投稿者: megumi_pastor
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祝福を受けた人(2026年8月23日の週報より)
祝福を受けた人
創世記45章1~15
「神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。」(7,8節)
父ヤコブに甘やかされて育った末息子のヨセフ。その言動は兄たちを不愉快にさせました。兄たちはヨセフを殺そうとします。長子ルベンによって死を免れたヨセフでしたが、兄たちによってエジプトに奴隷として売られてしまいました。
ヨセフはエジプトでさまざまな苦労をします。やがて王の夢の解き明かしをしたことからエジプトの大臣となり、飢饉に襲われた地中海世界を救う働きをしました。一介の奴隷が一国の大臣となり世界を救ったのです。そのヨセフのもとに飢饉を逃れて父ヤコブと兄たちがやってきました。互いに思いがけない再会を果たすことになりました。
兄たちはかつて自分たちがヨセフにした所業を思い出しヨセフを恐れます。しかしヨセフの唇から出た言葉は驚くべきことでした。「私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです」。恨んでも恨み切れないはずの兄たちに向かってヨセフは赦しを語ったのです。
過去の苦しみの出来事は忘れようとしても難しいものです。ときに怒りに打ち震え人生を呪ってしまいます。しかしもし「神さまがそうされたのだ」と信仰を持つことができるならば、ゆるしへの道に進むことができるのではないかと思います。
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公平と正義(2026年8月16日の週報より)
公平と正義
イザヤ書1章24~31節
シオンは公正によって贖われ、その町の立ち返る者は義によって贖われる。27節
「贖われる」(あがなわれる)とは、罪を犯したことに対して代償していただくということです。キリストの十字架は神の贖いの御業です。私たちの罪は、神の子イエスさまのいのちをもってしか贖うことの出来ない大きなものでした。主の十字架は、私たちの罪の大きさを現しています。また神さまは御子を死なせてまでも私たちを贖いたいと願われました。主の十字架は、神さまの愛の大きさを現しています。私たちの罪の大きさと神さまの愛の大きさが現れているのが主の十字架なのです。私たちは十字架の主を仰ぎ見るとき、自らの罪の大きさと神の愛の大きさを学びます。
その主は十字架ののち三日目に復活されました。今私たちとともにいてくださいます。私の罪のために肉が裂かれ死が流されたその主がともにいてくださいます。その主を前にして私たちは主の喜ばれる道を歩もうとの願いをいただきます。
「公平」と「義」によって贖われる、とイザヤは語りました。主の十字架は神の公平と義の現れです。この「義」は新共同訳で「恵みの御業」と訳されていました。神の義と神の恵みは一つです。救いにあずかるということは、神さまとの正しい関係の中に入れていただき、神さまの恵みによって生かされていくことです。
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地上に平和を(2026年8月9日の週報より)
地上に平和を
エレミヤ書29章1~9節
「家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために主に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』(5~7)
異邦人の国バビロンの侵略を受け国家的な危機を迎えたイスラエルに向かって、預言者ハナンヤが語りました。「神さまはバビロンの王のくびきを砕かれる」。私たちは神の国である。負けるはずがない。最後の一人になるまで戦おう。必ず祖国に帰還させてくださる。神さまを信じて戦おう。主が必ず勝利させてくださる。
それに対して預言者エレミヤは、ハナンヤの預言を偽預言であると否定し、すでにバビロンに連れていかれた人たちに向かって、ひたすら生きよ、生き延びよ、と語りました。
主にある者は戦いの道ではなく平和の道を求めます。かっこ悪くても生きる道を求めます。今生かされているところを主のみこころの場所と信じて生きる道を求めます。敵であってもその町のために平安を祈ります。その平安は自分たちに帰ってくることを信じて祈ります。家庭を大切にし落ち着いた生活をします。日々の小さな営みを大切にします。
平和への道は戦いによっては生まれません。まず自分自身が平安に生きることを大切にすることによって平和への道は生まれます。
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回心(2026年8月2日の週報より)
回心
使徒の働き9章1~9節
「ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。
『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。』」(3,4)サウロ(のちのパウロ)は、この日もキリスト者を迫害するためにダマスコに向かっていました。その途上で、復活の主イエスに出会い、回心しました。パウロはやがて伝道者となり、新約聖書27の書物のうち13の書物(手紙)を書きました。
キリスト教会ではイエスさまを信じることを、回心(conversion)と言います。同じ読みのことばに「改心」がありますが、それとは違うことばです。回心は方向変換のことです。いままでは神さま以外の方向を向いていたが、これからは神さまの方向を向いて生きて行こうと、方向を変えることです。
新約聖書に登場するキリスト者も、二千年のキリスト教会に生きたキリスト者たちも、今日生きる私たちも、おおよそイエスさまを信じたということは、この回心をしたということです。
よい人間になることも大切ですし、聖書やキリスト教の知識を得ることも大切ですが、たとえそれらが不十分であっても、回心は信仰において欠かすことの出来ないものです。
回心は突然にやってきます。人間の予測や予定、計画、そのようなことを越えて神さまの時はやってきます。私にも、愛する人びとにもやってきます。私たちはいつも期待をして祈ります。
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自然に現れた栄光(2026年7月26日の週報より)
自然に現れた栄光
聖書箇所:詩篇29編
主は ご自分の民に力をお与えになる。
主は ご自分の民を 平安をもって祝福される。生きていくにはさまざまな力が必要です。生命力、健康の力が必要です。精神力、気力も必要です。社会生活においては、人間関係の力、愛の力、経済力も必要でしょう。そして何よりも信仰の力が必要です。
力には持って生まれたものもあるでしょう。努力も必要かもしれません。運の力に恵まれるということもあるかもしれません。
聖書は、主が、私たち主を信じる者に力を与えてくださる、と語ります。私たちの信じる神さまは、私たちにさまざまな力を与えてくださるお方なのです。
神さまが与えてくださる力によって私たちは祝福されます。私たちを祝福する力とは、なによりも「平安」の力だと思います。平安があるかないか。それは小さなことではありません。どんなに力に満ちていても、もし平安がないならば、祝福されているとは言えません。
平安とよく似た言葉に「平和」があります。平安は私の内に戦いのない状態、平和は私と誰か、あるいは何かとの関係において戦いのない状態です。平和がおびやかされると平安を失います。心の中に深い平安があるならば、多少平和が乱されても生きることができるかもしれません。逆に平和があっても心の中に平安がなければ生きる力を失います。平和と平安。不思議な関係の中にあります。
平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5・9)