◆赦される恵み
6節は信仰による義についての説明をアブラハムに継いでダビデの証言を引用しています。
詩編32:1~5の言葉です。
32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
32:2 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。
32:3 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。
32:4 それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。
32:5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。
パウロが引用するのは1節と2節ですが、内容を見るとおそらくダビデがウリヤの妻バテシエバとの姦淫の罪を隠蔽工作しウリヤを死においやった罪について告白していると思われます。
そのそむきを赦され/一日中、うめいて/私の骨々は疲れ果て/昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききった。神様にそむき罪を隠しても心に痛みと良心の苦しみが昼夜責め苛みました。
内容は罪を告白し赦される幸いについて主を賛美する内容です。
パウロはこの詩篇を引用し、ただ神に赦され受け入れられた者が神に良しとされる恵みへの賛美なのです。
◆だだ信仰により
(9節)この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。と問いかけています。
パウロが言うように割礼はアブラハムが信じて義とされた証印でした。
ならば義とされることは割礼のある無しに関わりが無い事になります。
依然に神の義について説明する例話で、他国に入る為には入管検査でパスポートに許可スタンプが必要だ。と話しました。入国する為にはパスポートだけで充分でしょうか?ビザとチケットがあれば充分でしょうか?これらは入国に必用なものですが、最後に入国を許可するスタンプが無いとその行き先の国には入れません。信仰はパスポート、ビザとチケットのようなものです。イエスを信じる信仰に神様が聖霊の証印を押してくださり天の門を通り御国に入る事ができる者と認めてくださったのです。信仰による義、信仰自体に魔法の力があるわけではありません。力と信用はイエス様にあります。アブラハムは神の言葉を信じました。このことが大事なことであり確信部分なのだとパウロは語ります。行いによらず信仰により御国への入国スタンプ(証印)をいただいて御国へ道を歩んでいきましょう。私たちも神の言葉を信じ義とされていることを感謝し確信を与えられて歩みましょう。