カテゴリー: 今週の聖書

  • たがいに徳を高める(2026年6月21日の週報より)

    「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」

    第一コリント14章1節

    私たち人間は、愛のない異言や預言を語り、愛のない信仰を持ち、愛のない施しをし、愛のない殉教の死を遂げることができてしまいます(第一コリント13章1~3節)。愛があるかないか、それが問題です。何をするかも大切ですが、何をするにも愛があるかどうか、が大切です。愛がなければ、どんなに立派に見えることであっても意味がありません。何の役にも立たないのです。しかし愛があるならば、どんなに小さなことであっても、意味があります。また必ず役に立ちます。

    ひたすら愛を追い求めましょう。愛は追い求めるものです。捕らえ切ることができた、というものではありません。漕ぎ続けているならば倒れることのない自転車のように、愛を追い求めているならば、私たちは人生に倒れてしまうことがありません。逆に、捕らえ切ったとして追い求めることを止めてしまったならば、倒れてしまいます。人生に生きることができなくなってしまいます。

    愛を追い求めることは、御霊の賜物を求めることです。さまざまにある御霊の賜物の中で、特に預言すること、今日でいうならば、み言葉の勧めをすることを、熱心に追い求めましょう。

    み言葉の勧めをすること。み言葉によって誰かを勇気づけたり励ましを与えたりしたいと思います。聖書の言葉は、神さまのお言葉ですから、必ず人を慰める力を持っています。聖書そのものの持つ力に信頼して、み言葉を宣べ伝えましょう。

  • 神の家(2026年6月14日の週報より)

    ヤコブは兄エサウの手から逃れるために故郷を離れハランへと向かいました。「ある場所」にたどり着き一夜を明かします。石を枕に横になりました。夢を見ました。地と天を結ぶはしごを神の使いたちが上り下りしている夢です。そして主の御声を聞きます。

    「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

    創世記28章13~15節

    神さまから祝福のお約束をいただきました。眠りから覚めたヤコブは、ここは神の家に他ならないと畏れを抱き、そこに石の柱を立て油を注ぎ、その場所を「ベテル」(神の家)と名付けました。

    神さまがともにいてくださる、そして祝福を成し遂げてくださる。神さまはその約束を成し遂げるまで、決して私を見捨てることがない。このお言葉さえ確かに握りしめているならば、私たちの人生も大丈夫なのだと思います。

    ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」

    創世記28章16節

    眠りから覚めたヤコブは、ここに神さまはおられる、なのに、私はそれを知らなかった、と畏れました。本来、神さまはいつもともにいてくださいます。しかしその神さまが見えない。そんなヤコブに神さまはお出会いくださいました。日が沈みひとり枕したとき、主は不思議な方法でご自身を現してくださったのです。ひとり静かに横になることは大切なことかもしれません。

    2026年6月14日(日)の週報より

  • 決断(2026年6月7日の週報より)

    「しかし、神の人よ。あなたはこれらのことを避け、義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさい。」

    第一テモテ6章11節

    牧師であるテモテを、パウロは「神の人」と呼びます。神さまに仕える人、神さまがその御手の中に握りしめていてくださる人、神さまのものとされている人。私たちイエスさまを信じる者は、すべて神の人と呼ばれてもよいのだと思います。主にある者はみな神の人です。

    これらのことを避けよ、とパウロは語ります。これらのこと、とはこの場合前節までに記されている金銭を愛すること、欲望のままに求めることです。衣食があればそれで満足せよとパウロは語りました。

    義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和、を追い求めよ、とパウロは語ります。六つの言葉が三つずつ組みになって書かれているのですが、原文でもこのような書き方がされています。義と敬虔と信仰、そして愛と忍耐と柔和、はそれぞれセットなのかもしれません。神さまとの正しい関係が築かれてこそ敬虔に生きることができ信仰に生きることが可能となる。あるいは神さまとの関係のない敬虔さや柔和さはほんとうの敬虔さ、柔和とは言えない。また愛があって忍耐も柔和も生きてくる。愛がなくては忍耐はいたずらな我慢であり、柔和も愛がないなら生きる力に結びつかない。

    義、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和。これらを追い求めよというのですから、これらは追い求めるものなのだと思います。人生において完了するものではなく、生きる限り追い求めるもの。自転車は漕ぐのを止めるとぱたんと倒れてしまいます。それを同じように、完了したとして追い求めることを止めてしまうならば、人生がストップしてしまう。生きているということは成長し続けるということです。完成は主の再臨のときであることを見失うことなく、日々追い求めていく者でありたいと思います。

    2026年06月07日(日)週報より

  • 教会の交わり(2026年5月31日の週報より)

    「そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」

    (使徒2章46~47節)

    聖霊降臨の日。ペテロは12人を代表するかのように立ち上がって説教を始めました。そのペテロのことばを受け入れた人びとは洗礼を受けました。その数が三千人ほどであった(41節)といいますから、驚くべき前進です。こうしてイエスさまを信じた人たちは一つになって教会生活を送りました。

    聖書は、人が救われることを「仲間に加えられた」(41)、「一つにしてくださった」(47)と語ります。信仰を持った者たちが便宜上一人でいるよりも大勢でいる方がいい、ということで一つになり仲間を組んだのではありません。神さまが一つにしてくださったのです。信仰を持つ、ということは、仲間になり一つとされる、ということなのです。

    信仰は、神さまとの一対一の約束です。だれも介入することのできない個人による自律的決断です。たとえば親が信仰を持っているから自動的に信仰をもっているというようなことではありません。お腹が空いたとき、誰かに代わりに食事をしてもらっても自分のお腹が満たされることはありません。自分が信じなければならないのです。

    しかしだからといって信仰は個人主義的なものではありません。必ず仲間の中に加えられる、そうして一つになる、ということが伴います。

    イエスさまを信じる信仰は、愛に生きる信仰です。愛は一人では成り立ちません。私たちは主と深く交わり愛を学ぶとともに、兄弟姉妹との交わりの中へ遣わされます。そこで愛が働き成長します。その交わりこそ教会です。キリスト教信仰において、教会はなくてはならないものなのです。

  • 聖霊に満たされる(2026年5月24日の週報より)

    「すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。・・・この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。」

    (使徒2章4~8節)

    世界にはさまざまな国がありそれぞれに言葉があります。ある資料では七千以上の言葉があるそうです。しかし人間が神さまに造られたとき、最初は一つでした。

    この世界にたくさんの言葉がある原因を、聖書はバベルの塔の出来事によって説明しています(創世記11章)。人間は一つの共通の言葉であったことで高慢になり神のようになろうとしました。それをご覧になられた神さまが、言葉を混乱させ、互いの話し言葉が通じないようにされたのです。言葉が通じないことによって高慢が砕かれ、神さまへの謙遜を生むことを期待されたのだと思います。しかし地に散らされた人間の歴史は、罪と混乱に満ちて行きました。神さまはそのような人間を回復するために御子イエスさまをこの地に遣わしてくださいました。

    イエスさまの福音は、破壊された世界を再創造します。主が遣わされた聖霊に満たされるとき、私たちは神さまの前に謙遜になります。そして互いに意思疎通ができるようになります。福音は互いの隔ての壁を打ち破る力を持っています。

    2026年5月24日のめぐみキリスト教会週報より

  • 聖霊を待ち望む (2026年5月17日の週報より)

    「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」

    (ヨハネの福音書14章26~27節)

    イエスさまは、私たちに平安を与えてくださいます。しかし、世が与えるのと同じようには与えないと、言われました。

    世が与える平安とイエスさまが与えようとしておられる平安とはどこがどのように違うのでしょうか。

    主は続いて、心を騒がせてはならない、ひるんではならない、と言われました。心を騒がせるような事態を迎える、ひるんでしまいそうになる現実に出会う、ということでしょう。そういう中にあっても心騒がせない、ひるまない生き方に招かれているのだと思います。

    世が与える平安は何の問題もないという平安なのかもしれません。しかし主が与えてくださる平安は、どのような問題の中にあっても失われることのない平安です。

    助け主、すなわち聖霊が遣わされる。聖霊は、すべてのことを教えてくださる。そして主が語られたことを思い起こさせてくださる、と主は語ってくださいました。

    イエスさまを信じる者に聖霊がともにいてくださいます。心騒ぐとき、ひるみそうになる時、主のお言葉を思い起こさせてくださいます。み言葉を思い起こすとき、あらゆる事態の中にあっても失われることのない平安に満たしていただけます。

  • よみがえりの主に出会う(2026年5月10日の週報より)

    「あなたは メルキゼデクの例に倣い とこしえに祭司である。」

    (詩篇110編4節)

    「メルキゼデク」は、アブラハムを祝福するためにやって来たサレムの王です(創世記14章18節以降)。ヘブル書7章をみると、平和(サレム)の王であり、義(ゼデク)の王(メルキ)であると書かれています。

    このような名前にふさわしい方は、イエスさまお一人だけです。義であり平和であるイエスさまは、ご自身がまことの祭司であり、また王であることを十字架と復活のみわざによって明らかにされました(ヘブル7章)。

    イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。このような方、敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。

    (ヘブル7章24~26節)

    平和の王、義の王であるまことの大祭司イエスさまは、私たちを完全に救うことができます。

    私たちの義と平和は、ときに相反することがあります。自分の義を主張することで平和が乱されます。大義のために戦いを起こします。逆に、平和を求めるあまり正義を見失います。不正義がはびこるような安逸をもとめます。いずれも救いとは遠く離れているように思います。

    イエスさまこそまことの義、まことの平和そのものです。私たちは、このイエスさまに生かされていきます。

  • 主のいましめ(2026年5月3日の週報より)

    「さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。」

    (ヨハネの福音書9章1節)

    盲目で生まれついたのは、だれが罪を犯したからか、この人か、それとも両親か、と弟子たちは問いました。主イエスは、この人が罪を犯したのでもなく、両親でもない。この人に神のわざが現れるためである、と答えられました。私たちはこの主のお言葉にどんなに深い慰めをいただくことでしょう。因果応報、罪の結果の病や苦しみ、という呪いともいえる考え方から完全に解放されました。ここに聖書の語る真理があります。

    それだけではありません。「神のわざが現れるため」と主は言われます。呪いから解き放たれるだけではなく、神さまの良い御業の始まりである、と言われるのです。過去の否定的な出来事に執着していた私たちの目は、一気に将来に向かいます。どんなところに生きたとしても、目の前には祝福が待っている、と。主にある者は、いつも希望をもって生きることができるのです。

    さて、この素晴らしい対話はどのようにして始まったのか。聖書は、弟子たちの問いではなく、主はご覧になられたことが始まりであったと語ります。問う弟子に先立って、主はご覧になっている。一見人間が始めたかのように見えることごとも、その前にすでに主はご覧になっていてくださる、知っていてくださる。聖書はそう語るのだと思います。

    主は「通りすがりに」ご覧になられました。通りすがりとは、何かの目的に向かって歩んでいる途上という意味です。目的の重要性を考えれば、どうでもよい時間、無駄な時間です。しかし主は、そんな通りすがりにもすてきな出会いと御業をなしてくださいます。通りすがりの時間も主とともに歩む大切な時間です。

  • キリストの主権(2026年4月26日の週報より)

    「幸いなことよ すべて主に身を避ける人は」

    詩篇2編12節c

    幸いは、主に身を避けることによってやってくる、というのではなく、主に身を避ける人自身が幸いである、主に身を避けること自体が幸いなことである、と聖書は語るのだと思います。

    私たちは、私たちなりに、幸い、を思い描いています。健康で日々、苦しみなく過ごすことができれば幸いです。さまざまな戦いから守られ、平和に、そして平安に生きることができれば幸いです。その為に、主に祈り、信仰の道を前進しています。

    しかしそのような幸いは、いわゆる条件付きの幸いです。ひとたび健康が損なわれれば幸いでなくなります。経済的にも、さまざまな面においても問題がおこり、困窮し、戦いの中に置かれたならば、幸いでなくなってしまいます。

    そのような幸いだけを求めていくならば、いつもその幸いを満たす条件を求める人生となります。条件が整うか否かによって、浮き沈みの中に生きる人生となるのです。

    幸いとはなんであるのか。自分にとっての幸いとは何か。私たちは、ほんとうはそれを知らないのかもしれません。

    聖書は、「主に身を避ける人」こそ、幸いである、と語ります。問題のあるなしに関わらず、いつも主に身を避ける人。喜びのときには主に感謝をささげ、悲しみや苦しみのときには、また主に祈り、ゆだねる人。そうして主からの慰めと励まし、生きる力を見いだす人こそ、幸いであるのです。

    そのような「幸い」は、何があっても失われることがありません。イエスさまを信じる者は、そのような幸いに生きるようにと招かれています。

  • キリストに生きる(2026年4月19日の週報より)

    「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」

    ガラテヤ人への手紙6章15節)

    割礼とはユダヤ人であることの証明みたいなものなのだと思います。これがあるかないかはユダヤの人にとってはとても重要なことでした。いまもそうだと思います。

    イエスさまを信じた人たちの中にも、割礼の大切さを主張する人たちがいたようです。イエスさまを信じることはもちろん大切なことです。しかしそれとともに、割礼を受けることも大切なことであると言ったのです。ユダヤの人たちはもともと割礼を受けていましたから、イエスさまを信じてもあらためて割礼を受ける必要はありません。それに対してユダヤ人ではない人たち、すなわち異邦人たちがイエスさまを信じた場合は、イエスさまを信じることに加えて割礼を受けなければならないとしたのです。もしかしたらイエスさまを信じた者たちの間で、割礼を受けているかいないかで、格差が生まれていたのかもしれません。

    これに対してパウロは、そうではない、割礼を受けているか受けていないかは大事なことではない、と語りました。受けていてもいいし、受けていないならば、それでも何ら構うことはない、ということです。

    大事なことは、新しい創造、です。過去にどのような歩みがあったか、どんな経験をしたかは重要なことではありません。今からが大切です。私たちが信じた神さまは、創造主です。日々新しい創造をしてくださるお方なのですから、今日この時から新たに始めてくださる神さまの御業にあずかろうではないか、と語るのだと思います。