カテゴリー: 今週の聖書

  • 教会の交わり(2026年5月31日の週報より)

    「そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」

    (使徒2章46~47節)

    聖霊降臨の日。ペテロは12人を代表するかのように立ち上がって説教を始めました。そのペテロのことばを受け入れた人びとは洗礼を受けました。その数が三千人ほどであった(41節)といいますから、驚くべき前進です。こうしてイエスさまを信じた人たちは一つになって教会生活を送りました。

    聖書は、人が救われることを「仲間に加えられた」(41)、「一つにしてくださった」(47)と語ります。信仰を持った者たちが便宜上一人でいるよりも大勢でいる方がいい、ということで一つになり仲間を組んだのではありません。神さまが一つにしてくださったのです。信仰を持つ、ということは、仲間になり一つとされる、ということなのです。

    信仰は、神さまとの一対一の約束です。だれも介入することのできない個人による自律的決断です。たとえば親が信仰を持っているから自動的に信仰をもっているというようなことではありません。お腹が空いたとき、誰かに代わりに食事をしてもらっても自分のお腹が満たされることはありません。自分が信じなければならないのです。

    しかしだからといって信仰は個人主義的なものではありません。必ず仲間の中に加えられる、そうして一つになる、ということが伴います。

    イエスさまを信じる信仰は、愛に生きる信仰です。愛は一人では成り立ちません。私たちは主と深く交わり愛を学ぶとともに、兄弟姉妹との交わりの中へ遣わされます。そこで愛が働き成長します。その交わりこそ教会です。キリスト教信仰において、教会はなくてはならないものなのです。

  • 聖霊に満たされる(2026年5月24日の週報より)

    「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。・・・この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。」

    (使徒2章4~8節)

    世界にはさまざまな国がありそれぞれに言葉があります。ある資料では七千以上の言葉があるそうです。しかし人間が神さまに造られたとき、最初は一つでした。

    この世界にたくさんの言葉がある原因を、聖書はバベルの塔の出来事によって説明しています(創世記11章)。人間は一つの共通の言葉であったことで高慢になり神のようになろうとしました。それをご覧になられた神さまが、言葉を混乱させ、互いの話し言葉が通じないようにされたのです。言葉が通じないことによって高慢が砕かれ、神さまへの謙遜を生むことを期待されたのだと思います。しかし地に散らされた人間の歴史は、罪と混乱に満ちて行きました。神さまはそのような人間を回復するために御子イエスさまをこの地に遣わしてくださいました。

    イエスさまの福音は、破壊された世界を再創造します。主が遣わされた聖霊に満たされるとき、私たちは神さまの前に謙遜になります。そして互いに意思疎通ができるようになります。福音は互いの隔ての壁を打ち破る力を持っています。

    2026年5月24日のめぐみキリスト教会週報より

  • 聖霊を待ち望む (2026年5月17日の週報より)

    「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」

    (ヨハネの福音書14章26~27節)

    イエスさまは、私たちに平安を与えてくださいます。しかし、世が与えるのと同じようには与えないと、言われました。

    世が与える平安とイエスさまが与えようとしておられる平安とはどこがどのように違うのでしょうか。

    主は続いて、心を騒がせてはならない、ひるんではならない、と言われました。心を騒がせるような事態を迎える、ひるんでしまいそうになる現実に出会う、ということでしょう。そういう中にあっても心騒がせない、ひるまない生き方に招かれているのだと思います。

    世が与える平安は何の問題もないという平安なのかもしれません。しかし主が与えてくださる平安は、どのような問題の中にあっても失われることのない平安です。

    助け主、すなわち聖霊が遣わされる。聖霊は、すべてのことを教えてくださる。そして主が語られたことを思い起こさせてくださる、と主は語ってくださいました。

    イエスさまを信じる者に聖霊がともにいてくださいます。心騒ぐとき、ひるみそうになる時、主のお言葉を思い起こさせてくださいます。み言葉を思い起こすとき、あらゆる事態の中にあっても失われることのない平安に満たしていただけます。

  • よみがえりの主に出会う(2026年5月10日の週報より)

    「あなたは メルキゼデクの例に倣い とこしえに祭司である。」

    (詩篇110編4節)

    「メルキゼデク」は、アブラハムを祝福するためにやって来たサレムの王です(創世記14章18節以降)。ヘブル書7章をみると、平和(サレム)の王であり、義(ゼデク)の王(メルキ)であると書かれています。

    このような名前にふさわしい方は、イエスさまお一人だけです。義であり平和であるイエスさまは、ご自身がまことの祭司であり、また王であることを十字架と復活のみわざによって明らかにされました(ヘブル7章)。

    イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。このような方、敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。

    (ヘブル7章24~26節)

    平和の王、義の王であるまことの大祭司イエスさまは、私たちを完全に救うことができます。

    私たちの義と平和は、ときに相反することがあります。自分の義を主張することで平和が乱されます。大義のために戦いを起こします。逆に、平和を求めるあまり正義を見失います。不正義がはびこるような安逸をもとめます。いずれも救いとは遠く離れているように思います。

    イエスさまこそまことの義、まことの平和そのものです。私たちは、このイエスさまに生かされていきます。

  • 主のいましめ(2026年5月3日の週報より)

    「さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。」

    (ヨハネの福音書9章1節)

    盲目で生まれついたのは、だれが罪を犯したからか、この人か、それとも両親か、と弟子たちは問いました。主イエスは、この人が罪を犯したのでもなく、両親でもない。この人に神のわざが現れるためである、と答えられました。私たちはこの主のお言葉にどんなに深い慰めをいただくことでしょう。因果応報、罪の結果の病や苦しみ、という呪いともいえる考え方から完全に解放されました。ここに聖書の語る真理があります。

    それだけではありません。「神のわざが現れるため」と主は言われます。呪いから解き放たれるだけではなく、神さまの良い御業の始まりである、と言われるのです。過去の否定的な出来事に執着していた私たちの目は、一気に将来に向かいます。どんなところに生きたとしても、目の前には祝福が待っている、と。主にある者は、いつも希望をもって生きることができるのです。

    さて、この素晴らしい対話はどのようにして始まったのか。聖書は、弟子たちの問いではなく、主はご覧になられたことが始まりであったと語ります。問う弟子に先立って、主はご覧になっている。一見人間が始めたかのように見えることごとも、その前にすでに主はご覧になっていてくださる、知っていてくださる。聖書はそう語るのだと思います。

    主は「通りすがりに」ご覧になられました。通りすがりとは、何かの目的に向かって歩んでいる途上という意味です。目的の重要性を考えれば、どうでもよい時間、無駄な時間です。しかし主は、そんな通りすがりにもすてきな出会いと御業をなしてくださいます。通りすがりの時間も主とともに歩む大切な時間です。

  • キリストの主権(2026年4月26日の週報より)

    「幸いなことよ すべて主に身を避ける人は」

    詩篇2編12節c

    幸いは、主に身を避けることによってやってくる、というのではなく、主に身を避ける人自身が幸いである、主に身を避けること自体が幸いなことである、と聖書は語るのだと思います。

    私たちは、私たちなりに、幸い、を思い描いています。健康で日々、苦しみなく過ごすことができれば幸いです。さまざまな戦いから守られ、平和に、そして平安に生きることができれば幸いです。その為に、主に祈り、信仰の道を前進しています。

    しかしそのような幸いは、いわゆる条件付きの幸いです。ひとたび健康が損なわれれば幸いでなくなります。経済的にも、さまざまな面においても問題がおこり、困窮し、戦いの中に置かれたならば、幸いでなくなってしまいます。

    そのような幸いだけを求めていくならば、いつもその幸いを満たす条件を求める人生となります。条件が整うか否かによって、浮き沈みの中に生きる人生となるのです。

    幸いとはなんであるのか。自分にとっての幸いとは何か。私たちは、ほんとうはそれを知らないのかもしれません。

    聖書は、「主に身を避ける人」こそ、幸いである、と語ります。問題のあるなしに関わらず、いつも主に身を避ける人。喜びのときには主に感謝をささげ、悲しみや苦しみのときには、また主に祈り、ゆだねる人。そうして主からの慰めと励まし、生きる力を見いだす人こそ、幸いであるのです。

    そのような「幸い」は、何があっても失われることがありません。イエスさまを信じる者は、そのような幸いに生きるようにと招かれています。

  • キリストに生きる(2026年4月19日の週報より)

    「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」

    ガラテヤ人への手紙6章15節)

    割礼とはユダヤ人であることの証明みたいなものなのだと思います。これがあるかないかはユダヤの人にとってはとても重要なことでした。いまもそうだと思います。

    イエスさまを信じた人たちの中にも、割礼の大切さを主張する人たちがいたようです。イエスさまを信じることはもちろん大切なことです。しかしそれとともに、割礼を受けることも大切なことであると言ったのです。ユダヤの人たちはもともと割礼を受けていましたから、イエスさまを信じてもあらためて割礼を受ける必要はありません。それに対してユダヤ人ではない人たち、すなわち異邦人たちがイエスさまを信じた場合は、イエスさまを信じることに加えて割礼を受けなければならないとしたのです。もしかしたらイエスさまを信じた者たちの間で、割礼を受けているかいないかで、格差が生まれていたのかもしれません。

