アブラハムの信仰にならう

◆神の祝福と継承者

(13節)というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられた…このような約束をアブラハムが神様からいただいたのは本当でしょうか。

世界の相続人とは。世界=コスモス(世) 神様が祝福され愛された世界(ヨハネ3:16参照)  相続人=継承する者。を言います。

(アブラハムへの約束)創世記12:1~2 その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。

アブラハムが神様からいただいたものは何ですか。それは祝福の約束でした。

この祝福には経済的なものから子孫繁栄、何よりも神が共にいてその人の神となり、天の御国など、神の祝福にはあらゆる恵みがパッケージングされて与えられるものでした。神が祝福して与えられる祝福の継承者なのです。アブラハムが求め信仰により得たものを私たちもまた同じやり方で継承する者としてくださいました。

アブラハムの信仰にならう。とはアブラハムはすごい人だと誉めることではありません。主体は私たちのことです。パウロはだからアブラハムはすごいんだ。だからアブラハムの子孫はすばらしいんだと言っているのでは無いのです。あくまでも大事なことは彼の得た方法で私たちも得ることがメッセージの内容でした。

◆アブラハムの信仰にならう

アブラハムの信仰とはどんなものでしょうか。

(18節)彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。

望みがなくなったのではない。神様という望みのみがありました。

望みが無い状態とは

  脳内回路が可能性が無いとしか答えをださない。可能性があるか無いかで神様により頼むかを判断してしまう。望みが無いと判断自己判断を下したとき望みは失われています。

信仰にとって様々な事が妨害となります。神様を自分尺度で捉える。(常識、経験)

大半は自身の中にある問題が信仰の成長の妨げとなっているのに改善しない。

神様は全ての事を為しえる。信じていますか?全能の神です。

何でもできる神様は自分がお願いすることは何でも聞いてくださるはずです。

神様は御こころに適うことを御自身のタイミングでなされます。信じていますか?

知っているだけの信仰は望み得ない現実に遭遇すると歯が立たない。

アブラハムの信仰の様には信じられないのでは無いでしょうか?

行いによって得る義―行いは得るものがあると打算をしている

信仰は打算を放棄し、神にのみ望みをかけることーこれがアブラハムの信仰です。

その方法とは信じ抜く力―天を見上げてアブラハムの信仰にならいましょう。

この方以外には

使徒の働き4章:1節~12節

4:1 彼らが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たちがやって来たが、

4:2 この人たちは、ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て、

4:3 彼らに手をかけて捕えた。そして翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからである。

4:4 しかし、みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。

4:5 翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まった。

4:6 大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席した。

4:7 彼らは使徒たちを真中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか。」と尋問しだした。

4:8 そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。

4:9 私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行なった良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、

4:10 皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。

4:11 『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。

4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」

『この方以外には』

改めてペンテコステについて説明しておきたいと思います。

ペンテコステとはユダヤ人たちからは七週の祭り(スコット)と呼ばれています。

この祭りには幾つかの意味と目的がありました。

①出エジプトにより奴隷から解放されシナイ山にて神の言葉を授かった事を記念し契約するお祭り。

②神が共におられる事が視覚で分かる幕屋が作られ導きと恵みを思い起こす。

③信仰を伝え継承する祭りです。

ペンテコステに聖霊が降臨されたる事にも同じ意味がありました。

救い確信、共におられる神、信仰の継承の福音を証詞。救い、聖潔、救霊のこの3つをペンテコステの祝祭に心にとめましょう。

◆確信に満たされた者に変える聖霊

聖霊が降臨され使徒たちは大きく変わりました。

降臨前は最悪でした。最愛の人を裏切り見捨て、自己も捕まるのではと恐れていました。

彼らをガリラヤから再起させる為に骨折りしたのも復活のイエス様でした。

エルサレムに参集し彼らが唯一することはイエスの言葉通りに集まり祈ることでした。

約束通りに聖霊が降臨後の弟子たちは恐れずイエスが救い主であることを証詞し始めました。

ぺテロとヨハネは今日で言う所の国会証人喚問に呼ばれたようなものです。

しかも偽証と妬みで律法を曲げてイエスを殺した張本人たちが参集する議会に立たされたのです。

弟子たちを変えた姿をここで見ることができます。もはや恐れてはいません。何故?聖霊が彼らを変えたからです。以前からも神を信じていましたがイエスと聖霊が彼らの心をイエスを信じるより頼む人へと変えました。救い主なるイエスに対する確信と聖霊、救霊に燃える福音を証詞する者と変えられ真にペンテコステの恵みを得た者となりました。

