礼拝説教から 2022年7月24日

  • 聖書個所:マタイの福音書6章9-15節
  • 説教題:神様に養われて

 ですから、あなたがたはこう祈りなさい。↓ 『天にいます私たちの父よ。↓ 御名が聖なるものとされますように。↓ 御国が来ますように。↓ みこころが天で行われるように、↓ 地でも行われますように。↓ 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。↓ 私たちの負い目をお赦しください。↓ 私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。↓ 私たちを試みにあわせないで、↓ 悪からお救いください。』↓ もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

 

0.

 2月から、マタイの福音書5-7章、一般的に「山上の説教」と呼ばれる所を開いています。その真ん中の6章は、山上の説教の中心と言ってもいいでしょうか。そして、その中心の中心にあるのが、主の祈りです。イエス様が「こう祈りなさい」と教えてくださった祈り、それは山上の説教全体の中心と言ってもいいでしょう。

 改めて簡単にまとめてみると、イエス様は、「天にいます私たちの父よ」という呼びかけの後、六つの祈りを教えていてくださいます。そして、その六つの祈りというのは、前半部分と後半部分に分けることができます。

 前半部分は、「御名が聖なるものとされますように」、「御国が来ますように」、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」、この三つです。御名は神様の名前、御国は神様の国、御心は神様の意志です。私たちは、何よりもまず、神様に関することから祈ることが求められているということです。そして、それは、単なる順番である以上に、神様だけが栄光をお受けになる方であることを認め、私たちはその神様に栄光をお返しする者になるということです。先週と先々週はその神様に関する祈りを見てみました。

 今週は主の祈りの後半部分へと入っていきます。そして、その後半部分で教えられているのは、「私たち」の必要に関する祈りです。イエス様は、ただひたすらに、神様のことだけを見つめて祈ることを教えておられるのではありません。「自分の必要について祈るなんてのは、ご利益宗教と変わらない、くだらない」と言っておられるのではありません。そうではなくて、イエス様は、私たち自身の必要についても祈り求めることを教えていてくださるということです。

 今日は主にその一つ目の祈りを見ていきたいと思います。

 

1.

 「日ごとの糧」というのは、簡単に言えば、毎日の食べ物のことです。食べ物というのは、私たちが生きていくためには、なくてはならないものです。あるいは、食べ物は、私たちにとって、何よりも必要なものと言ってもいいのかも知れません。そして、それは、一日だけのことではありません。今日も明日も明後日も、来る日も来る日も、食べ物は必要だということです。私たちの人生において、大切なものや必要なものはたくさんありますが、何よりも必要なのは、食べ物だと言ってもいいでしょう。食べる物があってこそ、私たちは生きていくことができるわけです。そして、その何よりも必要な食べ物について祈り求めることを、イエス様は教えていてくださるということです。

 繰り返しになりますが、イエス様は、「日ごとの糧」を、今日も「お与えください」と祈るように教えてくださいました。「与えてください」です。

 どういうことでしょうか。それは、父なる神様こそが、日ごとの糧を、毎日の食べ物を与えてくださる方だということではないでしょうか。神様こそが、私たちが生きるために必要な毎日の食べ物を与えてくださる方だということです。それは、神様こそが、私たちの生活を根本的に支えていてくださる方だということを意味しています。

 とは言っても、それは、私たちが働かなくてもいいということを意味しているのではありません。「じっとしていても、神様が何でも与えてくださる、私たちは働かなくてもいい」ということではありません。毎週の礼拝を守って、熱心に聖書を学んで、熱心に祈って、熱心に伝道や奉仕をしていたら、働かなくてもいいということではありません。そうではなくて、私たちは働いて生きることが求められているということです。大人になれば、働いて、生活の糧を得て、生きていくことが求められているということです。もちろん、様々な事情の中で働くことができない場合があって、それは考慮されなければならないことですが、基本的に、私たちは、働いて、日ごとの糧を得て、生きることが求められているということです。あるいは、私たちは、自分の力で生きることが求められていると言ってもいいのかも知れません。そして、それは、とても大切なことです。

 しかし、そうであるにもかかわらずと言えるでしょうか。イエス様は、父なる神様に「日ごとの糧を、今日もお与えください」と祈るべきことを教えていてくださるということです。

 そして、イエス様が教えていてくださる通りに、神様こそが私たちの生活を根本的に支えていてくださる方であることを信じ受け入れて、その神様に生活のすべてを委ねることが、信仰を持って生きるということです。神様の根本的な支えの中で、誠実に働いて生きるということが、私たちの信仰生活です。

