投稿者: megumi_pastor

  • 目を覚ましている(2026年9月27日の週報より)

    目を覚ましている

    ルカの福音書12章35~48

    腰に帯を締め、明かりをともしていなさい。主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている人たちのようでありなさい。帰って来た主人に、目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに言います。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばに来て給仕してくれます。(35~37)

    信仰生活は待ち望みの生活です。主が再び来られるのを待ち望んでいます。日々、ただ待つのではなく積極的に待ち望んでいます。

    ヘンリ・ナウエンは、「待ち望む人とは、いまこの瞬間を大切にし、この時に自分を置きます」と語りました。また「開かれた態度で信頼して待ち望む」とも語っています。

    主人がいつ帰ってこられるかを知らないので、常に目を覚まし待ち望んでいる人のように、今この時を目を覚まし、この瞬間を大切にし、今ここに自分を置き、しかも、結果、すなわちこののちどのようになるのかをすべて主にゆだね、どのような道であっても感謝をもって受け止められるように備えています。主の再臨を信じる私たちは、今この時を真実に大切に生きることができるのです。

    秋を迎え、彩り豊かな季節を迎えています。今与えられている「この時」「この瞬間」を味わいながら生きる、目を覚ました生き方に私たちは招かれています。

  • 主を知ること(2026年9月20日の週報より)

    主を知ること

    箴言1章7~19節

    「主を恐れることは知識の初め。
    愚か者は知恵と訓戒を蔑む。

    (箴言1章7節)

    知識、知恵、訓戒。

    罪びとである私たちにとっては、あまり歓迎したくない言葉かもしれませんが、それらは、この人生をより良く生きていくために大切なものです。キュウリの「手」のようなものだ、とある人はいいました。キュウリを「手」なしに育てると、つるは地面を這うようにのびるしかありません。支柱を立て、ネットを張って「手」を作り、それに這うように育てると、よい実が結ばれます。つるを支柱やネットでできた「手」に絡ませるためには、最初はやや強制的に結びつけることになります。しかしそのうち自分からしっかりと絡んでいきます。それと同じように、知識や知恵、訓戒は、私たちが人生においてよい実を結ぶために神さまが与えてくださるものです。窮屈に思えたり、自分を曲げなければならないこともありますが、それによって良い実が結ばれるのです。

    その知識の最初にあるもの、いわば土台は「主を恐れること」です。新共同訳や共同訳2018では「畏れる」という漢字が使われています。いたずらに恐怖するのではなく、うやまい大切にすること、愛することです。

    どのような知識であっても、まず主をおそれることを土台としてその上に積み上げます。そうして積み上げられた知識は、自分を生かし家庭を生かし社会を生かします。21世紀に生きる私たちはさまざまな知識に溢れた社会の中にいます、真実に祝福の実を結ぶ知識であるためには、その土台に神さまへの「おそれ」が問われなければなりません。

  • 主の大能(2026年9月13日の週報より)

    主の大能

    ルカの福音書7章11~15節

    「イエスが町の門に近づかれると、見よ、ある母親の一人息子が、死んで担ぎ出されるところであった。その母親はやもめで、その町の人々が大勢、彼女に付き添っていた。
    主はその母親を見て深くあわれみ、「泣かなくてもよい」と言われた。
    そして近寄って棺に触れられると、担いでいた人たちは立ち止まった。イエスは言われた。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」
    すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めた。イエスは彼を母親に返された。」(12~15)

    やもめ(伴侶を失った女性)はおそらく一人息子に大きな期待をいだき慰めをいただいていたことでしょう。その存在が失われました。この先どのように生きて行けばよいのか。その葬儀に出会われた主は、深くあわれまれ、その息子を生き帰らせてくださいました。希望の光がふたたび輝きだしました。なんと麗しい光景でしょう。私たちの主はいのちの主です。

    主は「泣かなくてもよい」と声をかけられました。泣くことはときに大切なことです。主もラザロが死んだとき涙を流されました。しかし絶望の涙で終わってしまうだけならば、希望はありません。私たち主にある者は、絶望の涙で終わる人生から希望に生きる者へと変えられました。

    主は若者に語りかけられました。主のことばは死者にさえ届きます。そしていのちを与えることができるのです。

    主は私に言われた。「これらの骨に預言せよ。『干からびた骨よ、主のことばを聞け。」(エゼキエル書37・4)

  • 主のいやし(2026年9月6日の週報より)

    主のいやし

    マルコ1章40~42節

    さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」
    イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。
    すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった。

    「ツァラアト」。かつては「らい病」と訳されていました。旧約聖書ヘブル語で「神に打たれた」「神罰」という意味ですので、らい病をはじめ特定の病名に翻訳すると、その病気が神罰の結果の病気と理解されてしまう恐れがあります。聖書では旧約聖書ヘブル語の発音のまま表記されることになったようです。

    「お心一つで」。すなわち、みこころならば、あなたが望んでくださるならば、私はきよくなることができるのです、と病に冒された人が主のまえにひざまずき懇願しました。それに対して主は深くあわれまれました。そして驚くべきことにその手を伸ばし触れてくださいました。「わたしの心だ。きよくなれ」。主のおこころはきよくなることだったのです。

    私たちは時々「みこころならば」と祈り願います。みこころであれば聞(効)かれるが、そうでないならばだめだ、と教えられていますので・・・。しかし主は大胆に「わたしの心は、あなたがきよくなることなのだよ」と語ってくださいました。私たちの主は、私がきよくなること、あるいは病が癒やされて健やかに生きることを誰よりもあつく願っていてくださるのです。

    みこころならば、と祈ってしまう私たちに、そんな気遣いは取り払って大胆に願ってくれないか、わたしとあなたの間柄ではないか、と親しく語ってくださっているようです。

  • 2026年9月27日(日)

    • 聖書:マルコの福音書6章45~52節
    • 説教題: 「恐れることはない」
    • 説教者: 田中隆裕
    • 新聖歌:
      • 341「恐れなく近寄れ」
      • 251「主イエスの御側に」
      • 256「御翼のもとに」
      • 248「人生の海の嵐に」
    • 暗唱聖句:「イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。」(マルコの福音書6章50節)
  • 2026年9月20日(日)

    • 聖書:出エジプト記25章10~22節
    • 説教題:「あかしの箱」
    • 説教者:河村三郎(オンライン)
    • 新聖歌:
      • 21「輝く日を仰ぐとき」
      • 316「御言葉なる」
      • 259「聖いふみは教える」
      • 317「わが友主イエスは」
    • 暗唱聖句:「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(第一コリント1章18節)
  • 2026年9月13日(日)

    • 聖書:ルカの福音書21章5~19節
    • 説教題: 「髪の毛一本も失われない」
    • 説教者:奥村拓也師(オンライン)
    • 新聖歌: 
      • 8「七日の旅路」
      • 112「カルバリ山の十字架」
      • 256「御翼のもとに」
      • 464「汚れと争いは」
    • 暗唱聖句:「しかし、あなたがたの髪の毛一本も失われることはありません。」ルカの福音書21章18節