• 2026年10月18日(日)

    • 聖書: 出エジプト記25章31~40節
    • 説教題: 『純金の燭台』
    • 説教:河村三郎師(オンライン)
    • 新聖歌:
      • 16「いざやもろともに」
      • 336「日暮れてやみはせまり」
      • 312「日ごと主イエスに」
      • 274「この日は主イエスが造られた」
    • 暗唱聖句:「また、ともしび皿を七つ作る。ともしび皿は、その前方を照らすように上にあげる。」出エジプト記25章37節

今後の主日礼拝予定

今までの主日礼拝

  • 天の国のたとえ(2026年10月25日の週報より)

    天の国のたとえ

    マタイ13章24~30節

    「『それでは、私たちが行って毒麦を抜き集めましょうか。』
    しかし、主人は言った。『いや。毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時に、私は刈る者たちに、まず毒麦を集めて焼くために束にし、麦のほうは集めて私の倉に納めなさい、と言おう。』」(29,30)

    良い麦を期待して良い種を蒔いたにもかかわらず、悪い麦が育ってしまいました。悪い麦はどこからきたのか。「敵がしたことだ」と主は言われました。それで「私たちが行って毒麦を抜き集めましょうか」としもべは言いましたが、主はそのままにしておき、「収穫の時」にその峻別をしよう、と言われました。

    その理由は「毒麦を抜き集めるうちに麦(良い麦)も一緒に抜き取るかもしれない」でした。自分たちが毒麦であると見ても、もしかしたら良い麦かもしれない、ということでしょう。

    人生に起こる様々な出来事は、良いことか、それとも悪いことか。私たちは性急に判断し、ときに断罪したくなりますが、そのような人生に対する態度を戒めることばです。どのようなことでも、主の御手の中にありますから、私たちは主に御手にゆだねたいと思います。

    ここは天の御国のたとえが語られているところです。国は支配を意味します。神さまのご支配の中に生きる私たちは、あらゆることを最終的な審判のとき、あるいは最終的なさばき主である主にゆだねています。さばくこと、から自由にされているのです。

    投稿