キリストの主権

「幸いなことよ すべて主に身を避ける人は」

詩篇2編12節c

幸いは、主に身を避けることによってやってくる、というのではなく、主に身を避ける人自身が幸いである、主に身を避けること自体が幸いなことである、と聖書は語るのだと思います。

私たちは、私たちなりに、幸い、を思い描いています。健康で日々、苦しみなく過ごすことができれば幸いです。さまざまな戦いから守られ、平和に、そして平安に生きることができれば幸いです。その為に、主に祈り、信仰の道を前進しています。

しかしそのような幸いは、いわゆる条件付きの幸いです。ひとたび健康が損なわれれば幸いでなくなります。経済的にも、さまざまな面においても問題がおこり、困窮し、戦いの中に置かれたならば、幸いでなくなってしまいます。

そのような幸いだけを求めていくならば、いつもその幸いを満たす条件を求める人生となります。条件が整うか否かによって、浮き沈みの中に生きる人生となるのです。

幸いとはなんであるのか。自分にとっての幸いとは何か。私たちは、ほんとうはそれを知らないのかもしれません。

聖書は、「主に身を避ける人」こそ、幸いである、と語ります。問題のあるなしに関わらず、いつも主に身を避ける人。喜びのときには主に感謝をささげ、悲しみや苦しみのときには、また主に祈り、ゆだねる人。そうして主からの慰めと励まし、生きる力を見いだす人こそ、幸いであるのです。

そのような「幸い」は、何があっても失われることがありません。イエスさまを信じる者は、そのような幸いに生きるようにと招かれています。