    これに対してパウロは、そうではない、割礼を受けているか受けていないかは大事なことではない、と語りました。受けていてもいいし、受けていないならば、それでも何ら構うことはない、ということです。

    大事なことは、新しい創造、です。過去にどのような歩みがあったか、どんな経験をしたかは重要なことではありません。今からが大切です。私たちが信じた神さまは、創造主です。日々新しい創造をしてくださるお方なのですから、今日この時から新たに始めてくださる神さまの御業にあずかろうではないか、と語るのだと思います。

  • 復活の信仰(2026年4月12日の週報より)

    「火の中から語られる神の声を聞いて、あなたのようになお生きていた民があっただろうか。・・・主はあなたを訓練するため、天から御声を聞かせ、地の上では大いなるご自分の火を見せられた。その火の中から、あなたはみことばを聞いた。」

    申命記4・33、36

    訓練と聞くとあまりうれしい気はしないのですが、神さまは私たちを「子」として扱おうとしてくださいますので、愛するがゆえの訓練を神さまは私たちにお与えになるのだと思います。

    神さまは訓練するために、御声を聞かせて下さいました。御声を聞いてそれに従うという訓練かもしれませんし、御声を聞くことそのものの訓練かもしれません。聞いてはいてもそれを理解しない、それに従わないならば、それは聞いたことにはなりません。聞くということは、理解することであり、また従うことです。確かに聞くということ。そのことの訓練を神さまは私たちに与えられます。

    イエスさまを信じる者は、いつもこの訓練を受けています。礼拝において語られる御言葉を聞く。日々聖書に親しみながら、そこに語られている神さまの言葉を聞く。そうして信仰は養われていきます。

    神さまの言葉は、天から語られます。天を仰ぎ見る者に神さまは語ってくださいます。

    また神さまは火の中から語られます。この火を「山の頂を焼き尽くす火のよう」に見えた「主の栄光」(出エジプト24・17)であるとすれば、そこで語られた言葉は「十戒」ということになるでしょうか。

    主は私たちが幸せに歩むことを願っておられます。そのために語ってくださった御言葉を大切に聞く者でありたいと思います。

  • 復活の福音(2026年4月5日の週報より)

    「ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。」
    ルカ24・13~15

    二人の弟子たちが歩いています。主が十字架につかれたエルサレムをあとにして歩いています。ともに旅をした仲間たちをあとにして、遠く離れたエマオという村に向かって歩いています。

    エマオにはいったい何があるのか。二人にとってあの伝道の旅のあつい日々は過去のこととなったのでしょうか。

    二人は、道々「これらの出来事」について、そのすべてについて話しています。話さずにはいられない、論じ合わずにはいられないのです。足はエマオに向かっています。しかし彼らの心は依然、あの出来事、に締められています。

    そんな二人に主イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始めてくださいました。親しいイエスさまが一緒に歩いていてくださる、しかし彼らにはそれがイエスさまだとは分かりません。二人と見知らぬ人。三人の旅が続きます。やがてこの見知らぬ人が、愛するイエスさまであることを知るときがやってきます。

    主は私たちが知るよりもはるか以前に私たちを知り、私たちとともに歩んでくださいます。私たちがどのような状態、どのような状況にあろうとも、主は私たちとともに歩み続けてくださいます。私たちにもいつかかならず「私たちの心は内で燃えていたではないか」と告白する日がやってきます。

  • 主の苦難

    このことが起こったのは、預言者を通して語られたことが成就するためであった。
    「娘シオンに言え。
    『見よ、あなたの王があなたのところに来る。
    柔和な方で、ろばに乗って。
    荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」

    マタイ21章4,5節

    主は十字架に向かって進まれます。十字架にかけられることになる都エルサレムへ入城されます。その際主は、子ろばに乗って入城されたと聖書は語ります。

    王であれば軍馬がふさわしかったのかもしれません。しかし旧約聖書には、子ろばに乗って救い主はやってくると預言されています。主はそのとおりにエルサレムに入城されました。

    救い主とは、子ろばに乗ってやってこられる柔和なお方である、と聖書は語ります。

    力づくで私たちを支配されるお方ではなく、柔和で優しいお方なのです。ここに全人類の救い主の姿が鮮やかに記されています。