罪が生き私は死にました

私たちはローマ書の主題である1:16「福音は信じる全ての人にとって、救いを得させる神の力」というキリストの救済方法と恵みから目を離してはなりません。

◆罪からくる報酬は死です

人類に戒めを与えたのは神様です。具体的には十戒です。私たちはこの十戒から逃れられません。私たちは日本国憲法に従い生活しているのであり十戒に従うのではありません。と言う人もこの十戒から逃れられません。例えば十戒に「盗んではならない」とあります。日本の法律にこの戒めはありませんか?

十戒の第一の戒めの「あなたには他の神々があっ「てはならない という言葉は日本の法律には無いでしょう。しかし、私たちは創造者との関係から離れて命はないのです。律法は十戒の法律判例集と言えます。十戒の短い教えを具体的に信仰から生活の行動まで規定しています。神に創造された被造物が神の戒め適応範囲に入ります。

原子爆弾の被爆範囲はおおよそ半径5Kmと言われています。このたくさんの人たちが被爆しました。私たちは爆弾で被爆していませんが、罪の被爆は誰もがしています。直らない病です。心と魂を蝕みます。私たちに待ち受けるのは死です。罪から受ける報酬は死です。とパウロは言いました。律法である神の教えはこのことを教えるとともに律法が私たちを罪に定め死を宣告するのです。

◆律法は罪なのでしょうか。

(4節)「律法に対しては死んでいるのです。」神が私たちに求める義に対し私たちは応えることが出来ません。すなわち私たちは違反者、失格者、落伍者なのです。違反者のレツテルを貼られその罪により裁かれます。しかし、律法に対し死んでる者はその対象外です。律法に対する関係が切れているのです。

前回、その関係が夫婦の関係「に例えてパウロが説明していたことを語りました。

律法との関係が切れたなら律法は守らなくてもいいのでしょうか。

私たちは律法との関係が終わり、キリストとの結ばれてキリストとの関係に生きる者と立場が変わりました。キリストは私たちに神の言葉に生きるように求めますからその中に十戒も含まれています。しかし失格者としてのレツテルは剥がされ罪赦された者の札がついています。パウロは律法は私たちを義とするものではないと教えています。では何のためにあるのでしょう。(7節)律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。ある牧師が子供の頃、近所の家の塀に節穴がありました。きになり少し覗いたら見つかってしまい「覗くな」と張り紙が貼られてしまったそうです。それからその張り紙を見るたびに節穴が気になり見たくて我慢ができなくなり覗いてしまったそうです。覗くなと言われると覗きたくなり、食べるな「と言われると食べたくなるのが私たちです。

(8節)しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。

律法は罪を教えます。しかし、罪を教える神の言葉が心を刺激する欲求となることを知るのです。

◆私は死にました

(9節) 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。

「私は死にました。」それはキリストとともに死んでいる信仰に立つことです。

ガラテヤ 2:20私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

キリストがわたしのうちに生きている。主の教えに生きる喜びに生きましょう。

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