「さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。」
(ヨハネの福音書9章1節)
盲目で生まれついたのは、だれが罪を犯したからか、この人か、それとも両親か、と弟子たちは問いました。主イエスは、この人が罪を犯したのでもなく、両親でもない。この人に神のわざが現れるためである、と答えられました。私たちはこの主のお言葉にどんなに深い慰めをいただくことでしょう。因果応報、罪の結果の病や苦しみ、という呪いともいえる考え方から完全に解放されました。ここに聖書の語る真理があります。
それだけではありません。「神のわざが現れるため」と主は言われます。呪いから解き放たれるだけではなく、神さまの良い御業の始まりである、と言われるのです。過去の否定的な出来事に執着していた私たちの目は、一気に将来に向かいます。どんなところに生きたとしても、目の前には祝福が待っている、と。主にある者は、いつも希望をもって生きることができるのです。
さて、この素晴らしい対話はどのようにして始まったのか。聖書は、弟子たちの問いではなく、主はご覧になられたことが始まりであったと語ります。問う弟子に先立って、主はご覧になっている。一見人間が始めたかのように見えることごとも、その前にすでに主はご覧になっていてくださる、知っていてくださる。聖書はそう語るのだと思います。
主は「通りすがりに」ご覧になられました。通りすがりとは、何かの目的に向かって歩んでいる途上という意味です。目的の重要性を考えれば、どうでもよい時間、無駄な時間です。しかし主は、そんな通りすがりにもすてきな出会いと御業をなしてくださいます。通りすがりの時間も主とともに歩む大切な時間です。