人の心を明らかにする神の言葉

前置きを省き、本論に入りたいと思います。なぜなら、ローマ書の最深部と言われる今日の聖書の言葉を深く理解しキリストの深き愛にも触れたいからです。

◆自己矛盾に生きる私

「ああ、われ悩める人かな」24節冒頭の文語訳の言葉です。

パウロが自分の心を探り、神の言葉に真剣に向き合う中で見出した深い人間理解の内容です。

15節~20節についてその悩みを見てみましょう。

(15節) 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。

ここに自分の中に自己矛盾を発見したパウロの言葉があります。神様の前に喜ばれる正しい生き方をしたいと望む心に対し、欲とエゴを満足とさせたいと行動する自分がいることを見出しました。

律法に従い生きたいと頑張れば頑張るほどそれとは逆のこころの力に引きずられる自分の矛盾した心に、罪に引きずられ死へと落ちていく自身の未来を見たのです。続いて御言葉を見てみましょう。

(19節)節 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。これが人間の真の姿であることを見出したのです。

(21節)節 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。

(22節)節 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、

(23節)節 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。

私の体のなかには罪が支配している現実を見出した時、自分ではあらがえない力に、「ああ」という感嘆の声を「あげるしかない罪人の姿がありました。

◆主イエス・キリストのゆえに

ある牧師は受難週にてこの聖書の言葉を読みイエスの十字架の救いの深き恵みを理解したと語りました。(24節)節 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

この死の体から救う方は自らの十字架の死でピリオドを打ってくださいました。

この死の体の贖いについて8章にて話したいと思いますが今日は「ああ、悩める人かな」と罪に向かう非力な自身に向き合い、キリストの十字架の福音が我を救えり、と信じる恵みに感謝しましょう。

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