礼拝説教から 2020年5月31日

  • 聖書箇所:使徒の働き11章1-18節
  • 説教題:聖霊による悔い改め

 ですから、神が、私たちが主イエス・キリストを信じたときに私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが、神がなさることを妨げることができるでしょうか。」人々はこれを聞いて沈黙した。そして「それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。(使徒の働き11章17-18節)

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 緊急事態宣言が解除されてから2週間が経ちました。滋賀県では感染の状況が落ち着いています。感染防止の対策に努めながらになりますが、来週は約2か月ぶりに集まって礼拝することができるのではないかと期待しています。

 今日は、教会独自のカレンダーである「教会暦」では、ペンテコステと呼ばれる日です。クリスマスやイースターは、日本社会の中で広く知られるようになっていますが、ペンテコステはまだまだ知られていないかも知れません。

 今から約二千年前、イエス様は過越の祭りというユダヤ人たちの大切な祭りに合わせて、十字架にかかられました。その過越の祭りから五十日後がペンテコステです。ペンテコステもまた、ユダヤ人たちの大切な祭りです。祭りの行われるエルサレムには、世界中に散らばっていたたくさんのユダヤ人たちが集まります。そのペンテコステの日に、イエス様を信じる弟子たちの上に聖霊が降りました。それはイエス様が弟子たちに約束されていた神様の霊でした。そして、その聖霊によって、イエス様を信じる人々の集まりは、新しい時代の教会となって現在に至っています。

 今日はペンテコステにちなんで、その聖霊について分かち合ってみたいと思います。今年は使徒の働き11章の前半部分を開きました。

 使徒の働き11章の前半部分は、その前の10章の出来事とつながっています。10章には、ユダヤ人たちから見ると、外国の人々に聖霊の降った出来事が描かれています。具体的には、コルネリウスというローマ帝国の百人隊長と、その親族たちや親友たちに聖霊が降った出来事です。今日の本文である11章は、その時の出来事について、ペテロがエルサレムでユダヤ人の仲間たちに説明をしている場面です。

 今日は、この使徒の働き11章の前半部分から、神様の御声に耳を傾けていくことができればと思います。

1.

 ペテロは、ユダヤ人の仲間たちに、神様がコルネリウスとその親族たちや親友たちに聖霊をお与えになった出来事について説明しました。そして、そのペテロの説明を聞いた人々は言いました。「それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」

 どういうことでしょうか。ペテロは神様が聖霊をお与えになったと言ったのではなかったでしょうか。しかし、ペテロの言葉を聞いた人々は、神様が聖霊をお与えになったことについて、神様が「いのちに至る悔い改めをお与えになった」と理解したわけです。

 そうすると、神様が聖霊を与えてくださるというのは、どういうことになるでしょうか。その一つの意味は、神様が命に至る悔い改めを与えてくださるということになるのではないでしょうか。神様が聖霊を与えてくださるというのは、神様が命に至る悔い改めを与えてくださることを意味しているということです。そして、聖霊は命に至る悔い改めを与えてくださる方だと言えるでしょう。

 ペテロの説明を聞いた人々は、神様が命に至る悔い改めをお与えになったと言っています。ただ単に、命をお与えになったと言っているのではありません。命ではなくて、命に至る悔い改めです。神様は命に至る悔い改めを与えてくださったのだということです。神様が悔い改めを与えてくださって、その悔い改めが命に至るのだということです。

 どうでしょうか。私は、神様が悔い改めをお与えになる、逆に言うと、私たちが悔い改めを受け取るというのは、何だか不思議なことだなぁと思います。なぜなら、悔い改めというのは、私たちがすることだからです。

 悔い改めというのは、何でしょうか。それは後悔ということではありません。また、反省ということでもありません。そうではなくて、方向転換ということを意味しています。神様の方に向き直るということです。神様の愛を拒み、神様からの語りかけを無視して、神様に背を向けていた自分の顔を、神様の方に向けるということです。そして、神様との正しい関係の中に生きるということです。あるいは、神様との正しい関係の中に生きることそのものが、悔い改めによって至る命と言ってもいいのかも知れません。

 しかし、どうでしょうか。悔い改めの意味が、後悔であれ、反省であれ、方向転換であれ、それは、いずれにしろ、私たちがすることではないでしょうか。悔い改めるのは私たちではないでしょうか。

 しかし、今日の本文に記されていることは、何でしょうか。それは、悔い改めもまた、神様から与えられるものだということです。聖霊によって与えられるものだということです。そして、それは、逆に言うと、聖霊が与えられなければ、神様の側からの働きかけがなければ、私たちは悔い改めることもできないということではないでしょうか。私たちは、聖霊によって教えられなければ、自分が悔い改めなければならない者であることにすら気づかないということです。あるいは、自分が悔い改めなければならない者であることにすら気づかないことそのものが、罪人である私たちの姿だと言えるのかも知れません。

 イエス様は十字架につけられた時に言われました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」イエス様は、ご自分を十字架につけた人々について、「自分が何をしているのかが分かっていない」のだと言われたということです。

 私たちが罪人であるというのは、どういうことでしょうか。それは、神様の前で自分のしていることが分かっていないということです。自分で自分の罪に気づくことができないということです。だからこそ、私たちは、自分が悔い改めるべき者であることに、自分では気がつかないということです。聖霊によって教えられなければ、私たちは悔い改めることもできないということです。