◆この方以外には

4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」

それは「イエスを信じる信仰により義とされる」救いの確信です。この方以外のものが救いに必用である信仰は行いの信仰です。

よく信仰について話される事に、信仰はみな同じだと。どこから入口で入ろうが頂上は同じなのだから自分所以外は駄目だとする宗教が原理主義的だと言われる方がいます。

私も昔この問題で迷ったことがありました。人は誰もが生きる事から生まれる苦しみから救われたいと思う所から信仰の道に入る。だから、どの宗教もそれを与えようとするなら同じではないのかと。

そして見出したのです。「この方以外のは、だれによっても救いはありません」とペテロが見出した同じ確信を見出しました。

人は良い人になろうと努力しても人生の苦しみ、罪からは救われ無いのだと。だとすると入口は違えども頂上に到達できない入口もあるのだと。では救われるとはどういうことなのか?

自分の存在が赦され人生の苦しみから救われる事だと気づいた時、良い人になろうと努力しても過去の自分を帳消しにしてくれる訳でもない。イエスは過去、現在、未来の罪を贖い、人生の苦しみの中で信じる者をその都度、心と魂の重荷を取り去り救う方だと知った時、「この方以外には」と知りました。

愛するイエス様、あなたの弟子たちが躓き、挫折し、道を見失い、希望を失いかけたとき、よみがえったあなたを見て天を見上げて再び一歩を踏み出す力を与えてくださいました。

私たちの人生にも考えてもみない苦難が立ちはだかる時、共にいてくださる主が弟子たちにあなたへの信仰の喜びと、聖霊の平安と、福音こそ信じる力である確信を与えてくださったように私たちにも聖霊による恵みを与えてください。

あなたこそ救い主です。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」

アーメン

信仰の足跡

◆赦される恵み

6節は信仰による義についての説明をアブラハムに継いでダビデの証言を引用しています。

詩編32:1~5の言葉です。

32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。

32:2 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。

32:3 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。

32:4 それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。

32:5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。

パウロが引用するのは1節と2節ですが、内容を見るとおそらくダビデがウリヤの妻バテシエバとの姦淫の罪を隠蔽工作しウリヤを死においやった罪について告白していると思われます。

そのそむきを赦され/一日中、うめいて/私の骨々は疲れ果て/昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききった。神様にそむき罪を隠しても心に痛みと良心の苦しみが昼夜責め苛みました。

内容は罪を告白し赦される幸いについて主を賛美する内容です。

パウロはこの詩篇を引用し、ただ神に赦され受け入れられた者が神に良しとされる恵みへの賛美なのです。

◆だだ信仰により

(9節)この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。と問いかけています。

パウロが言うように割礼はアブラハムが信じて義とされた証印でした。

ならば義とされることは割礼のある無しに関わりが無い事になります。

依然に神の義について説明する例話で、他国に入る為には入管検査でパスポートに許可スタンプが必要だ。と話しました。入国する為にはパスポートだけで充分でしょうか?ビザとチケットがあれば充分でしょうか?これらは入国に必用なものですが、最後に入国を許可するスタンプが無いとその行き先の国には入れません。信仰はパスポート、ビザとチケットのようなものです。イエスを信じる信仰に神様が聖霊の証印を押してくださり天の門を通り御国に入る事ができる者と認めてくださったのです。信仰による義、信仰自体に魔法の力があるわけではありません。力と信用はイエス様にあります。アブラハムは神の言葉を信じました。このことが大事なことであり確信部分なのだとパウロは語ります。行いによらず信仰により御国への入国スタンプ(証印)をいただいて御国へ道を歩んでいきましょう。私たちも神の言葉を信じ義とされていることを感謝し確信を与えられて歩みましょう。

その信仰が義とみなされる

◆イエスを信じる信仰により

神の前にアブラハムの子孫という理由で無条件に義と認められるのではなく、律法を持ち行う事で義と認められるのではなく、イエスを信じる信仰により義と認められる。神に義と認められる原理であるというのが前回の話しでした。

