投稿者: megumi_pastor

  • 2026年5月31日(日)15時~16時

    • 聖書:使徒の働き2章29~36節
    • 説教題:「目にし、耳にしている聖霊」
    • 説教者:奥村拓也師(オンライン)
  • よみがえりの主に出会う

    「あなたは メルキゼデクの例に倣い とこしえに祭司である。」

    (詩篇110編4節)

    「メルキゼデク」は、アブラハムを祝福するためにやって来たサレムの王です(創世記14章18節以降)。ヘブル書7章をみると、平和(サレム)の王であり、義(ゼデク)の王(メルキ)であると書かれています。

    このような名前にふさわしい方は、イエスさまお一人だけです。義であり平和であるイエスさまは、ご自身がまことの祭司であり、また王であることを十字架と復活のみわざによって明らかにされました(ヘブル7章)。

    イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。このような方、敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。

    (ヘブル7章24~26節)

    平和の王、義の王であるまことの大祭司イエスさまは、私たちを完全に救うことができます。

    私たちの義と平和は、ときに相反することがあります。自分の義を主張することで平和が乱されます。大義のために戦いを起こします。逆に、平和を求めるあまり正義を見失います。不正義がはびこるような安逸をもとめます。いずれも救いとは遠く離れているように思います。

    イエスさまこそまことの義、まことの平和そのものです。私たちは、このイエスさまに生かされていきます。

  • 主のいましめ

    「さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。」

    (ヨハネの福音書9章1節)

    盲目で生まれついたのは、だれが罪を犯したからか、この人か、それとも両親か、と弟子たちは問いました。主イエスは、この人が罪を犯したのでもなく、両親でもない。この人に神のわざが現れるためである、と答えられました。私たちはこの主のお言葉にどんなに深い慰めをいただくことでしょう。因果応報、罪の結果の病や苦しみ、という呪いともいえる考え方から完全に解放されました。ここに聖書の語る真理があります。

    それだけではありません。「神のわざが現れるため」と主は言われます。呪いから解き放たれるだけではなく、神さまの良い御業の始まりである、と言われるのです。過去の否定的な出来事に執着していた私たちの目は、一気に将来に向かいます。どんなところに生きたとしても、目の前には祝福が待っている、と。主にある者は、いつも希望をもって生きることができるのです。

    さて、この素晴らしい対話はどのようにして始まったのか。聖書は、弟子たちの問いではなく、主はご覧になられたことが始まりであったと語ります。問う弟子に先立って、主はご覧になっている。一見人間が始めたかのように見えることごとも、その前にすでに主はご覧になっていてくださる、知っていてくださる。聖書はそう語るのだと思います。

    主は「通りすがりに」ご覧になられました。通りすがりとは、何かの目的に向かって歩んでいる途上という意味です。目的の重要性を考えれば、どうでもよい時間、無駄な時間です。しかし主は、そんな通りすがりにもすてきな出会いと御業をなしてくださいます。通りすがりの時間も主とともに歩む大切な時間です。

  • キリストの主権

    「幸いなことよ すべて主に身を避ける人は」

    詩篇2編12節c

    幸いは、主に身を避けることによってやってくる、というのではなく、主に身を避ける人自身が幸いである、主に身を避けること自体が幸いなことである、と聖書は語るのだと思います。

    私たちは、私たちなりに、幸い、を思い描いています。健康で日々、苦しみなく過ごすことができれば幸いです。さまざまな戦いから守られ、平和に、そして平安に生きることができれば幸いです。その為に、主に祈り、信仰の道を前進しています。

    しかしそのような幸いは、いわゆる条件付きの幸いです。ひとたび健康が損なわれれば幸いでなくなります。経済的にも、さまざまな面においても問題がおこり、困窮し、戦いの中に置かれたならば、幸いでなくなってしまいます。

    そのような幸いだけを求めていくならば、いつもその幸いを満たす条件を求める人生となります。条件が整うか否かによって、浮き沈みの中に生きる人生となるのです。

    幸いとはなんであるのか。自分にとっての幸いとは何か。私たちは、ほんとうはそれを知らないのかもしれません。

    聖書は、「主に身を避ける人」こそ、幸いである、と語ります。問題のあるなしに関わらず、いつも主に身を避ける人。喜びのときには主に感謝をささげ、悲しみや苦しみのときには、また主に祈り、ゆだねる人。そうして主からの慰めと励まし、生きる力を見いだす人こそ、幸いであるのです。

