神様の愛が私たちに示したものが2つあります。
◆以前の神様との関係
(6節)私たちがまだ弱かったとき 具体的に言うと(8節)私たちがまだ罪人であったときを表しています。
それは神様との関係性をも表しています。前回、私たちは神様との平和を得ています。5:1の言葉を学びました。この言葉を裏返せば元々神様との間には平和の無い関係であったと言っているのです。
神様の御言葉である律法は私たちに罪人の責めを永遠に指摘される。そんな神様との関係でした。
ただ滅びの運命を一方的に受け入れるしか無い状態にあるのが、弱わかった私たちであり罪人の私たちでした。律法は神様との関係性を改善はしてくれません。指摘するだけです。
こういう関係なのに律法で義とされるというのは、自分を全く分かっていないと言うことになります。
◆今の神様との関係
滅びの運命を受け入れるしかなかった状態にある時、神様の側からしてくださったことがありました。愛を顕してくださいました。具体的には(9節)キリストの血によって(10節)御子の死によって イエス様の十字架の死を意味しています。
これが神の愛を表しているとは最初だれも気づきませんでした。わかっていたのはおそらく聖書から言うと預言者イザヤぐらいなものです。
イエスの死の姿は誰が見ても罪人の死、事実の裏にある真実に気がつき神の愛であった事を明らかにしているがパウロの言葉です。神の愛に気がつくためにはギリシャ、ローマのヘレニズム的理解では分かりません。
ユダヤの聖書を背景とした理解があって始めてイエスの死が、罪を贖う神の小羊と理解されて、神自ら備えられた愛であると理解できるわけです。
◆キリストの血によって
私たちは、御子の血と死により、すなわち神の愛によって義と認められ 神と和解し彼のいのちによって救いにあずかるのです。
手紙で受取手に愛を表しても、手紙の配達人にはその愛はありません。
パウロや福音を伝える私たちには伝えようとされる神を愛いする信仰があれば充分です。キリストの血の犠牲。イエス様の命との交換の救いの恵みに感謝しましょう。
(9節)ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
(11節)そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。