので罰金を代わりに支払って違反をしないようにと望んでいるのではないでしょうか。

私たちの赦されたことに対する信仰は、キリストがわたしの罪の身代わりとなり死なれたと信じる事です。私の違反した罰金払って下さったのはイエス様です。イエス様の命が代価なのです。罰金が払われた時、私の違反責任は終わりました。デートリツヒ・ボンヘツファーという牧師は「キリストに従う」という著書でこう言っています。キリストの恵みは高価な恵みです。しかし、高価な恵みを犠牲なしに受け取ったために「安価な恵み」として受け取り、神に対して感謝も応答もなく生きてはならない。と警告しました。

安価な恵みは、服従のない恵みであり、十字架のない恵みであり、生きた人となり給うたキリスト不在の恵みとなってしまった。と

◆キリストにつながるいのち

聖書はイエス様の死の代価それが私たちの為であることを何度も語ります。

(3節)それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。(4節) 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

バプテスマの意味は「沈められる」です。洗礼者ヨハネは悔い改めの印として洗礼を受けるように話しました。それは、罪を終わらせ神の民であろうとも悔い改めなければならないと警告しました。イエス様はその理解を引き継ぎましたが更に洗礼に恵みが追加されました。新しいいのちです。水に沈められて古い自分に死に、自ら上がり新しいいのちに生きることを意味しました。すなわち、十字架と復活です。私たちは洗礼によりこの真理を示す行為を体験し信仰によりイエス様の経験と一つになることにより4節の体験をするのです。私たちの罪の代価は払われたのです。死んだらどうなるの?死後どうなるのと恐れる必要はありません。なぜなら、私たちの違反はキリストの死とともに終わっているからです。信仰によりイエス様につながり続ける事、これが信じるものに祝福をもたらすのです。

(11節) このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

満ちあふれる恵み

恵みの賜物は満ちあふれています。

それはイエス・キリストを信じた私たちに満ちあふれているのです。

◆ひとりの人

恵みの賜物を受ける前の状態の私たちは神様との関係は破綻していました。

律法である神の言葉は、私たち人類を罪人として責め続け敵視する状態、すなわち平和のない関係であったと5章の最初に話しました。

しかし、この状態にある時も神様の愛は人類に向けられていました。贖いという罪からの救い、神様との関係を破綻させた罪を取りのぞき、敵対する関係から逃れの道を用意してくださったのも神様です。

この聖書の内容には「ひとりの人」いう言葉が何度かでてきます。しかし、ひとりの人が誰を指しているのか読み解くと2人の人について語っています。最初に書かれているひとりの人それはアダムです。神が創られた最初の人です。もうひとりの人、それはイエス・キリストです。

◆罪のもたらす支配は死

この2人を対比させながら神の失われた恵みと回復された恵みについてパウロが語っていますから見てみましょう。

(12節) そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がった…

アダムは神様から与えられていた最大限の自由を使い、踏み外してはならない一つの罪を犯しました。食べたら死ぬと言われていたものでした。この罪により人類に死が入ったと語っています。

(14節) ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。

私たちは自分の身に覚えのない罪により不利益を被っている。そう思いませんか?

しかしアダムの罪を責めることのできる人は罪を犯した事の無い人だけです。

死が罪により入ることから自由になりたいなら自分の中から罪を振り払い死から逃れたらいいのです。私たちはこの死の支配、罪の影響から逃れうる人はいません。   これは生まれてから環境により人の影響を受けて罪を犯すのとは違います。もとから持つ罪の性質(Original sin)原罪、宿罪により心が誘引されて罪を犯す。その事から逃れられず、死の支配から逃れられるものはいないため人間はTotal depravity(全的堕落)していると神学用語では人間を定義しています。

この罪の性質と死の支配はひとりの人から全人類にもたらされました。この事から解放する方法もまたひとりに人によってもたらされたと聖書は語ります。

人は内側から変えられ洗い流される為には御ことばにより洗い流され清められなければなりません。コロナより感染力の高い罪は御ことばと聖霊により駆逐されるまで戦いは続きます。

