2023年7月23日聖日礼拝

動画(26分39秒)

聖書 列王記第一17章8節〜16節
説教 「善なる神」
説教者 リュウ・ホイイン師


今月の聖句

ペテロの手紙第一2章25節

あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。


今週の聖句

ローマ人への手紙8章28節

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。


今週の詩篇の黙想

詩篇132篇

  1. 今日の黙想は詩篇132篇です。「主よ。ダビデのために、彼のすべての苦しみを思い出してください。」(1節)ダビデが王に即位した時、神の箱はキルヤテ・エアリムの野に放置されてありました。ダビデは王になったとき、まず最初に神の箱をエルサレムにお迎えすることから始めました。2~5節にはダビデの思いが歌われています。「彼は主に誓い、ヤコブの全能者に誓いを立てました。私は決して、わが家の天幕に入りません。私のために備えられた寝床にも上がりません。私の目に眠りを与えません。私のまぶたにまどろみをも。私が主のために、一つの場所を見いだし、ヤコブの全能者のために、御住まいを見いだすまでは。」神の箱はイエス様を現しています。この詩篇を味わいながら、イエス様は私たちの心の王座にお住まいでしょうか。心の王座には私たちの欲望が座を占めてイエス様は心の荒野のような所に追いやられてはいないでしょうか。「主よ、立ち上がってください。あなたの安息の場所にお入りください。」(8節)礼拝とはイエス様を心の王座にお迎えして、共に安息の時、安らぎの時を過ごすことです。

  2. 「主はシオンを選び、それをご自分の住みかとして望まれた。これはとこしえに、わたしの安息の場所、ここにわたしは住もう。わたしがそれを望んだから。」と13~14節に書かれています。主はシオンを選んでそこを主の住み家としてくださいました。エルサレムの神殿はバビロンの侵攻で破壊され,再建された神殿もAD70年のユダヤ戦争で廃墟となり、今はイスラム教のモスクが建っています。石の神殿は破壊されました。今、イエス様は私たちの心を宮として住んでくださいます。賛美の真ん中に主は住んでくださり、二人三人が主の名によって集う所に臨在して、祈りを聞き、賛美を受けて下さり、御霊によって強めて下さいます。「わたしは豊かにシオンの食物を祝福し、その貧しい者をパンで満ち足らせよう。その祭司らに救いを着せよう。その聖徒らは大いに喜び歌おう。」(15~16節)主イエス様は貧しい私たちの心を宮として住んでくださいます。いのちのパン、みことばの恵み、導き、力をいつも満たしてくださり、私たちを祭司として、祈りの霊に満たしてくださる主に感謝しましょう。

2023年7月16日聖日礼拝

動画(40分12秒)

聖書 創世記37章12節〜36節
説教 「罪の支払う報酬」
説教者 高橋博師


今月の聖句

ペテロの手紙第一2章25節

あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。


今週の聖句

ローマ人への手紙6章23節

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。


今週の詩篇の黙想

詩篇131篇

  1. 詩篇131篇はわずか3節、10行の短い詩篇です。詩篇を讃美歌として歌っていた人々は、この短い詩篇をリズミカルに、礼拝の中で、会衆と共に、生活の中で繰り返して、歌っていたことでしょう。「主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、くすしいことに、私は深入りしません。」と1節は始まっています。原文では「深入りしません」は、「歩きません」ということばが使われています。誇りません、高ぶりません、歩ゆみません、と三つの動詞が否定形の形で並んでいます。誇る、高ぶる、から歩む(深入りする)と心理的行動的発展があります。この発展は意味的にもことば的にもリズミカルでありますから危険です。詩篇1篇も「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人」と始まっています。歩む、立つ、着くと動作を現す動詞のことばの発展のリズムがあります。悪者、罪人、あざける者と名詞、主語も変化と発展があります。発展というより悪への変化深化です。悪者のそばを好奇心をもって誘惑されながら歩く状態から、立ち止まってその世界に引き込まれ、ついに座り込んで、罪の世界に定着、定住してしまう様子が書かれ、そのような誘惑に巻き込まれない人の幸いを詩篇1編は歌っています。水路のそばに植わった木のように、時が来れば実がなり、その葉は枯れない。その人は何をしても栄える、と歌い上げています。

  2. 詩篇131篇は詩篇1篇を思わせる歌であります。水路に植わった木が水の恵みに良くして成長するように、幼子が母親の母乳で育ち、乳離れしても、まだまだ堅い食物は食べられず、母親の用意したやわらかい離乳食に頼らなければならないような、自分の弱さを認めつつへりくだった信仰、母に依存している乳児のように神様に全面的に依存、信頼している詩篇記者の信仰が描かれています。水路のそばでなければ植物が枯れるように、乳離れした幼児が母から離れて生きていけないように、主を待ち望み、主と交わりつつ歩む信仰に生きることを新たにしたいと思います。乳離れした子供には大きなこともくすしいこともする能力はありません。母に信頼するように、何もできなくても父なる神に全面的に信頼する尊さを喜びを持って生きて行きましょう。