Ⅰテモテ6:11正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。
◆敬虔とは
御言葉にあるごとく神様を信じるすべての人は神の御前に敬虔であるべきです。信仰の道を歩む上で全ての心の姿勢態度が神様に敬虔であるべきです。
では敬虔とはどういうものでしょうか?敬虔なクリスチャンとはどういう人でしょうか?
敬虔を(口語訳)信心=(ギリシャ語)エウセベイア
敬虔は心の姿勢とおれをあらわす行動と言えますが、敬虔であるために求めて得られ、目指すものだと聖書は教えています。辞書には、敬い慎み深い心と態度、行いと書かれています。敬虔はどのような時に使われるでしょうか。それは信仰、祈り、態度などです。例えば聖書を読み、祈るクリスチャンと礼拝の時しか聖書読まず祈りは人まかせのクリスチャンではどちらが敬虔でしょうか。
敬虔であるとはどのようであるか、色々考えられることですが神様は私たちに敬虔であることを望まれます。聖書に出てくる敬虔な人を紹介します。
使徒の働き 9:36 ヨッパにタビタ(ギリシヤ語に訳せば、ドルカス)という女の弟子がいた。この女は、多くの良いわざと施しをしていた。
10:1 さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。10:2彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、
◆敬虔でない人
敬虔を理解するためにその対義語を考えてみましょう。不敬虔、不信心、不敬
Ⅰテモテ6:5また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。
パリサイ人の中には敬虔(信心)を利得と考えている人たちがいました。マタイ6:5四通辻に立ち祈り敬虔であることをアピールしていました。
教会備品は誰のものですか?教会のものです。それは神様のものです。
聖書には神様に捧げられた物は聖別されたものと呼ばれます。それを取り扱うのに敬虔さを必用としました。同じ物と考え家で取り扱うのと同じように扱う、または教会のものだからと思いぞんざいに扱うならそこい敬虔な信心はありません。
神様のものである理解に敬虔が加わるとき、神様は畏れ敬い信仰を捧げるお方として存在されるお方として共にともにおられる。
◆敬虔を修練せよ
Ⅰテモテ4:7敬虔のために自分を鍛練しなさい。
敬虔な信仰と行動は修練し神様の喜ばれる信仰であるために身につけるべき習慣が必用だと思います。信心とは行動に心を込めるということだと思います。
(4節)その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。
神様を畏れ敬うことを学ぶ時、神の御性質にあずかる者と変えられるのです。