◆さあ、天を見上げなさい

今日はアブラハムの子孫という恩恵だけで義と見なされると思っていたユダヤ人に、(1節)それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか、と問いかけで始まります。

ユダヤ人の先祖、義認の信仰の根拠であるアブラハムが行いにより義と認められていたでしょうか?自分たちの寄って立つその信仰の根拠に対する問いかけでした。パウロは聖書からアブラハムについて神から義と認められた時の言葉を引用しています。創世記15:3-6参照

年を経て跡継ぎも得ないまま、神の約束が実現せず憂いの中にいた時に、「さあ、天を見上げなさい。」英語聖書ではLook now toward heaven と語られました。あなたの子孫はこの星の数のように数え切れないものになるとのお言葉を、信じたのです。それが彼の義と見なされた事を語りました。行き詰まり自分の小ささと能力限界を知る時、空に見えるのは星ではなく神への希望の光、信仰でありこれがアブラハムの信仰の原点だった。また自分たちの信仰の原点だったはずだと問いかけているのです。

◆信仰の恵みに生きる

また、次の譬えで義と認められるのが神の恵みである事を語っています。4:4 働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。

神の義が働きによる報い、成果だとするなら、雇われた人の場合と同じく行いによる当然の報酬、雇い主との約束、行いの原理なのです。しかし、事実は違います。「義人はいない」との聖書の言葉通り、行いにより神から義の報酬を得ることができる人はいませんでした。これは、信じて与えられるという恵みの報酬なのです。働きのない者に報酬を得る資格が無いにも関われず与える側からの好意に基づくものでした。これを信じたら与えましょうと約束されているものだとパウロは説明します。 

しかし、行いにより得ることが世の価値観で分かりやすいでしょう。行いでは神の義が得られない事が明らかになって、信じることで得る恵みの価値観に切り替えることは簡単なようで簡単ではありません。

教会でも良く奉仕をする人、他の人を思いやらなければと考えている人ほどこのジレンマに陥る傾向があります。「自分がこんなに良くやっているのに」他を裁き評価されない事にいらだちを覚えるのです。行いにより報われるという価値観が躓かせてしまうのです。行いの報いは主から与えられるものです。そして、行いが報いられる者とするのは恵みにより信仰により義とされる信仰の土台が据えられて行いもまた天で報われるものとなるからです。信じて得る神の恵みこれこそが私たちの拠り所です。

信仰の原理によって

◆ユダヤ人の誇り

ユダヤ人が神様から義と認められる根拠としていたものが2つあります。

①アブラハムの子孫 ②神の言葉がゆだねられている(律法を持つ)

これらの2つの事柄は他の民族には無い自分たちだけが持つものとしての誇りとなりえました。しかし、義と認められる誇りも「義人はいない」と聖書は否定しています。パウロもこの件に疑義を挟んでいます。(27節)それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。

あなたがたユダヤ人は義と認められる根拠と選ばれた誇りは「すでに取り除かれました。」と語ります。

パウロ自身が誰よりも誇りと感じていたものが、聖書自体がそれを否定していることに気づいたのです。

◆信仰の原理によって

そして、聖書が語り神の救いが示す福音に新たな義と認められる根拠があると語ります。それが「信仰の原理」。パウロはこれを2つの言葉で提示します。「信仰の原理」「行いによる原理」

聖書では「原理」と訳されていますが原語では「律法」です。すなわち、ユダヤ人が律法を持つことに誇りとしてきた律法はあなたがたをどのように義となしうるのか。と問うているのです。

「信仰の律法」それとも「行いの律法」のどちらがあなたがたを義とするのですかと。

聖書は義人はいないと、行いによる律法による義認を否定している、そして信仰による律法もまた人の側により立てられる義認を否定していると、ユダヤ人が根拠として信じてきたものを否定しました。

