主イエスのよみがえりの意味

◆信仰に立つアブラハムの模範

前回は神に義と認められるのは行いや血筋によるのではなく、信仰によるのでありアブラハムもまた信仰によって義とされ、それにならいましょう。と言う話しでした。

それは彼の生き方にならうと言うよりは、信仰のあり方にならうという事でした。

(18節)彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。

この言葉に表されたアブラハムの信仰は神様にのみ信頼を置くものでした。

(19節)アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。アブラハム100歳、サラ90歳、当然出産できる年齢は超えています。  

跡継ぎは無理と判断し苦しんだのです。神様信じて故郷を捨て従って来たのに。彼はこの困難をどのようにしたのか。それは、神様が与えると言われたことばを信じたのです。アブラハムが立派だったと言うのではありません。落ち込み悩んでいた 

アブラハムを励まし神様は信仰に立てるよにしてくださったのです。

それから待ち望む忍耐の期間があり、ハガルにより跡継ぎを得ようと可能性の道を探り神様の言葉を信じた後も迷いました。迷うことは信仰の落第者ではありません。神様の言葉は本当だろうか?アブラハムの子孫としてならば別にサラでなくてもアブラハムの血を引いていたなら神様の言われるアブラハムの子孫なんだし。という神様の言葉の常識範疇での再解釈が行われました。しかし神様は年老いた妻との間に跡継ぎを与えるとの再度の御言葉により神様への確信に立たせていただいたのです。私たちもまた、彼の信仰にならうように奨められていますが具体的にどうするように語られているか見てみましょう。

◆主イエスのよみがえりを信じる信仰

アブラハムの信仰にならうって私たちにどういう事なんですか。という今日のメッセージですが私たちも義と認められなければ天国への入国許可は許されない事もお話しました。私たちも信仰により義とされるとはどういうことかをお話します。

(23節)しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、(24節)また私たちのためです。

アブラハムは不可能を可能にする神様を信じました。私たちにこの信仰にならう求められています。信仰によりは死者がよみがえるという常識を越える出来事、すなわち信じられ無いような出来事を、私たちに神様はあえて信じますかと問われているのです。しかし、死人はよみがえりません。これは常識です。常識ではない答えが信仰によらなければ出せないのです。私たちは神様から義と認められるために死人となられよみがえられた方をどうしたら理解出来るかを伝えてるわけではありません。これは信じる神様の御業として人類の前に置かれた試験石なのです。死からよみがえる。ありえない事を神の御業として理解させてくれるのは聖霊であり信仰なのです。私たちもよみがえった復活の主イエスを信じ信仰により神様に義とされて、天国への道を歩んで行きましょう。

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