からだの贖われることを

◆栄光の望み

(18節) 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

私たちの今経験する苦しみや悩みは何のためにあるのでしょうか。人生はどこに向かって歩んでいるのでしょうか。あなたの人生の目的は?と聞かれてすぐに答えられる人は多くはないでしょう。 聖書は18節で教えてくれています。

理解するためにここで使われている語句について3つ説明します。

①今の時のいろいろの苦しみ  ②啓示  ③栄光

①今の時のいろいろの苦しみ

それはキリストと共に歩む苦難です。(17節) 私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしている。信仰を持ち歩む者が栄光を受けるための苦しみです。キリストの苦難は十字架の苦難です。そして、この苦難は罪を裁かれる私たちが負うべき十字架ですがイエス様が背負ってくださっています。イエス様とともに歩む限り罪の滅びから救われあすが共に歩む苦難はあります。その歩みが信仰の歩みなのです。

②啓示

啓示とは天から映し出される映像のようなものではありません。神様が創造される具体的な形を意味しています。神様は創造された人間を御自身の形に創造されました。神様が望んでおられる本来の人間の形を意味しています。

③栄光

何故、体が贖われることを望むのでしょうか?それは、私たちの体はイエス様の救いを得た今も罪に犯され死の力に支配されているからです。(信じて死と病が無くなった人はいますか?)いないとしたら死の力はまだ皆さんを支配しています。)  私たちはこちら側の世界から見ているで死と病は常識のことですが、天国は死と病のない世界でそれが常識の世界なのです。私たちは信じて御国の国籍を得て住民登録ができているのです。

罪から完全に救われる完成の時、栄光の姿を望みを抱いてイエス様と共に死と滅びの世界を歩んでいるのです。イエス様と共に歩む道、それは十字架の道かもしれません。しかしこの十字架は私たちの罪を裁く十字架でありイエス様が背負ってくださっているものです。

十字架の贖いにより魂は救われていますが、体は贖われていないので罪の誘惑と力が私たちを苦しめます。その証拠は、永遠の命を与えられた私たちの体は死と病の支配からは解放されてはいないことです。罪によりもたらされる人の不幸は今も続いています。からだの贖いは霊とからだの完全な罪からの救い、死から勝利です。私たちは罪から完全に救われた体が与えられる日を待ち望んでいるのです。    

◆被造物の叫び(からだが贖われること)

ここで被造物と私たちのからだが贖われる事についてお話します。

19節被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。

神の子の現れは、霊も体も贖われて死の力と支配に勝利した者達の現れです。

被造物はこの時を待っているというのです。

あらゆる生き物は死にます。罪があっても無くても死の力は支配しています。

悪魔の支配する死の力に屈しているのが現実です。

21節 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

20節では神の意志により虚無に服したと書かれています。

人間の罪により全ての命が死に従属させられるようになりましたが、自然界の死は神様の御意志による死に服しています。霊も体も贖われた神の子たちの現れが被造物も死から解放される自由の時なのです。

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