パウロは神様から人が義と認められ得るのは神様自ら成された方法による、与えられる義を受ける以外には無いと薦めているのです。それが信じて得る義です。

神様が成された義とは何か?(26節)イエスを信じる者を義とお認めになる

十字架で殺害したイエスを信じる信仰が人に義を得させる唯一の方法なのだと。

◆恵みによる救い

私たちは立派なクリスチャン、信仰深い人は素晴らしいと思います。そして、その様にならなければ天国に行けなくてダメな人間だと考えやすいのです。しかし、立派な人間にならなければ天国に行けないと思うのは人間の側からの理解で福音の真理とは平行線理解です。

立派なクリスチャンと願い歩むのはクリスチャンに相応しい生き方としては大事なことで目指すべきですが、それは、救いを受入れた所から目指すべき歩みです。あんなクリスチャンにならなければという

行動原理を基準としているなら神様が下さった恵みによる救いの真理を理解していないことになります。

信仰の原理に立って動かされることなく神の愛により提供された信仰による救いの恵みに堅く立ちましょう。

神の恵みにより

福音の使徒パウロの確信


パウロはこの3章22節で確信の第2段を語っています。
第1段:福音はすべて信じる者を救う神の力(1:16)
第2段:福音に啓示された神の義はイエスを信じる信仰により与えられる(3:22)
神の義はどうすれば得られるでしょうか?
聖書を丸暗記すればでしょうか。礼拝を1年間休まずに来たらでしょうか。それと
も、ローマカソリック教会のように法王から罪の赦しをいただき、聖職者に罪を告白
したら神様から罪赦されて、神の前に義なる者と認められるでしょうか。 パウロの
語る確信は、「福音は信じる者全てを救う力がある」でした。更にパウロはこれを掘り
下げ福音により語られた、イエスを信じる信仰により律法の要求する神の義が与え
られることを力強く確信を語っています。

律法は罪を明らかにするのみ


今日はこのパウロの確信第2段を更に見て行きましょう。
神の御前に義なる者とされる事を信じて、神の民として生きることが律法を規範とし
て生きてきたユダヤ人でした。しかし、神のお言葉なのにこれを守っても義とされな
い。とはどういう事でしょうか。
「律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」とパウロは言います。すなわち、律法により神の御
前に違反をあきらかにする事であり、義人はいない。ことを明らかにするものでした。
国の法律は違反が何かを明らかにするわけですが、明らかにしても犯罪は無くなりません。
律法は神の御前における罪をあきらかにし、法令に関する裁きも語ります。これにより罪が何かを明らかみ
しますが罪が無くなるわけではありません。

恵みによる信仰による


律法により明らかにされた罪と不義なる人間、神様は不義なる人を義とするウルトラCを編み出されました

罪の重荷を抱える人が押し潰れそうな時、その人を救う方法は重荷を下ろすことです。しかしその重荷を
誰かが背負ってもらえるならば解放されます。
重荷から解放され救われたら誰に感謝しますか?誰が荷を背負われていますか?
私たちは罪の重荷を背負い支配されています。この重荷は降ろすことが出来るでしょうか?降ろしたくても
降ろせないのです。しかし方法があります。罪の重荷を肩代わりして貰うことです。(24節)ただ、神の恵みに
より、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。この不義なる者を救う神の恵み
を信じる者は、不義なる者に救いと神の義が与えられるのです。
神の恵みにより信仰により義とされるのです。ですから、信仰を持ち続け信仰の道を歩みましょう。信仰は
燃やされなければその火は消えます。だから御言葉を学び、信仰を持って歩みましょう。

義人はいない

ローマ 3:9-18 3:9

では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。 3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。 3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。 3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」 3:13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」 3:14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」 3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、 3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。 3:17 また、彼らは平和の道を知らない。」 3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

◆神に対する恐れ無き世界

パウロは旧約聖書の詩篇を引用して人類の姿を語っています。3000年も前の人類の様相を語ったとは思えない程に現代の姿と似ています。 3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。 3:17 また、彼らは平和の道を知らない。」 3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」 神に対する恐れがない生き方をする人間は滅びの道を歩んでいます。平和の道を歩まず破壊と悲惨の道を歩み続ける姿は今の世界にそっくりです。

