カテゴリー: 今週の聖書

  • 復活の信仰(2026年4月12日の週報より)

    「火の中から語られる神の声を聞いて、あなたのようになお生きていた民があっただろうか。・・・主はあなたを訓練するため、天から御声を聞かせ、地の上では大いなるご自分の火を見せられた。その火の中から、あなたはみことばを聞いた。」

    申命記4・33、36

    訓練と聞くとあまりうれしい気はしないのですが、神さまは私たちを「子」として扱おうとしてくださいますので、愛するがゆえの訓練を神さまは私たちにお与えになるのだと思います。

    神さまは訓練するために、御声を聞かせて下さいました。御声を聞いてそれに従うという訓練かもしれませんし、御声を聞くことそのものの訓練かもしれません。聞いてはいてもそれを理解しない、それに従わないならば、それは聞いたことにはなりません。聞くということは、理解することであり、また従うことです。確かに聞くということ。そのことの訓練を神さまは私たちに与えられます。

    イエスさまを信じる者は、いつもこの訓練を受けています。礼拝において語られる御言葉を聞く。日々聖書に親しみながら、そこに語られている神さまの言葉を聞く。そうして信仰は養われていきます。

    神さまの言葉は、天から語られます。天を仰ぎ見る者に神さまは語ってくださいます。

    また神さまは火の中から語られます。この火を「山の頂を焼き尽くす火のよう」に見えた「主の栄光」(出エジプト24・17)であるとすれば、そこで語られた言葉は「十戒」ということになるでしょうか。

    主は私たちが幸せに歩むことを願っておられます。そのために語ってくださった御言葉を大切に聞く者でありたいと思います。

  • 復活の福音(2026年4月5日の週報より)

    「ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。」
    ルカ24・13~15

    二人の弟子たちが歩いています。主が十字架につかれたエルサレムをあとにして歩いています。ともに旅をした仲間たちをあとにして、遠く離れたエマオという村に向かって歩いています。

    エマオにはいったい何があるのか。二人にとってあの伝道の旅のあつい日々は過去のこととなったのでしょうか。

    二人は、道々「これらの出来事」について、そのすべてについて話しています。話さずにはいられない、論じ合わずにはいられないのです。足はエマオに向かっています。しかし彼らの心は依然、あの出来事、に締められています。

    そんな二人に主イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩き始めてくださいました。親しいイエスさまが一緒に歩いていてくださる、しかし彼らにはそれがイエスさまだとは分かりません。二人と見知らぬ人。三人の旅が続きます。やがてこの見知らぬ人が、愛するイエスさまであることを知るときがやってきます。

    主は私たちが知るよりもはるか以前に私たちを知り、私たちとともに歩んでくださいます。私たちがどのような状態、どのような状況にあろうとも、主は私たちとともに歩み続けてくださいます。私たちにもいつかかならず「私たちの心は内で燃えていたではないか」と告白する日がやってきます。

  • 主の苦難

    このことが起こったのは、預言者を通して語られたことが成就するためであった。
    「娘シオンに言え。
    『見よ、あなたの王があなたのところに来る。
    柔和な方で、ろばに乗って。
    荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」

    マタイ21章4,5節

    主は十字架に向かって進まれます。十字架にかけられることになる都エルサレムへ入城されます。その際主は、子ろばに乗って入城されたと聖書は語ります。

    王であれば軍馬がふさわしかったのかもしれません。しかし旧約聖書には、子ろばに乗って救い主はやってくると預言されています。主はそのとおりにエルサレムに入城されました。

    救い主とは、子ろばに乗ってやってこられる柔和なお方である、と聖書は語ります。

    力づくで私たちを支配されるお方ではなく、柔和で優しいお方なのです。ここに全人類の救い主の姿が鮮やかに記されています。