    そのような「幸い」は、何があっても失われることがありません。イエスさまを信じる者は、そのような幸いに生きるようにと招かれています。

  • 2026年5月24日(日)15時~16時

    • 聖書:マルコの福音書6章1~6節a
    • 説教題:「恵みはへりくだる者とともに」
    • 説教者:田中隆裕師
    • 暗唱聖句:マタイの福音書5章3節
  • 2026年5月17日(日)15時~16時

    • 聖書:出エジプト記20章13節
    • 説教題:「殺してはならない」
    • 説教者:河村三郎師(オンライン)
  • 2026年5月10日(日)15時~16時

    • 聖書:ヨハネの福音書14章15~21節
    • 説教題:「弁護者」
    • 説教者:奥村拓也師(オンライン)
    • 賛美(新聖歌):183、330,338、349
    • 暗唱聖句:ヨハネの福音書14章18節
  • 2026年5月3日(日)15時~16時

    • 聖書:ローマ人への手紙16章25~27節
    • 説教題:「隠されていた奥義の啓示」
    • 説教者:川﨑慎太郎
    • 賛美(新聖歌):9,16,19,385
    • 暗唱聖句:第二コリント4章14節

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  • キリストに生きる

    「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」

    ガラテヤ人への手紙6章15節)

    割礼とはユダヤ人であることの証明みたいなものなのだと思います。これがあるかないかはユダヤの人にとってはとても重要なことでした。いまもそうだと思います。

    イエスさまを信じた人たちの中にも、割礼の大切さを主張する人たちがいたようです。イエスさまを信じることはもちろん大切なことです。しかしそれとともに、割礼を受けることも大切なことであると言ったのです。ユダヤの人たちはもともと割礼を受けていましたから、イエスさまを信じてもあらためて割礼を受ける必要はありません。それに対してユダヤ人ではない人たち、すなわち異邦人たちがイエスさまを信じた場合は、イエスさまを信じることに加えて割礼を受けなければならないとしたのです。もしかしたらイエスさまを信じた者たちの間で、割礼を受けているかいないかで、格差が生まれていたのかもしれません。

    これに対してパウロは、そうではない、割礼を受けているか受けていないかは大事なことではない、と語りました。受けていてもいいし、受けていないならば、それでも何ら構うことはない、ということです。

    大事なことは、新しい創造、です。過去にどのような歩みがあったか、どんな経験をしたかは重要なことではありません。今からが大切です。私たちが信じた神さまは、創造主です。日々新しい創造をしてくださるお方なのですから、今日この時から新たに始めてくださる神さまの御業にあずかろうではないか、と語るのだと思います。

  • 復活の信仰

    「火の中から語られる神の声を聞いて、あなたのようになお生きていた民があっただろうか。・・・主はあなたを訓練するため、天から御声を聞かせ、地の上では大いなるご自分の火を見せられた。その火の中から、あなたはみことばを聞いた。」

    申命記4・33、36

    訓練と聞くとあまりうれしい気はしないのですが、神さまは私たちを「子」として扱おうとしてくださいますので、愛するがゆえの訓練を神さまは私たちにお与えになるのだと思います。

    神さまは訓練するために、御声を聞かせて下さいました。御声を聞いてそれに従うという訓練かもしれませんし、御声を聞くことそのものの訓練かもしれません。聞いてはいてもそれを理解しない、それに従わないならば、それは聞いたことにはなりません。聞くということは、理解することであり、また従うことです。確かに聞くということ。そのことの訓練を神さまは私たちに与えられます。

    イエスさまを信じる者は、いつもこの訓練を受けています。礼拝において語られる御言葉を聞く。日々聖書に親しみながら、そこに語られている神さまの言葉を聞く。そうして信仰は養われていきます。

    神さまの言葉は、天から語られます。天を仰ぎ見る者に神さまは語ってくださいます。

    また神さまは火の中から語られます。この火を「山の頂を焼き尽くす火のよう」に見えた「主の栄光」(出エジプト24・17)であるとすれば、そこで語られた言葉は「十戒」ということになるでしょうか。

    主は私たちが幸せに歩むことを願っておられます。そのために語ってくださった御言葉を大切に聞く者でありたいと思います。