◆義人はいない

聖書は神の視点からこう言い切ります「義人はいない」。義人とは、神の前に正しいと認められる人です。それがだれもいないという事を言っています。 神の前に正しい人がいない。それは神様の御国である天国に誰も入ることが出来ないと言うことを意味しています。ある人たちはこう言うかもしれません。 神は愛という優しさで私たちの全ての罪を赦してくださっているので、自分は犯罪のような罪を犯していないし善人とは言わないまでも比較的、善良に生きてきたので神は救ってくださるはずだ。 不確定の要素で自分が救われるのだと漠然と信じ、天国へ行けるぐらいの善人だと信じているのでしょうか。しかし、天国は半分善人でが半分悪人などと言う人はいないのです。いたとするならもはや天国は半分地獄なのです。 天国は義人の住まう所です。義人とは神が正しいと認めた人のことです。 私たち義人ではありません。これが今日の神のメッセージです。私たちはこの事をちゃんと自覚しなければなりません。 神が住む天国の住人でも無ければ、入る資格も無い者、だったのです。

◆不義の人を義人とする神の愛

不義なる者である自分が理解できたなら次の聖書の言葉の恵みも理解できると思います。 ロ-マ 4:24-25また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。 不義の人が義人に変わることは奇跡でもない限りありえません。しかし、神の愛はそれを可能にしてくださいました。義人ではない私たちがキリストにより、義人とされ救われることについては後日詳しく話しますが、罪ある者を救うために罪の無い者を身代わりにしたのが十字架です。ここに神の愛があります。キリストの死が不義の 私の死となり、キリストのよみがえりが死んだ私に与えられた新しい命、人生となり天の御国に繋がる道であることを信じる時、不義の者を義人と創り変える奇跡を「我信ず」と信仰で恵みを受け取り神の愛を感謝し歩み続けましょう。

神は真実な方

ロ-マ書3章1節~8節

3:1 では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。 3:2 それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。 3:3 では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。 3:4 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。 3:5 しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。 3:6 絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。 3:7 でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。 3:8 「善を現わすために、悪をしようではないか。」と言ってはいけないのでしょうか。――私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、――もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。

3:1 では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。

◆御ことば与えられたる民

昔も今もユダヤ人の優れた点はたくさんあります。ユダヤ人が一番ノーベル賞を受賞しています。そして、経済活動にすぐれ商売が上手です。そのために金融業を営み国際金融資本を築いたのはユダヤ人でした。なぜユダヤ人が優れているか?その根本にあるのは聖書です。幼い頃から聖書を原語で読み撤底して議論をする事が大人となるために必習とされたからです。ヨーロッパ諸国で30%ぐらいしか文字を読めない国であってもユダヤ人家庭は90%以上が文字の読み書き計算、議論することが出来たからです。もう一度言います。彼らが優れていた点は聖書が読めたことです。 パウロはユダヤ人の優れた点についてこう言いました。2節 それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。 神のことばである聖書が自分たちユダヤ人のみに委ねられていた特権と理解していました。だからこそ神の言葉である聖書を熱心に学びました。それがユダヤ人を優れた民族とする根本にありました。 しかし、聖書をどれほど知ろうが聖書の教える内容が身に付いていないとするなら何もすぐれた点はありません。 神の言葉である聖書を与えられている唯一の民であることは素晴らしいことです。しかし、神の言葉を得たのはユダヤ人の功績ではなくただ神の恵みによるものです。

◆御ことばに従う者に

神の言葉を持つ民族としての誇りと知っている点で誇りとするにも関わらず、御言葉の言われることを行わない点で神に不誠実な点をイエス様に厳しく警告されました。彼らは神に不真実でした。 パウロはこの点で逆の発想で発言しています。3節 では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。 この言葉はイエス様の十字架に関する点を語っていると思われます。すなわち、ユダヤ人たちの神への不真実は神の御子を殺害し、偽証を行い、罪の無い者を罪人として殺害した行為です。しかし、見方によれば彼らの行為がイエス様の十字架の救いをもたらしたと言えなくもありません。 この事を正当化することはできません。なぜならユダヤ人は神の恵みを拒んだ事実は罪であるからです。