◆義の賜物によるいのちの支配

さてもうひとりの人、イエス・キリストについてみてみましょう。

(15 節)神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。

恵みによる賜物とはどういうものでしょうか。

(18節) こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。

アダムの違反行為により罪とされたその子孫は、こんどはひとりの人の義の行為により、義と認められると。すなわち、ひとりの人による一つ行為=罪、それによりもたらされたものが死の支配、一つの行為=義、その逆がいのちの支配であると言っているのです。

(19節) すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

私たちのイエス様の成し遂げてくださった行為により恵みによる賜物であるいのちに満ちあふれるものと変えてくださることに感謝し、御ことばと聖霊により歩みましょう。

キリストの血によって

神様の愛が私たちに示したものが2つあります。

◆以前の神様との関係

(6節)私たちがまだ弱かったとき 具体的に言うと(8節)私たちがまだ罪人であったときを表しています。

それは神様との関係性をも表しています。前回、私たちは神様との平和を得ています。5:1の言葉を学びました。この言葉を裏返せば元々神様との間には平和の無い関係であったと言っているのです。

神様の御言葉である律法は私たちに罪人の責めを永遠に指摘される。そんな神様との関係でした。

ただ滅びの運命を一方的に受け入れるしか無い状態にあるのが、弱わかった私たちであり罪人の私たちでした。律法は神様との関係性を改善はしてくれません。指摘するだけです。

こういう関係なのに律法で義とされるというのは、自分を全く分かっていないと言うことになります。

◆今の神様との関係

滅びの運命を受け入れるしかなかった状態にある時、神様の側からしてくださったことがありました。愛を顕してくださいました。具体的には(9節)キリストの血によって(10節)御子の死によって イエス様の十字架の死を意味しています。

これが神の愛を表しているとは最初だれも気づきませんでした。わかっていたのはおそらく聖書から言うと預言者イザヤぐらいなものです。

イエスの死の姿は誰が見ても罪人の死、事実の裏にある真実に気がつき神の愛であった事を明らかにしているがパウロの言葉です。神の愛に気がつくためにはギリシャ、ローマのヘレニズム的理解では分かりません。

ユダヤの聖書を背景とした理解があって始めてイエスの死が、罪を贖う神の小羊と理解されて、神自ら備えられた愛であると理解できるわけです。

◆キリストの血によって

私たちは、御子の血と死により、すなわち神の愛によって義と認められ 神と和解し彼のいのちによって救いにあずかるのです。

手紙で受取手に愛を表しても、手紙の配達人にはその愛はありません。

パウロや福音を伝える私たちには伝えようとされる神を愛いする信仰があれば充分です。キリストの血の犠牲。イエス様の命との交換の救いの恵みに感謝しましょう。

(9節)ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

(11節)そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

義と認められた私たち

信仰により神様に義と認められた私たちが、神様との和解の関係にあることをお話したいと思います。

◆罪を責められ和解の成り立たない関係

(1節)神様との和解を得ています。この言葉に疑問を抱かれる方はおられるでしょうか?神様と喧嘩した覚えも無いし、取り立てて神様から恨まれるようなことはしてないはずだと思われるかたがほとんどではないでしょうか。

神様との和解とはどの様なことでしょうか。

レ・ゼラブルの著者ビクトル・ユゴーはこの著書で神に赦される事をテーマに描いています。主人公ジャンバルジャンは妹の体が弱く働けないのでお腹をすかせた子供達に食べさせたいとパン1個を盗みました。そして、切盗の罪で警察に捕まります。切盗は理由があるので罪にならないでしょうか?こういう人を助けない社会が悪いでしょうか?弱者を助けられない政治が悪く  社会変革を求めって叫ぶ民衆の声のようにならなければならないのでしょうか?

