義と認められた私たち

信仰により神様に義と認められた私たちが、神様との和解の関係にあることをお話したいと思います。

◆罪を責められ和解の成り立たない関係

(1節)神様との和解を得ています。この言葉に疑問を抱かれる方はおられるでしょうか?神様と喧嘩した覚えも無いし、取り立てて神様から恨まれるようなことはしてないはずだと思われるかたがほとんどではないでしょうか。

神様との和解とはどの様なことでしょうか。

レ・ゼラブルの著者ビクトル・ユゴーはこの著書で神に赦される事をテーマに描いています。主人公ジャンバルジャンは妹の体が弱く働けないのでお腹をすかせた子供達に食べさせたいとパン1個を盗みました。そして、切盗の罪で警察に捕まります。切盗は理由があるので罪にならないでしょうか?こういう人を助けない社会が悪いでしょうか?弱者を助けられない政治が悪く  社会変革を求めって叫ぶ民衆の声のようにならなければならないのでしょうか?

どこに罪の責任はあるでしょうか。

脱獄を繰り返し刑期が重くなりましたがやっとの思いで出獄した保釈中の主人公ジャンバルジャンは姿をくらまし警官ジャベールに執拗に追いかけられます。

教会に隠れたところ司教ミリエルと出会いから新しい人生を歩み、人々から信頼され市長にまで出世するバルジャンは新しく生まれ変わった人生を歩み良い人となります。氏素性を隠したジャンバルジャンはなおも警官ジャベールに執拗に追いかけられます。なぜでしょうか。罪人、小さい罪、大きい罪、関係ありません。罪を犯したものは罪人として追いかけ続けるのです。そこには和解はありません。

警官ジャベールは法の正義、律法を、バルジャンは罪赦された罪人クリスチャンを表現しています。

◆神との和解を与える信仰

律法は神の言葉です。罪を指摘する正義があり大小関わらず罪を裁くものです。

十戒には「盗んではならない」と書かれています。バルジャンはどうなりますか。

パン1個なので赦される。子供が飢えていたので赦される。社会は悪いのであり赦される。では2個は赦されますか。聖書はそうはいいません。盗みは罪です。神の物も人のものであろうと盗むのは罪です。罪人と律法には和解は無いのです。

しかし、そんな私たちに律法によらず福音を信じる信仰により、神様との関係に和解を得、罪を責められない関係が成立しました。

(2節) キリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

私たちは罪を指摘されるしかなかった神との関係から恵みによって義とされ罪赦された関係に導き入れられた今、神の栄えを喜び、聖霊により神への愛を心に注がれ、磁石が磁力を失わなければ永遠に鉄を引きつけるように私たちは神への愛に引きつけられ離れる事が無いようにしてくださるのです。

神との和解を得た関係にある今、神に近づきましょう。

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