キリストにつぎ合わされる

もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。  ローマ6:5

◆罪に対して死んだ私たち

(1節)それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。

パウロの1節の言葉は5:20の言葉に対する説明です。

5:20 律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。

律法は法律であり生活全般に渡り規定するものです。たとえば、道交法は車社会となり定められましたが、これで何が違反で何が違反ではないのかが明確になりました。信号機は車と人の往来を円滑にするゆずりあいを機械が示しています。信号ができる前も譲り合いは必要でしたが信号機はありませんでした。律法が明示される前も罪は神に対する罪としてありましたが律法により違反とそうでない事が明確になりました。

ゆずりあいが人の良識としてあるならば事故は防げるでしょう。しかし、良識ない人もいますから信号機とルールを守らない人は法律で罰せられなければなりません。例えば、法律を違反してしまい可哀そうに思った金持ちが違反者の罰金を払ったとしたらどうでしょうか。違反者がそれから増え違反者が増えたために罰金も増えました。すなわち、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。違反者はこう思いました。違反しても金持ちがはらってくれるから大丈夫。聖書はこれを否定しています。

(2節)絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。違反者であり続けることはできないと。

人はこう思ったとしたらどうでしょうか。違反をしても金持ちが払ってくれると。しかし、それで良いのでしょうか?金持ちは違反の者の罰金を払うことが望みで喜んでいたのでしょうか。違反者が罰金を払えないので罰金を代わりに支払って違反をしないようにと望んでいるのではないでしょうか。

私たちの赦されたことに対する信仰は、キリストがわたしの罪の身代わりとなり死なれたと信じる事です。私の違反した罰金払って下さったのはイエス様です。イエス様の命が代価なのです。罰金が払われた時、私の違反責任は終わりました。デートリツヒ・ボンヘツファーという牧師は「キリストに従う」という著書でこう言っています。キリストの恵みは高価な恵みです。しかし、高価な恵みを犠牲なしに受け取ったために「安価な恵み」として受け取り、神に対して感謝も応答もなく生きてはならない。と警告しました。

安価な恵みは、服従のない恵みであり、十字架のない恵みであり、生きた人となり給うたキリスト不在の恵みとなってしまった。と

◆キリストにつながるいのち

聖書はイエス様の死の代価それが私たちの為であることを何度も語ります。

(3節)それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。(4節) 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

バプテスマの意味は「沈められる」です。洗礼者ヨハネは悔い改めの印として洗礼を受けるように話しました。それは、罪を終わらせ神の民であろうとも悔い改めなければならないと警告しました。イエス様はその理解を引き継ぎましたが更に洗礼に恵みが追加されました。新しいいのちです。水に沈められて古い自分に死に、自ら上がり新しいいのちに生きることを意味しました。すなわち、十字架と復活です。私たちは洗礼によりこの真理を示す行為を体験し信仰によりイエス様の経験と一つになることにより4節の体験をするのです。私たちの罪の代価は払われたのです。死んだらどうなるの?死後どうなるのと恐れる必要はありません。なぜなら、私たちの違反はキリストの死とともに終わっているからです。信仰によりイエス様につながり続ける事、これが信じるものに祝福をもたらすのです。

(11節) このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

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