礼拝説教から 2020年6月7日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙1章18-23節
  • 説教題:不義によって真理を阻んでいないか

 というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。(ローマ人への手紙1章18節)

0.

 先々週は1章16-17節を見ました。1章16-17節はローマ人への手紙全体のテーマが示された部分と言うことができるでしょう。それは、イエス様を信じるすべての人々に救いをもたらす神様の義が、福音の中に明らかにされているということです。私たち罪人は、自分の義、自分の正しさを主張することによってではなくて、福音の中に明らかにされた神様ご自身の義、神様ご自身の正しさをいただいて救われることができるということです。1章16-17節には、福音が福音である理由、福音が罪人である私たちに喜びをもたらす理由の核心が示されていると言ってもいいのかも知れません。

 しかし、今日の本文である18節以降の部分は、雰囲気が大きく異なります。そして、その原因は、パウロが、神様の怒りに触れているからであり、私たちの不義が描かれているからではないかと思います。

 今日は、ローマ人への手紙1章18-23節から、神様の御声に耳を傾けていきたいと思います。

1.

 新改訳2017では、18節からは新しい段落が始まることになっていますが、その冒頭には「というのは」という言葉があります。「というのは」というのは、前の文章の理由や根拠を、その後の文章で説明する時に使う言葉です。つまり、17節と18節はつながっているということです。

 パウロは、福音には神様の義が明らかにされていると言いました。神様の義は、イエス様を信じる人々に与えられて救いをもたらすものであり、この神様の義が明らかにされているからこそ、福音は福音なのだということです。そして、その神様の義が福音の中に明らかにされている理由を、パウロは18節で説明しているわけです。それは、「神の怒りが天から啓示されているから」だということです。つまり、福音に神様の義が明らかにされているのは、神様の怒りが天から明らかにされているからだということです。そして、その神様の怒りというのは、「不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して」のものだということです。神様は、「不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して」、天から怒りを明らかにしておられるということです。そして、だからこそ、神様は怒りを明らかにすると同時に、福音を与えてくださっているということです。信じるすべての人々に救いをもたらす福音、ご自分の義が明らかにされている福音を、私たちに与えてくださっているということです。あるいは、神様の怒りが天から明らかにされていることは、私たちが福音を必要としている根拠になっていると言ってもいいのかも知れません。

 それでは、神様の怒りの原因となっているもの、「不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義」というのは、何なのでしょうか。

 不敬虔というのは、簡単に言うと、神様を信じないことということになるでしょうか。それは、今日の本文の中の言葉を用いて表現するならば、神様を神様として崇めないということになるのかも知れません。神様の前で自分こそが知者である、賢い者であると主張しながら、自分こそが神であるかのように生きているということなのかも知れません。

 また、不義というのは、正しくないということです。注解書などを見ると、不義は人に対する罪と説明されたりもしていますが、不敬虔もまた、神様に対する私たちの態度が正しくないことであるならば、不義は、神様に対してのことも含めて、私たちが正しくないことだと言ってもいいのかも知れません。

 いずれにしろ、不敬虔や不義というのは、私たちが神様の前で正しくないということです。私たちが、神様を神様として認めないで、神様との正しい関係を損なっているということです。つまり、不敬虔と不義は、神様と私たちとの関係を損なうものだということです。そして、神様はそのような私たちの不敬虔と不義に対して、怒りを明らかにしておられるということです。私たちが神様との関係を軽んずることについて、神様はお怒りになる方だということです。

 神様がお怒りになる方だと言うと、どうでしょうか。もしかしたら、「そんなおっかない神様なんて、私には必要ない」というような方もおられるかも知れません。

 しかし、例えば、どんなことをしても、怒らない、ただニコニコしているだけだとすれば、どうでしょうか。どんなことをされても、怒ることもなく、ただニコニコしているだけだとすれば、それは、相手を愛していることになるのでしょうか。相手に関心があると言えるのでしょうか。むしろ、怒るのは、相手に関心があるからであり、相手との関係を大切にしているからだという場合もあるのではないでしょうか。実際に、福音書を見ると、真の神様であるイエス様もまた、怒りを明らかにしておられる場面が何度かあります。ノンクリスチャンの人々の間でも、イエス様は愛に満ちた方と考えられていると思いますが、そのイエス様も怒りを明らかにしておられることがあるわけです。

 神様は、私たちの不敬虔や不義に対して、怒りを明らかにしておられます。それは、神様が私たちとの関係を大切にしておられるということに他なりません。神様は私たちを愛しておられるということです。愛する私たちとの関係を大切にしておられるということです。私たちと互いに向かい合って、互いに愛し合って生きることを願っておられるということです。だからこそ、ご自分との関係を損なう私たちの不敬虔や不義に対しては、はっきりとノーを突き付けておられるということです。

 神様の怒り、それは、もしかしたら、私たちを脅すものになるかも知れません。「神様を信じなかったら、とんでもないことになるぞ」ということを示すものになってしまうかも知れません。しかし、そうではなくて、神様の怒りというのは、私たちとの関係を大切に思っていてくださる神様の愛の証しに他なりません。そして、神様の怒りが愛の証しであることは、御子イエス様の十字架によって明らかにされています。なぜなら、イエス様は私たちの代わりに十字架にかかってくださったからです。私たちが受けるべき神様の怒りを、イエス様が代わりに受けてくださったということです。神様は、私たちの不敬虔と不義に対する怒りを、私たちにぶつけるのではなくて、御子イエス様にぶつけられたということです。そして、イエス様を信じるすべての人々の不敬虔と不義が赦されて、ご自分と共に生きる道を開いてくださったということです。ご自分の愛に支えられて生きる道を開いてくださったということです。