◆真実なる神

ユダヤ人が神の御ことばを委ねられている事も、すべて神の御恵みです。 人は神に対して真実でありえたでしょうか。真実でありたいと願うんですけどね。と思う人は多いでしょう。しかし人は神に真実であり続けた人はいません。神は人から不真実で裏切られ続けた記録が聖書だと言えます。人が不真実なように、神も人に不真実であったらどう思われますか。気まぐれで、約束を裏切りるとするなら誰が神を信じるでしょうか。人は不真実であって100%信じることができなくても、神は真実な方で変わる事がない方であるからこそ神に信頼を置くことができるのです。 神のことばを委ねられているユダヤ人であろうと、その不真実の罪を赦しを求める時、神の愛は、私たちに福音を言葉をもって1:15「福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」あなたが不真実な生き方しか出来ていなくても、福音には神の十字架が啓示されています。変わることない神のことば、いつも赦しを求める者に手をさしのべてくださる神の真実こそ私たちの救いです。

そこでわたしに会えるのです

すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」 マタイ28:10

イースターおめでとうございます。 私たちの信仰の泉は「イエス様に会う」所から始まります。 イエス様といつ出会うでしょうか。それはどこかの場所とか言うことではありません。 イエス様の言葉をどういう時に聞くかということです。それは「祈り」の時、神に心を向ける時神の言葉が心に届きます。「御言葉を読む」時にイエス様は私たちに語られる。それをイエスに会うと言います。イエスに会う時、そこで信仰の力を得るのです。

◆原点からの出発

主の弟子たちは十字架にかかる前のイエス様からこう言われていました。 マタイ 26:32 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」そこでイエスに出会えると。 何故ガリラヤなのかは後で話しますが、弟子たちがイエス様と初めて出会ったのはどこでしたか?ガリラヤです。弟子たちそれぞれにイエス様が来て声をかけられ、信じて従う決心を持って踏み出した場所がガリラヤでした。 何故、エルサレムではなくガリラヤなのか?事実、復活されたイエス様にエルサレムでその姿を見、墓の前で、隠れていた部屋で、エマオに行く道でイエス様に会っています。それでもイエス様は弟子たちとガリラヤで会う必用がありました。 エルサレムは弟子たちにとりイエス様を見捨てて逃げた嫌な記憶の残る場所となりました。失敗して挫折を味わった場所でした。 私たちは失敗をした所から立ち上がって歩き始めようと励ましの言葉を使います。イエス様を信じる者は挫折した所から始めるのではなく、イエス様を出会った出発点からやり直すのです。挫折した所から始める場合は自己本位の反省からの出発です。しかし、私たちはイエス様と出会った原点で再び出会う必用があるのです。 イエス様がガリラヤのこだわったメッセージがそこにあります。 「イエス様に出会う」最初は一方的に弟子たち、私たちに会いに来てくださいました。

◆ガリラヤでイエス様と出会う

次は私たちがイエス様に会うために行動を起こすことを主は願っておられます。 「ガリラヤ」に行くために、イエス様に会うために行動を起こしてください。 イエス様と出会うために祈り、イエス様と出会うために御言葉を渇き求めて聖書を読む。そこで私に会うのです。と約束してくださったイエス様と会い信仰の力をいただいてください。

選びとる道

マタイ 27:11さて、イエスは総督の前に立たれた。すると、総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスは彼に「そのとおりです。」と言われた。

◆ユダヤ人の王 イエス・キリストにとり「ユダヤ人の王」という言葉は人生の鍵となる言葉です。 ユダヤ人は、かつての偉大な王の子孫が神の約束により生まれ、その方が救い主として世に生まれでる。この伝説的な期待で生きる人たちでした。 イエスが誕生の時、東方から天体に示された星により、ユダヤ人の王として生まれられた方をたずねて来た博士たちがいました。また、イエスの十字架の上に掲げられた札にはユダヤ人の王と書かれていました。誕生である生と死にまつわるこの言葉を理解する時、イエス・キリストの人生の一面が理解できます。

