信仰の原理によって

◆ユダヤ人の誇り

ユダヤ人が神様から義と認められる根拠としていたものが2つあります。

①アブラハムの子孫 ②神の言葉がゆだねられている(律法を持つ)

これらの2つの事柄は他の民族には無い自分たちだけが持つものとしての誇りとなりえました。しかし、義と認められる誇りも「義人はいない」と聖書は否定しています。パウロもこの件に疑義を挟んでいます。(27節)それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。

あなたがたユダヤ人は義と認められる根拠と選ばれた誇りは「すでに取り除かれました。」と語ります。

パウロ自身が誰よりも誇りと感じていたものが、聖書自体がそれを否定していることに気づいたのです。

◆信仰の原理によって

そして、聖書が語り神の救いが示す福音に新たな義と認められる根拠があると語ります。それが「信仰の原理」。パウロはこれを2つの言葉で提示します。「信仰の原理」「行いによる原理」

聖書では「原理」と訳されていますが原語では「律法」です。すなわち、ユダヤ人が律法を持つことに誇りとしてきた律法はあなたがたをどのように義となしうるのか。と問うているのです。

「信仰の律法」それとも「行いの律法」のどちらがあなたがたを義とするのですかと。

聖書は義人はいないと、行いによる律法による義認を否定している、そして信仰による律法もまた人の側により立てられる義認を否定していると、ユダヤ人が根拠として信じてきたものを否定しました。

パウロは神様から人が義と認められ得るのは神様自ら成された方法による、与えられる義を受ける以外には無いと薦めているのです。それが信じて得る義です。

神様が成された義とは何か?(26節)イエスを信じる者を義とお認めになる

十字架で殺害したイエスを信じる信仰が人に義を得させる唯一の方法なのだと。

◆恵みによる救い

私たちは立派なクリスチャン、信仰深い人は素晴らしいと思います。そして、その様にならなければ天国に行けなくてダメな人間だと考えやすいのです。しかし、立派な人間にならなければ天国に行けないと思うのは人間の側からの理解で福音の真理とは平行線理解です。

立派なクリスチャンと願い歩むのはクリスチャンに相応しい生き方としては大事なことで目指すべきですが、それは、救いを受入れた所から目指すべき歩みです。あんなクリスチャンにならなければという

行動原理を基準としているなら神様が下さった恵みによる救いの真理を理解していないことになります。

信仰の原理に立って動かされることなく神の愛により提供された信仰による救いの恵みに堅く立ちましょう。

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