御霊によりからだの行いを

8:17 私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

私たちはキリストと栄光をともに受けるために、イエス様と苦難をともにしているでしょうか。イエス様の苦難とは十字架です。私たちはこの十字架の死と一つになっていなければならないことを今日の聖書で教えています。

キリストの十字架の苦難は神の栄光のためです。そして、私たちはこの栄光をキリストとともに受けることができます。キリストの苦難について、私たちはキリストと信仰で一つであるならば苦難もあります。

神様はキリストを信じる者が試練に会うことを隠したりなさいません。信じたら良いことばかりあるよと言えば人は喜ぶでしょう。しかし、真の神様は信じても苦しいこともあるし、悩んでしまうこともあるよ。と世の中を真正面から捉えます。

キリストと、栄光をともに受けるために苦難を2つの面からお話します。

◆外からくる苦難  

長崎の原爆で被爆した医師であり作家となった永井隆というクリスチャンの方がいました。永井さんの書いた有名な著書に「長崎の鐘」という本があります。その中でご自身の体験と信仰を語っておられます。ある復員兵が我が家に帰ると最愛の妻と五人の子供の骨が散乱、人は原爆は天罰、生き残った人は神様の恵みをいただいたのだという。そして永井さんに問います。「そんじゃ私の家内と子供は悪者でしたか?」死んだ者は罰があたったのかと。永井さんはこう言います。「原爆が浦上に落ちたのは大きな神の摂理、恵みである。」と自らも被爆され苦しみのなかにいました。戦争を容認しているのではありません。生涯を核兵器反対の為に筆をとり続けられた方でした。長崎の原爆は当初、小倉に落とすはずでしたが悪天候のため次の候補地である長崎に急遽変更となりました。長崎も軍港があり兵器工場ありましたからそこが目標でした。目標から外れ浦上上空550mで炸裂し9000度の熱と爆風、放射線が多くの人命を奪いました。永井さんはこれを小倉ではなく他の地では無くこの地に落とされたのは人知では計り知れない神の摂理だと。永井さんは言います。この苦しみは神の苦しみである。と

人類の罪である核兵器の苦しみを味わい死と向かいあい、他者の為に祈り涙するために選ばれたことは恵みだと。この悲惨をこれで最後にしなければならない。

信仰により苦難の意味を見出した時、それはキリストと共に受ける栄光となりました。

◆内からくる苦難  

私たちは自分の自我、罪、肉に対してキリストの十字架の苦難を体験しなければなりません。肉は、神に反抗するものであり従わないものです。律法の中心である

マタイ 22:37-40

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。 

22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

神を愛し、人を愛す愛に生きるよりもまず自分を愛します。自分が可愛いのです。

8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

律法によるなら私たちは落第生です。義とされることなく罪の代価である死と滅びが終着点です。人類には自己の正しさにより義とされる道は無理でした。しかし、キリストの死に繋がることにより御霊によって、からだの行ないを殺すなら、こっれがキリストにある内なる苦難です。神学用語では磔殺と言いますが。キリストともに十字架につけられこの死を日々信仰によりキリストと十字架の死を歩む時、栄光と恵みが天で与えられる栄冠が待っているのです。

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *