カテゴリー: 今週の聖書

  • この世と神の国(2026年10月18日の週報より)

    この世と神の国

    ルカの福音書12章22~34節

    「草花がどのようにして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装ってはいませんでした。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、どんなに良くしてくださることでしょう。・・・小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。」
    (27~32)

    栄華を極めたソロモンと道ばたに咲いた一つの花。どちらが美しいのか。イエスさまは、一つの花こそ美しい、その美しさは栄華を極めたソロモンでさえも及びもつかないものである、と言われました。果たして私たちはこのような視点をもっているでしょうか。この世はむしろソロモンこそ美しいというのではないでしょうか。

    イエスさまを信じて生きることは、ソロモンよりも道ばたに咲いた一輪の花の美しさに心を躍らせる者となることです。新しい視点、新しい見方、新しい心をいただくことなのです。

    初代の教会は、当時の世界から見ればとても小さな群れでした。まさに小さな群れでした。しかし恐れることはないと主の励ましのことばを聞きました。どんなに小さな群れであっても、神さまは喜んで自分たちに御国を与えてくださると信じました。私たちも恐れることはありません。

  • 世界を一つに(2026年10月11日の週報より)

    世界を一つに

    ローマ10章5~13節

    9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
    10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

    罪びとである私たちは、本来はその罪のために死ぬべきものでした。しかし主イエスさまの十字架によって、その尊い犠牲によって救いの道がひらかれました。イエスさまを信じる者はみな救われるのです。何の行いもなく、ただ信じるだけで救われるのです。

    聖書はそのことを、「口でイエスを主と告白する」こと、また「心でイエスを死者の中からよみがえらせたと信じる」ことであると語ります。十字架の贖いを信じることは、イエスさまを私の主であると告白することであり、復活を信じることである、と語るのです。

    私が主であった人生から、イエスさまが主となってくださった人生に変えられたと告白すること。そして復活の主がともにいて下さり、私はそのお方の新しいいのちに生かされていると心で信じることです。

    主が身代わりとなってくださったので、私の罪は赦され天国への道が確かなものとされた。行いによるのではないから何をしていても救われているのだ、として自分の罪に開き直って生きるとすれば、ここでパウロが語る救いとは異質のものです。もし本当に主の十字架の贖いを信じたのであれば、このお方を主人として、新しいいのち、新しい生き方に生きるはずなのです。

  • 絶えず祈れ(2026年10月4日の週報より)

    絶えず祈れ

    第一テサロニケ5章16~18節

    16 いつも喜んでいなさい。
    17 絶えず祈りなさい。
    18 すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

    「絶えず祈りなさい」。絶えず、ということは、不断の、四六時中、ということですから、これは大変なことです。常に祈っていなければなりません。それで、比喩的にとらえることも無理のないことですが、しかし聖書はやはり「絶えず」と語るのですから、私たちはそのままを受け取らなければなりません。

    何かことが起こった時に、まずは祈るということが大切だと思います。私たちはすぐに行動に走ります。あるいはがっかりします。あきらめてしまいます。しかし、まずは祈りましょう。そうして主にゆだねつつ、主に期待しましょう。

    あるいは、祈りを、椅子に座って手を組んで目をつぶり、天のお父さま、と祈ることだけではなく、何をやっているときも、それを「祈り」とすることを考えてみてもよいのではないでしょうか。

    朝起きて歯を磨き顔を洗っている時も、それを主への祈りとする。食事をするときも、祈りをもって始めることではありますが、食する一口一口を祈りをもっていただく。自動車を運転している時も、それを主への祈りとする。労働の時も、学びの時も、さらには家族や友人たちとの語らいの時も、主がそこにともにいて下さことを思いながらその時を過ごす。そうして何をしている時も、あるいは何もしていないときでさえ、それを祈りとする。

    それは、いつも喜ぶことであり、またすべてのことにおいて感謝することでもあると思います。

  • 目を覚ましている(2026年9月27日の週報より)

    目を覚ましている

    ルカの福音書12章35~48

    腰に帯を締め、明かりをともしていなさい。主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている人たちのようでありなさい。帰って来た主人に、目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに言います。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばに来て給仕してくれます。(35~37)

    信仰生活は待ち望みの生活です。主が再び来られるのを待ち望んでいます。日々、ただ待つのではなく積極的に待ち望んでいます。

    ヘンリ・ナウエンは、「待ち望む人とは、いまこの瞬間を大切にし、この時に自分を置きます」と語りました。また「開かれた態度で信頼して待ち望む」とも語っています。

    主人がいつ帰ってこられるかを知らないので、常に目を覚まし待ち望んでいる人のように、今この時を目を覚まし、この瞬間を大切にし、今ここに自分を置き、しかも、結果、すなわちこののちどのようになるのかをすべて主にゆだね、どのような道であっても感謝をもって受け止められるように備えています。主の再臨を信じる私たちは、今この時を真実に大切に生きることができるのです。

    秋を迎え、彩り豊かな季節を迎えています。今与えられている「この時」「この瞬間」を味わいながら生きる、目を覚ました生き方に私たちは招かれています。

  • 主を知ること(2026年9月20日の週報より)

    主を知ること

    箴言1章7~19節

    「主を恐れることは知識の初め。
    愚か者は知恵と訓戒を蔑む。

    (箴言1章7節)

    知識、知恵、訓戒。

    罪びとである私たちにとっては、あまり歓迎したくない言葉かもしれませんが、それらは、この人生をより良く生きていくために大切なものです。キュウリの「手」のようなものだ、とある人はいいました。キュウリを「手」なしに育てると、つるは地面を這うようにのびるしかありません。支柱を立て、ネットを張って「手」を作り、それに這うように育てると、よい実が結ばれます。つるを支柱やネットでできた「手」に絡ませるためには、最初はやや強制的に結びつけることになります。しかしそのうち自分からしっかりと絡んでいきます。それと同じように、知識や知恵、訓戒は、私たちが人生においてよい実を結ぶために神さまが与えてくださるものです。窮屈に思えたり、自分を曲げなければならないこともありますが、それによって良い実が結ばれるのです。

    その知識の最初にあるもの、いわば土台は「主を恐れること」です。新共同訳や共同訳2018では「畏れる」という漢字が使われています。いたずらに恐怖するのではなく、うやまい大切にすること、愛することです。

    どのような知識であっても、まず主をおそれることを土台としてその上に積み上げます。そうして積み上げられた知識は、自分を生かし家庭を生かし社会を生かします。21世紀に生きる私たちはさまざまな知識に溢れた社会の中にいます、真実に祝福の実を結ぶ知識であるためには、その土台に神さまへの「おそれ」が問われなければなりません。

  • 主の大能(2026年9月13日の週報より)

    主の大能

    ルカの福音書7章11~15節

    「イエスが町の門に近づかれると、見よ、ある母親の一人息子が、死んで担ぎ出されるところであった。その母親はやもめで、その町の人々が大勢、彼女に付き添っていた。
    主はその母親を見て深くあわれみ、「泣かなくてもよい」と言われた。
    そして近寄って棺に触れられると、担いでいた人たちは立ち止まった。イエスは言われた。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」
    すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めた。イエスは彼を母親に返された。」(12~15)

    やもめ(伴侶を失った女性)はおそらく一人息子に大きな期待をいだき慰めをいただいていたことでしょう。その存在が失われました。この先どのように生きて行けばよいのか。その葬儀に出会われた主は、深くあわれまれ、その息子を生き帰らせてくださいました。希望の光がふたたび輝きだしました。なんと麗しい光景でしょう。私たちの主はいのちの主です。

    主は「泣かなくてもよい」と声をかけられました。泣くことはときに大切なことです。主もラザロが死んだとき涙を流されました。しかし絶望の涙で終わってしまうだけならば、希望はありません。私たち主にある者は、絶望の涙で終わる人生から希望に生きる者へと変えられました。

    主は若者に語りかけられました。主のことばは死者にさえ届きます。そしていのちを与えることができるのです。

    主は私に言われた。「これらの骨に預言せよ。『干からびた骨よ、主のことばを聞け。」(エゼキエル書37・4)

  • 主のいやし(2026年9月6日の週報より)

    主のいやし

    マルコ1章40~42節

    さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」
    イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。
    すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった。

    「ツァラアト」。かつては「らい病」と訳されていました。旧約聖書ヘブル語で「神に打たれた」「神罰」という意味ですので、らい病をはじめ特定の病名に翻訳すると、その病気が神罰の結果の病気と理解されてしまう恐れがあります。聖書では旧約聖書ヘブル語の発音のまま表記されることになったようです。

    「お心一つで」。すなわち、みこころならば、あなたが望んでくださるならば、私はきよくなることができるのです、と病に冒された人が主のまえにひざまずき懇願しました。それに対して主は深くあわれまれました。そして驚くべきことにその手を伸ばし触れてくださいました。「わたしの心だ。きよくなれ」。主のおこころはきよくなることだったのです。

    私たちは時々「みこころならば」と祈り願います。みこころであれば聞(効)かれるが、そうでないならばだめだ、と教えられていますので・・・。しかし主は大胆に「わたしの心は、あなたがきよくなることなのだよ」と語ってくださいました。私たちの主は、私がきよくなること、あるいは病が癒やされて健やかに生きることを誰よりもあつく願っていてくださるのです。

    みこころならば、と祈ってしまう私たちに、そんな気遣いは取り払って大胆に願ってくれないか、わたしとあなたの間柄ではないか、と親しく語ってくださっているようです。

  • 主に仕える人(2026年8月30日の週報より)

    主に仕える人

    第1列王記19章1~18節

    異教の神バアルを信奉するアハブ王の妻イゼベルは、バアルの預言者たちとの信仰の戦いに勝利した預言者エリヤを殺そうとします。それを知ったエリヤはイゼベルの手から逃げます。

    彼はそれを知って立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、自分は荒野に、一日の道のりを入って行った。彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。
    「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」

    「いのちを救うために立ち去った」先で祈った言葉が、「私のいのちを取ってください」でした。いのちを守りたいのか、それともいのちを捨てたいのか。生きたいのか、それとも死にたいのか。

    大きな苦しみに出会った時に、いっそのこと死んでしまいたい、と口から出てくるとすれば、それは死にたいと願っているのではなく、本当は生きたいと願っているのだと思います。

    そんなエリヤに、主は休息と食べ物を用意して下さいました。その後、山々を裂き、岩々を砕くほどの激しい大風がおきます。風の中にも、地震の中にも、火の中にも主はおられません。火の後に聞こえてきたかすかな細い声が聞こえてきました。エリヤはあらためて主に出会いました。

    エリヤは、主の用意して下さった食べ物と、火の後のかすかな細い主の御声に新しい力を得ました。それは私たちにも必要なものです。かすかな細い声を聞くために、自分自身の心に出てくるさまざまな雑音からしばらく距離を取り、心を静めたいと思います。

  • 祝福を受けた人(2026年8月23日の週報より)

    祝福を受けた人

    創世記45章1~15

    「神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。」(7,8節)

    父ヤコブに甘やかされて育った末息子のヨセフ。その言動は兄たちを不愉快にさせました。兄たちはヨセフを殺そうとします。長子ルベンによって死を免れたヨセフでしたが、兄たちによってエジプトに奴隷として売られてしまいました。

    ヨセフはエジプトでさまざまな苦労をします。やがて王の夢の解き明かしをしたことからエジプトの大臣となり、飢饉に襲われた地中海世界を救う働きをしました。一介の奴隷が一国の大臣となり世界を救ったのです。そのヨセフのもとに飢饉を逃れて父ヤコブと兄たちがやってきました。互いに思いがけない再会を果たすことになりました。

    兄たちはかつて自分たちがヨセフにした所業を思い出しヨセフを恐れます。しかしヨセフの唇から出た言葉は驚くべきことでした。「私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです」。恨んでも恨み切れないはずの兄たちに向かってヨセフは赦しを語ったのです。

    過去の苦しみの出来事は忘れようとしても難しいものです。ときに怒りに打ち震え人生を呪ってしまいます。しかしもし「神さまがそうされたのだ」と信仰を持つことができるならば、ゆるしへの道に進むことができるのではないかと思います。

  • 公平と正義(2026年8月16日の週報より)

    公平と正義

    イザヤ書1章24~31節

    シオンは公正によって贖われ、その町の立ち返る者は義によって贖われる。27節

    「贖われる」(あがなわれる)とは、罪を犯したことに対して代償していただくということです。キリストの十字架は神の贖いの御業です。私たちの罪は、神の子イエスさまのいのちをもってしか贖うことの出来ない大きなものでした。主の十字架は、私たちの罪の大きさを現しています。また神さまは御子を死なせてまでも私たちを贖いたいと願われました。主の十字架は、神さまの愛の大きさを現しています。私たちの罪の大きさと神さまの愛の大きさが現れているのが主の十字架なのです。私たちは十字架の主を仰ぎ見るとき、自らの罪の大きさと神の愛の大きさを学びます。

    その主は十字架ののち三日目に復活されました。今私たちとともにいてくださいます。私の罪のために肉が裂かれ死が流されたその主がともにいてくださいます。その主を前にして私たちは主の喜ばれる道を歩もうとの願いをいただきます。

    「公平」と「義」によって贖われる、とイザヤは語りました。主の十字架は神の公平と義の現れです。この「義」は新共同訳で「恵みの御業」と訳されていました。神の義と神の恵みは一つです。救いにあずかるということは、神さまとの正しい関係の中に入れていただき、神さまの恵みによって生かされていくことです。