◆神の御こころを選ぶ道 イエスにとりユダヤ人の王として生まれることは神の御計画でありましたが、王宮に住む王ではなく神の国とその民を治めその王として人々の前に現れました。しかし、ユダヤ人の王と言う言葉はイエスが訴えられ死の原因となる不吉な言葉でした。 イエスは自分が神の子であると言ったという神への不敬罪で訴えられ、答え次第では死刑に処せられる状況でした。総督はイエスの言葉尻を捉えて言葉で追い込もうとしていました。総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスはこの言葉の真意を説明する事が出来ましたが悪意に満ちた状況でそれをしませんでした。しかし、それをしなければ悪意と誤解の中で死が待ち受けていました。イエスは弁明しない事を選択したのです。このイエスの姿は信仰により歩もうとしている人にも見る信仰を選ぶ選択の道です。 天に帰られた方々の中には、信仰を持った時に周りから理解されず誤解されていた方もおられたでしょう。 イエスの人生の見る生き方に人は人生を選び取る道のあり方を考えさせられます。それが不利な選択であり、他にもっと上手く立ち回ればと思う道もあったでしょうと。 上手く立ち回る道が本当に良いことなのでしょうか。上手に説明して死を逃れた方がイエスにとり良かったのでしょうか。

◆天に通じる選ぶ道 私たちの人生も自分で選んだものでは無いと思います。しかし、イエスが選んだように天国への道は選んで歩む道なのです。こう言えます。誕生は選べないが天国への道は選べる。 この世にて賢く生きる道ではなく、なにが天へ通じる道なのか祈り求め歩む人生を全うしましょう。

祈ることを教えてください

ルカ 11:1~4

さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」 11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。 11:3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。 11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」  

『祈ることを教えてください』

1節「祈りを教えてください」 口語「わたしたちにも祈ることを教えてください」 信仰をもたれたばかりの方にこのように言われたらどのように答えますか。 この質問者が求めるものは、祈りの言葉でしょうか。それとも他にあるのでしょうか。 祈りは神様に何か願うこと。と答えるなら、祈りを教えてくださいと問われて教えることは何もありません。この答えを見つけたいなら祈りとはなにかを再度自らに問うことから始めなければなりません。 ◆祈りとは 御祈願すること。自分の願いを聞いてもらう為に神様にお願い事をすること。 確かにこれも祈りです。 しかし、私たちが神に願うように、私たちの信じる神も私たちに願うものがありました。それは、この方を神とし、信じる信仰に歩むことです。アブラハムと神は約束を結びました。創世記17:8 わたしはあなたと後の子孫とにあなたの宿っているこの地、すなわちカナンの全地を永久の所有として与える。そしてわたしは彼らの神となるであろう」。祈りとはこの方を神として敬い、信じ、私たちと共に歩む神に呼びかけ近づくことです。神が近づかれるように私たちが近づくことを神は求めておられます。イエス様は神様が願われてる近づき方を教えられました、それが主の祈りです。 (2節)イエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。 父とはアバ(幼子が父親を呼ぶときの呼び方です)神は人間とのこの幼子のような関係をもつて呼びかけられ近づいてきて欲しいと願われていると、イエス様は父の願いを伝えておられるのです。 ◆祈りを教えられる 祈りを学ぶ方法は3つあります。ルターは聖書を学ぶ方法を聞かれて3つの原則を答えました。①祈り②黙想③試練 聖書を学ぶ方法は祈りを学ぶ方法に通じます。 祈りをするのには心が祈りの姿勢で無ければなりません。体は仕事をしていても、トイレで便座に座っていてもかまいません。 ジョン・ウエスレーの母、スザンナは16人の子供を産み、牧師夫人の立場で平日の聖書研究祈り会を導き、子供を義務教育の終了する年齢まで自分で教育し大学に行かせました。そんな彼女は祈る暇が無い、時間が無いとは一言も言い訳しませんでした。台所で食事の準備をしながら時に顔をエプロンで隠しながら涙し祈りました。そんな母の姿を見て育つたジョンウエスレーは、祈りの時間が無いなどとは我が母の前には言い訳に過ぎない。と言っています。 黙想は聖書を神の言葉として味読することです。御言葉が糧となるためにはその意味を味わい知ることなく信仰は生まれません。祈りは二度三度と応えられず聞かれないのが祈りである事を知らなければなりません。だからこそ信仰が養われ成長しなけらばならないのです。三番目に試練です。祈りは祈らなければならない状況から生まれます。私たちが祈るよう導かれている時、そこに祈りの課題があります。嘆きの壁が立ちはだかります。どんな苦境の中に置かれても「祈りを教えてください」祈りと信仰が私たちを導き支える力でありますように祈りましょう。