義の器として

パウロの確信は、1:16 福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。そこからのぶれはありません。

福音を信じた私たちが罪の支配を受け入れ従うことなく、恵みに満たされて歩む様にと奨めています。

◆罪の支配力

私たちの命について聖書は「死ぬべきからだ」と語っています。

人それぞれにより死の向かえ方は様々です。

老齢、病、事故、様々ですが誰もが死にからだは朽ちて行きます。

罪により死が入り支配され、死は当然にことであり避けられない運命であると理解しています。罪により死が入ったと書かれているように死と罪の歴史は同じです。

罪からの救いを信仰により得ている私たちのからだも死に支配されています。

魂は信仰により救われていても体はまだ贖われていませんから罪と死の力は私たちを支配しようとします。私たちはイエス様のものとなりました。しかし、かつての支配者は従わせようとし支配権を行使しています。

私たちの体を一軒の家に例えてみましょう。私たちを創られた方は神様です。所有権は神様です。しかし、その家に別な人が来て住み始め支配してしまいました。家は居住者の思いのままです。

イエス様が来てしの家を買い戻しました。所有者はイエス様です。しかし、所有者が変わったにも関わらず家を支配していた人は出ていかず相変わらず家に住んでいます。あなたが綺麗好きでも居住者はゴミ屋敷にしあらゆる汚れたものが住む家があなたです。あなたはどうしますか?①あきらめる ②所有者が変わった事を主張し出て行ってもらう。しかし、簡単には家の居住権を渡しません。

どうしますか?あきらめてしまうことは支配にゆだねて、従うことです。

私たちがキリストを信じキリストに所有権が移りました。私たちの中に居座り支配権を行使しようとする力に6:12 あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。と聖書は語ります。

◆キリストの支配にゆだねる歩み

6:13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

「ささげる」という行為は婚姻関係で互いの為に時間もあらゆるものをささげて仕えあう意味です。それは一時期相手のために何かをささげることではなく継続的にささげ従う行為と言えます。罪に支配される事を受入れ、従う(流されてしまう)ことに心をゆだねてしまうことにNOと言い、キリストの福音に心満たされ従い、信仰により歩むことにその手足、行為、思い、あらゆることをイエス様にささげる事を動機として歩みましょう。

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