 悔い改めるというのは、確かに私たちがすることです。私たちの側でしなければならないことです。しかし、悔い改めるべきことが分かっていなければ、私たちは悔い改めることができません。自分が何をしているのかも分かっていない私たちには、悔い改めることができないということです。

 聖霊はそんな私たちに悔い改めを与えてくださいます。神様から顔を背けて生きる私たちの罪を教えてくださり、その罪の悔い改めを可能にしてくださいます。悔い改めて、神様と共に生きる者にしてくださいます。復活された御子イエス様は、私たちがその聖霊をいただいて、いつも聖霊に導かれて生きるために、天に帰られました。天から、私たちに聖霊を送ってくださいました。大切なことは、その聖霊によって、神様の前にある自分の姿をしっかりとみつめさせていただくことです。

 ペンテコステの今日、改めて、私たちが聖霊をいただいている恵みを感謝したいと思います。いつも聖霊に教えられながら、私たちを愛するが故に十字架にかかってくださった御子イエス様を見上げて、イエス様と共に生きる幸いを喜びたいと思います。そして、同じ聖霊の働きによって、悔い改めてイエス様と共に生きる方が、一人また一人と、教会に加えられることを、祈り求めていきたいと思います。

2.

 ペテロが、ローマ帝国の百人隊長であるコルネリウスの家で起こった出来事を、エルサレムの仲間たちに説明しているのは、救いの喜びを分かち合いたかったからではありません。その反対に、パウロは、同じユダヤ人の仲間から非難をされていたのであり、そのために弁解をしなければならなかったということです。そして、その原因は、ペテロが外国人たちと一緒に食事をしたことでした。

 旧約聖書の時代から新約聖書の時代に至るまで、ユダヤ人たちは外国人たちとの交わりを避けていました。一緒に食事をすることは禁じられていました。それは、ユダヤ人たちが、神様から与えられた律法の中で、そのように教えられていると理解していたからでもありました。ペテロ自身も、コルネリウスの使いの人々が自分の所に訪ねて来た時には、「外国人と交わったり、外国人を訪問したりすることは許されていません」と言っています。しかし、そうであるにもかかわらず、ペテロは、コルネリウスの家を訪問し、そこでイエス様の福音を語り、彼らに洗礼を授けました。なぜなら、ペテロは聖霊に導かれていたからであり、聖霊の働きを見ていたからです。神様ご自身の働きを見ていたからです。

 ペテロは、「どうして私などが、神がなさることを妨げることができるでしょうか」と言いました。どういうことでしょうか。それは、逆に言うと、ペテロが、神様のなさることを妨げることもあり得ることを意味しているのではないでしょうか。そして、実際に、ペテロを非難していたユダヤ人たちは、神様の働きを妨げてしまいそうになっていたのではないでしょうか。

 ペテロを非難したユダヤ人たちは、どうして神様の働きを妨げてしまいそうになったのでしょうか。それは、彼らが神様の御心とその働きを理解していなかったからではないでしょうか。そして、それは、彼らが神様のことをまったく知らなかったことを意味しているのではありません。むしろ、彼らは、ユダヤ人として、神様のことをよく知っていたのであり、神様の言葉をよく学んでいたと言えるでしょう。しかし、そうであるにもかかわらず、神様の御心と働きは、彼らの理解をはるかに越えていたということです。そして、自分たちの表面的な理解に拘りながら、自分たちの理解をはるかに越えた神様の働きを妨げてしまいそうになったということです。

 神様を信じているならば、誰も神様の御心を無視しようとは思わないでしょう。神様の働きを妨げようとは思わないでしょう。そうであるにもかかわらず、ペテロを非難したユダヤ人たちだけでなく、現在の私たちもまた、神様の働きを妨げてしまうことがあります。なぜなら、神様の御心と働きは、私たちの理解をはるかに越えているからです。私たちは、神様の言葉を聞いて学んでいるにもかかわらず、あるいは、私たちなりの小さな理解に拘ってしまうからこそ、神様のなさることを妨げてしまうことがあるということです。

 「幸いなことに」とでも言えるでしょうか。ペテロを非難していたユダヤ人たちは、最終的には、神様をほめたたえました。自分たちの小さな理解に拘るのではなくて、自分たちの理解をはるかに越えた神様の働きを認めて、神様をほめたたえました。そして、それは、ペテロを導かれた聖霊が、彼らの中においてもまた、同じように働いてくださったとしか言いようがありません。ペテロを非難していたユダヤ人たちは、聖霊によって、自分たちの小さな拘りが砕かれて、神様の大きな働きをそのままに受け入れたということです。

 私たちはどうでしょうか。聖霊に教えられながら、私たちの小さな理解をはるかに越えた神様の働きを見つめているでしょうか。分かったつもりになって、小さな理解に拘って、神様の働きを妨げる者になっていることはないでしょうか。

 イエス様が私たちに与えてくださった聖霊にいつも教えられたいと思います。私たちの小さな理解の中に神様の働きを押し込めてしまうのではなくて、聖霊が教えてくださるままに、私たちの理解をはるかに越えた神様の働きを見て受け入れる者でありたいと思います。そして、神様の働きを妨げる者ではなくて、神様の働きに用いられる者でありたいと思います。

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