その信仰が義とみなされる

◆イエスを信じる信仰により

神の前にアブラハムの子孫という理由で無条件に義と認められるのではなく、律法を持ち行う事で義と認められるのではなく、イエスを信じる信仰により義と認められる。神に義と認められる原理であるというのが前回の話しでした。

◆さあ、天を見上げなさい

今日はアブラハムの子孫という恩恵だけで義と見なされると思っていたユダヤ人に、(1節)それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか、と問いかけで始まります。

ユダヤ人の先祖、義認の信仰の根拠であるアブラハムが行いにより義と認められていたでしょうか?自分たちの寄って立つその信仰の根拠に対する問いかけでした。パウロは聖書からアブラハムについて神から義と認められた時の言葉を引用しています。創世記15:3-6参照

年を経て跡継ぎも得ないまま、神の約束が実現せず憂いの中にいた時に、「さあ、天を見上げなさい。」英語聖書ではLook now toward heaven と語られました。あなたの子孫はこの星の数のように数え切れないものになるとのお言葉を、信じたのです。それが彼の義と見なされた事を語りました。行き詰まり自分の小ささと能力限界を知る時、空に見えるのは星ではなく神への希望の光、信仰でありこれがアブラハムの信仰の原点だった。また自分たちの信仰の原点だったはずだと問いかけているのです。

◆信仰の恵みに生きる

また、次の譬えで義と認められるのが神の恵みである事を語っています。4:4 働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。

神の義が働きによる報い、成果だとするなら、雇われた人の場合と同じく行いによる当然の報酬、雇い主との約束、行いの原理なのです。しかし、事実は違います。「義人はいない」との聖書の言葉通り、行いにより神から義の報酬を得ることができる人はいませんでした。これは、信じて与えられるという恵みの報酬なのです。働きのない者に報酬を得る資格が無いにも関われず与える側からの好意に基づくものでした。これを信じたら与えましょうと約束されているものだとパウロは説明します。 

しかし、行いにより得ることが世の価値観で分かりやすいでしょう。行いでは神の義が得られない事が明らかになって、信じることで得る恵みの価値観に切り替えることは簡単なようで簡単ではありません。

教会でも良く奉仕をする人、他の人を思いやらなければと考えている人ほどこのジレンマに陥る傾向があります。「自分がこんなに良くやっているのに」他を裁き評価されない事にいらだちを覚えるのです。行いにより報われるという価値観が躓かせてしまうのです。行いの報いは主から与えられるものです。そして、行いが報いられる者とするのは恵みにより信仰により義とされる信仰の土台が据えられて行いもまた天で報われるものとなるからです。信じて得る神の恵みこれこそが私たちの拠り所です。

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