投稿者: megumi_pastor

  • 2026年9月6日(日)

    • 聖書:ルカの福音書4章23~30節
    • 説教題:「それでも、信じます!」
    • 説教者:川﨑慎太郎
    • 新聖歌:
      • 6「いざや 共に」
      • 7「主のみいつと」
      • 283「主よ わがそばをば」
      • 458「光の高地に」
    • 暗唱聖句: マルコ福音書9章24節
  • 主に仕える人(2026年8月30日の週報より)

    主に仕える人

    第1列王記19章1~18節

    異教の神バアルを信奉するアハブ王の妻イゼベルは、バアルの預言者たちとの信仰の戦いに勝利した預言者エリヤを殺そうとします。それを知ったエリヤはイゼベルの手から逃げます。

    彼はそれを知って立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、自分は荒野に、一日の道のりを入って行った。彼は、エニシダの木の陰に座り、自分の死を願って言った。
    「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」

    「いのちを救うために立ち去った」先で祈った言葉が、「私のいのちを取ってください」でした。いのちを守りたいのか、それともいのちを捨てたいのか。生きたいのか、それとも死にたいのか。

    大きな苦しみに出会った時に、いっそのこと死んでしまいたい、と口から出てくるとすれば、それは死にたいと願っているのではなく、本当は生きたいと願っているのだと思います。

    そんなエリヤに、主は休息と食べ物を用意して下さいました。その後、山々を裂き、岩々を砕くほどの激しい大風がおきます。風の中にも、地震の中にも、火の中にも主はおられません。火の後に聞こえてきたかすかな細い声が聞こえてきました。エリヤはあらためて主に出会いました。

    エリヤは、主の用意して下さった食べ物と、火の後のかすかな細い主の御声に新しい力を得ました。それは私たちにも必要なものです。かすかな細い声を聞くために、自分自身の心に出てくるさまざまな雑音からしばらく距離を取り、心を静めたいと思います。

  • 祝福を受けた人(2026年8月23日の週報より)

    祝福を受けた人

    創世記45章1~15

    「神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。」(7,8節)

    父ヤコブに甘やかされて育った末息子のヨセフ。その言動は兄たちを不愉快にさせました。兄たちはヨセフを殺そうとします。長子ルベンによって死を免れたヨセフでしたが、兄たちによってエジプトに奴隷として売られてしまいました。

    ヨセフはエジプトでさまざまな苦労をします。やがて王の夢の解き明かしをしたことからエジプトの大臣となり、飢饉に襲われた地中海世界を救う働きをしました。一介の奴隷が一国の大臣となり世界を救ったのです。そのヨセフのもとに飢饉を逃れて父ヤコブと兄たちがやってきました。互いに思いがけない再会を果たすことになりました。

    兄たちはかつて自分たちがヨセフにした所業を思い出しヨセフを恐れます。しかしヨセフの唇から出た言葉は驚くべきことでした。「私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです」。恨んでも恨み切れないはずの兄たちに向かってヨセフは赦しを語ったのです。

    過去の苦しみの出来事は忘れようとしても難しいものです。ときに怒りに打ち震え人生を呪ってしまいます。しかしもし「神さまがそうされたのだ」と信仰を持つことができるならば、ゆるしへの道に進むことができるのではないかと思います。

  • 公平と正義(2026年8月16日の週報より)

    公平と正義

    イザヤ書1章24~31節

    シオンは公正によって贖われ、その町の立ち返る者は義によって贖われる。27節

    「贖われる」(あがなわれる)とは、罪を犯したことに対して代償していただくということです。キリストの十字架は神の贖いの御業です。私たちの罪は、神の子イエスさまのいのちをもってしか贖うことの出来ない大きなものでした。主の十字架は、私たちの罪の大きさを現しています。また神さまは御子を死なせてまでも私たちを贖いたいと願われました。主の十字架は、神さまの愛の大きさを現しています。私たちの罪の大きさと神さまの愛の大きさが現れているのが主の十字架なのです。私たちは十字架の主を仰ぎ見るとき、自らの罪の大きさと神の愛の大きさを学びます。

    その主は十字架ののち三日目に復活されました。今私たちとともにいてくださいます。私の罪のために肉が裂かれ死が流されたその主がともにいてくださいます。その主を前にして私たちは主の喜ばれる道を歩もうとの願いをいただきます。

    「公平」と「義」によって贖われる、とイザヤは語りました。主の十字架は神の公平と義の現れです。この「義」は新共同訳で「恵みの御業」と訳されていました。神の義と神の恵みは一つです。救いにあずかるということは、神さまとの正しい関係の中に入れていただき、神さまの恵みによって生かされていくことです。

  • 地上に平和を(2026年8月9日の週報より)

    地上に平和を

    エレミヤ書29章1~9節

    「家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために主に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』(5~7)

    異邦人の国バビロンの侵略を受け国家的な危機を迎えたイスラエルに向かって、預言者ハナンヤが語りました。「神さまはバビロンの王のくびきを砕かれる」。私たちは神の国である。負けるはずがない。最後の一人になるまで戦おう。必ず祖国に帰還させてくださる。神さまを信じて戦おう。主が必ず勝利させてくださる。

    それに対して預言者エレミヤは、ハナンヤの預言を偽預言であると否定し、すでにバビロンに連れていかれた人たちに向かって、ひたすら生きよ、生き延びよ、と語りました。

    主にある者は戦いの道ではなく平和の道を求めます。かっこ悪くても生きる道を求めます。今生かされているところを主のみこころの場所と信じて生きる道を求めます。敵であってもその町のために平安を祈ります。その平安は自分たちに帰ってくることを信じて祈ります。家庭を大切にし落ち着いた生活をします。日々の小さな営みを大切にします。

    平和への道は戦いによっては生まれません。まず自分自身が平安に生きることを大切にすることによって平和への道は生まれます。