◆肉の思い
御霊の内住はクリスチャンの根幹に関わる部分です。何故なら御霊に導かれる歩みを願う者は御霊に導かれ神の内に歩むからです。
これまで肉について色々書かれていましたが整理して見ておきたいと思います。
7:18肉の内には善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
7:25この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
8:3罪深い肉と同じような形で 肉において罪を処罰された
8:4肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
8:5肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
8:7肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
8:9神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
ヨハネ3:6肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
まとめ
肉とは私たち自身の体と心を指しています。その肉には善が住んでなく悪に傾く力が働いています。
そのため善(神の御心)を実行したいと思ってもそれをする力が無く、罪の要求する自我の力の前に支配されています。神はそんな私たちを救うためにイエス・キリストを人としてお遣わしになり肉を処罰されました。律法が求める、善、神を愛する事、従う事が出来なくなって罪人である私たちにキリストと繋がることで一つとなり死んだ者と認め、今は律法により失格者としていた者を聖霊が心に入り導き赦されつつ歩む者としてくださり、絶えず私たちのためにうめき取りなしてくださる御霊が導いてくださるのです。
◆御霊に導かれる
生存欲求は肉か霊か、理性は肉か霊か
肉の欲求からくる考えー神の思いを求めない
人―生存欲(命の保存)眠る、食べる、貪ることで罪となる。
理性―自我、神の事を思わず自己中心
人―御霊 生存、魂、思い、考え(自身の思いとは別に御霊の導きがある)
聖書は神の思いですから聖書を読み御霊の導きが分かる。
理性であるとか経験があるとかでは無く、最初の執事が御霊に満たされた
ひとが選ばれた理由はここにあります。
御霊の思いに満たされるために、一諸懸命に聖められたいと思っても聖められない(邪念を振り払おうとしても無理、別の思い出満たすこと。御言葉で満たされる為に聖書を読む。
8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。