 神様は、私たちとの関係が守られるために、御子イエス様を送ってくださいました。私たちを愛し、私たちとの大切な関係が守られるために、御子イエス様が十字架の上で私たちの不敬虔と不義を背負ってくださいました。その十字架のイエス様の前に立たせていただく時、私たちは、ご自分の御子を犠牲にしてまで、私たちとの関係を大切にしていてくださる神様の怒りと愛に気づかされるのではないでしょうか。そして、神様の怒りにおびえてではなくて、神様の愛の故に、心動かされて、神様を信じ受け入れる者となることができれば幸いです。

 神と呼ばれる存在は世界中にあります。パウロの時代の世界にもありました。私たちの生きる日本にもあります。しかし、そのどこに、ご自分の御子を犠牲にしてまで、私たちを大切にしてくださる神様がおられるでしょうか。私たちとの関係を大切にしてくださる神様がおられるでしょうか。

 今日の礼拝に集まった私たち一人一人、改めて、私たちを愛するが故に、私たちとの関係を大切にするが故に、私たちの不敬虔と不義に対して怒り、そして、御子イエス様を十字架にかけてくださった神様の愛を深く覚えたいと思います。そして、そのイエス様の愛の福音を大切にお届けしていきたいと思います。

2.

 神様の怒りの原因となっている不敬虔と不義は、「不義によって真理を阻んでいる人々」がしていることです。

 私は、この「不義によって真理を阻んでいる人々」について、いったい誰のことなんだろうかということを思いました。

 今日の本文全体を見る時、それは、神様を神様として崇めていない人々、神様の栄光を、「人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちに替えて」しまっている人々であることが分かります。それは偶像崇拝をしている人々ということになるでしょう。旧約聖書の時代から、神様を信じて生きてきたユダヤ人たちからすれば、自分たちの手で作り出した偶像の神々を信じる外国の人々ということになるでしょう。現在の私たちにとっては、ノンクリスチャンの人々ということになるのかも知れません。

 しかし、そうすると、どうなのでしょうか。今日の本文が、ただ単に、聖書の神様を信じないで、偶像崇拝をしている人々についてのみ指摘されたものであるとするならば、すでに神様を信じて教会に集まっている私たちにとっては、今日の本文は必要ない言葉ということになるのでしょうか。今日の本文は、ノンクリスチャンの人々がいかに愚かなことをしているのかを指摘するための言葉なのでしょうか。あるいは、百歩譲って、「かつては自分たちもそうだった」ということを思い出すための言葉なのでしょうか。決してそうではないのだということを思います。

 確かに、「不義によって真理を阻んでいる人々」というのは、直接的には、聖書の神様を信じていない人々のことになるのだと思います。

 しかし、どうでしょうか。私たちはイエス様の義をいただいて赦されることしかできない者であるのに、すぐに自分の義を頼みとしていることはないでしょうか。自分の義を誇ったり、逆に、誇るべき義がなくて落ち込んだりしていることはないでしょうか。そして、いずれにしろ、イエス様の義を頼みとしていないならば、それはイエス様の義を覆い隠しているわけです。そして、それは、「不義によって真理を阻んでいる」ことに他なりません。なぜなら、イエス様こそが真理だからです。

 パウロはローマの教会の人々に対しても、福音を伝えたいのだと訴えました。ローマに住むノンクリスチャンの人々、偶像崇拝をしている人々に対してだけではなくて、すでにローマの教会で信仰生活をしているはずの兄弟姉妹たちに対しても、福音を伝えたいのだと訴えたわけです。そして、そのことは、私たちにとって、福音がいつまでも必要だということを意味しています。福音の主人公であるイエス様は、信仰生活を始める時だけでなく、信仰生活を始めた後も、ずっと必要だということを意味しています。私たちは、最後まで福音の主人公であるイエス様の十字架の前に立ち続けなければならないということです。私たちは、自分の義を頼みとしながら一喜一憂するのではなくて、いつも十字架の前でイエス様の義を誇りとしながら生きていかなければならないということです。逆に言うと、イエス様の十字架から背を向けるなら、私たちはすぐに自分の義を頼みとするような者になってしまうということです。「不義によって真理を阻んでいる人々」になってしまうということです。そして、だからこそ、神様は、毎週日曜日の礼拝に、私たち一人一人を招いていてくださいます。私たちを愛するが故に、私たちとの関係を大切に考えていてくださるが故に、私たち一人一人を礼拝の場に招いていてくださるということです。

 私たちはどうでしょうか。信仰生活が進む中で、いつのまにか、イエス様の義ではなくて、自分の義を頼みとしながら、その不義によって真理を阻んでいるようなことはないでしょうか。

 毎週の礼拝の中で、十字架のイエス様を見上げたいと思います。そして、自分の義を頼みとする生き方ではなくて、イエス様の義を誇りとして、イエス様ご自身に支えられる生き方を選び取り続けていきたいと思います。

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