御霊に従って歩みなさい

◆今は罪に定められることは決してありません

(1節) こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

こういうわけで、とはどういうわけなのでしょうか?なぜこう問うのかと言うと、この後の言葉が7章最後のことばと繋がらないからです。ではどこに繋がるのかと言うと7:6の言葉に繋がります。

(7:6) しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。

(7:7)からパウロは「私は」と一人称で自分の事を語りますが、それまでは「私たち」と二人称で語ります。パウロは自信の経験を語り終えあらためて前の語った所の戻り、こういうわけでと語り始めているわけです。

1節後半を見ましょう。今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。人は罪がもたらす死に支配されています。従属させられています。そして神の言葉は律法違反者としての私たちを断罪します。これが罪に定められていますと言うことです。

断罪され罪に定められている人類が、今は、すなわち過去と決別しキリストを信じた者は罪に定められることが無くなりました。(2節)なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

と理由を陳べています。

◆御霊に従って歩みなさい

(3節)で罪に定められた私たちを神様がどの様な方法で救うのか明らかにされ、解放された私たちがどの様に歩むのかについて語る言葉をみたいと思います。

(4節)それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。

(5節)肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。この2つの節で語られている共通事項は「御霊に従う」ということです。

肉に従う=義務の要求(しなければならない善)、7章後半でパウロはしたいと願うが無力な自分がいて神の言葉に従えないでいる自分がいることを訴えました。

御霊に従う=内住の聖霊の心の要求

御言葉を義務と考える限りその要求を完璧に満たさない限り失格者です。

しかし、御霊は義務要求はしません。内に住む御霊が御言葉を心の声として語られる時、義務ではなく自発的な願いとして従うことになるからです。

御霊が心の内にその人の内の願い渇きとして神の言葉に従い、例え従いきれずまた愚かな罪に捉えられても御霊が語る心の声を聞いてキリストに繋がるならもはや罪に定められることなく歩みが続けられるのです。

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