どこに罪の責任はあるでしょうか。

脱獄を繰り返し刑期が重くなりましたがやっとの思いで出獄した保釈中の主人公ジャンバルジャンは姿をくらまし警官ジャベールに執拗に追いかけられます。

教会に隠れたところ司教ミリエルと出会いから新しい人生を歩み、人々から信頼され市長にまで出世するバルジャンは新しく生まれ変わった人生を歩み良い人となります。氏素性を隠したジャンバルジャンはなおも警官ジャベールに執拗に追いかけられます。なぜでしょうか。罪人、小さい罪、大きい罪、関係ありません。罪を犯したものは罪人として追いかけ続けるのです。そこには和解はありません。

警官ジャベールは法の正義、律法を、バルジャンは罪赦された罪人クリスチャンを表現しています。

◆神との和解を与える信仰

律法は神の言葉です。罪を指摘する正義があり大小関わらず罪を裁くものです。

十戒には「盗んではならない」と書かれています。バルジャンはどうなりますか。

パン1個なので赦される。子供が飢えていたので赦される。社会は悪いのであり赦される。では2個は赦されますか。聖書はそうはいいません。盗みは罪です。神の物も人のものであろうと盗むのは罪です。罪人と律法には和解は無いのです。

しかし、そんな私たちに律法によらず福音を信じる信仰により、神様との関係に和解を得、罪を責められない関係が成立しました。

(2節) キリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

私たちは罪を指摘されるしかなかった神との関係から恵みによって義とされ罪赦された関係に導き入れられた今、神の栄えを喜び、聖霊により神への愛を心に注がれ、磁石が磁力を失わなければ永遠に鉄を引きつけるように私たちは神への愛に引きつけられ離れる事が無いようにしてくださるのです。

神との和解を得た関係にある今、神に近づきましょう。

主イエスのよみがえりの意味

◆信仰に立つアブラハムの模範

前回は神に義と認められるのは行いや血筋によるのではなく、信仰によるのでありアブラハムもまた信仰によって義とされ、それにならいましょう。と言う話しでした。

それは彼の生き方にならうと言うよりは、信仰のあり方にならうという事でした。

(18節)彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。

この言葉に表されたアブラハムの信仰は神様にのみ信頼を置くものでした。

(19節)アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。アブラハム100歳、サラ90歳、当然出産できる年齢は超えています。  

跡継ぎは無理と判断し苦しんだのです。神様信じて故郷を捨て従って来たのに。彼はこの困難をどのようにしたのか。それは、神様が与えると言われたことばを信じたのです。アブラハムが立派だったと言うのではありません。落ち込み悩んでいた 

アブラハムを励まし神様は信仰に立てるよにしてくださったのです。

それから待ち望む忍耐の期間があり、ハガルにより跡継ぎを得ようと可能性の道を探り神様の言葉を信じた後も迷いました。迷うことは信仰の落第者ではありません。神様の言葉は本当だろうか?アブラハムの子孫としてならば別にサラでなくてもアブラハムの血を引いていたなら神様の言われるアブラハムの子孫なんだし。という神様の言葉の常識範疇での再解釈が行われました。しかし神様は年老いた妻との間に跡継ぎを与えるとの再度の御言葉により神様への確信に立たせていただいたのです。私たちもまた、彼の信仰にならうように奨められていますが具体的にどうするように語られているか見てみましょう。

◆主イエスのよみがえりを信じる信仰

アブラハムの信仰にならうって私たちにどういう事なんですか。という今日のメッセージですが私たちも義と認められなければ天国への入国許可は許されない事もお話しました。私たちも信仰により義とされるとはどういうことかをお話します。

(23節)しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、(24節)また私たちのためです。

アブラハムは不可能を可能にする神様を信じました。私たちにこの信仰にならう求められています。信仰によりは死者がよみがえるという常識を越える出来事、すなわち信じられ無いような出来事を、私たちに神様はあえて信じますかと問われているのです。しかし、死人はよみがえりません。これは常識です。常識ではない答えが信仰によらなければ出せないのです。私たちは神様から義と認められるために死人となられよみがえられた方をどうしたら理解出来るかを伝えてるわけではありません。これは信じる神様の御業として人類の前に置かれた試験石なのです。死からよみがえる。ありえない事を神の御業として理解させてくれるのは聖霊であり信仰なのです。私たちもよみがえった復活の主イエスを信じ信仰により神様に義とされて、天国への道を歩んで行きましょう。