 「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」、それは、私たちの人生において、最も大きな問題、生きることそのものの問題を、神様に委ねることです。イエス様は、神様こそが私たちの生活を根本的に支えていてくださる父であることを信じて、その父なる神様に私たちの命を委ねることを、教えていてくださるということです。

 私たちはどうでしょうか。神様に「日ごとの糧」を与えてくださることを祈り求めているでしょうか。神様こそが私たちの生活を根本的に支えていてくださる父であることを信じ受け入れて、父なる神様に生活のすべてを委ねているでしょうか。反対に、神様を信じているとは言っていても、コロナやら戦争やらで、社会の状況がおかしなことになってくると、「やっぱり自分の生活は自分で何とかしなければならない」と思ったりすることはないでしょうか。あるいは、「自分の生活を支えているのは自分だ、自分は自分の力で生きている」などと、傲り高ぶっていることはないでしょうか。

 繰り返しになりますが、日々の生活が支えられるというのは、何よりも大切なことです。イエス様を信じて、罪が赦されて、確かな救いを受け取ったなら、食べて生きる問題なんてどうでもということではありません。ノンクリスチャンであろうと、クリスチャンであろうと、日々の生活が支えられる、食べて生きるというのは、何よりも大切な問題だということです。しかし、その食べて生きる問題を、神様に委ねるというのは、決して簡単なことではありません。なぜなら、私たちはすぐに不安になるからです。すぐに傲り高ぶるからです。あるいは、だからこそと言えるでしょうか。イエス様は、何よりも最初に、食べて生きる問題について祈ることを教えてくださったということではないでしょうか。

 ちなみに、イエス様は「今日もお与えください」と祈ることを教えていてくださいます。「今日も」です。

 どういうことでしょうか。それは「毎日」ということではないでしょうか。昨日、「今日もお与えください」と祈ったら、それでいいということではありません。そうではなくて、今日も明日も明後日も、「日ごとに」「今日もお与えください」と祈る必要があるということです。そして、それは、神様こそが私たちの生活そのものを根本的に支えていてくださる方であることを、「日ごとに」信じて告白することが求められているということです。昨日の信仰で、今日も明日もOKだということではありません。そうではなくて、私たちは、今日も明日も明後日も、来る日も来る日も、同じ信仰を告白して、私たちの生活を根本的に支えていてくださる神様に、食べて生きる問題を委ね続けていくことが求められているということです。

 今から20年ほど前になるでしょうか。私は、韓国で教会に導かれて、毎週の礼拝に集うようになりました。そして、その韓国で信仰生活をしていた頃、私にとって、何よりも大きな問題だったのは、他でもなく、生きることそのものでした。

 信仰生活を始めた頃、私は韓国の大学院で韓国文学を学んでいました。基本的に学生でした。大学院生という身分で韓国にいたのは6年か7年ほどになりますが、そのほとんどの期間、私はいつもお金の心配をしていました。「来学期の授業料が準備できない」、「来月の家賃がない」、「適当なアルバイトも見つからない」というような日々を、いつも過ごしていました。そして、食事は、一日に一食、大学の学食で、千ウォンを出して、日本円で言えば百円ほどを出して、ごはんとキムチとみそ汁だけ、あるいは、菓子パン一つだけというような状況が、何か月も続いたりすることもありました。今も会うたびに「また、痩せたんちゃう?」と言われることがありますが、その当時の私は、今とは比較にならないほどに痩せこけていました。骨と皮だけという感じでした。体はボロボロでした。

 大学院での勉強のこと、教会や宣教団体での奉仕のこと、いろいろな問題がありましたが、私にとって、何よりも問題だったのは、食べて生きることそのものでした。一日一日を生きることそのものが、私にとっては何よりの問題でした。イエス様が教えてくださった祈り、「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」というのは、まさに私のための祈りのようでした。

 私は、神様が必要の一切を与えてくださることを信じて祈っていました。来る日も来る日も、神様を信頼して祈ることが求められていました。しかし、正直な所、私は、祈りの中で、不安が完全に消えたというわけではありませんでした。「明日、家賃を払わなければならない、でもそのお金がない」という状況の中で、祈りながらも不安はあったわけです。「もう今月で最後やなぁ」ということを、何度思ったことでしょうか。

 しかし、不思議なことにと言えるでしょうか。父なる神様は、御子イエス様が教えてくださった祈りの通りに、そのまま答えてくださいました。大学院での勉強、教会や宣教団体での奉仕など、自分の願い通りにいかないことはたくさんありましたが、「日ごとの糧」が途絶えたことはありませんでした。出エジプトの民がマナによって養われたように、神様は私にも「日ごとの糧」を与え続けてくださいました。神様がすべての必要を満たしてくださいました。私は、自分の不信仰をいつも痛感させられるばかりでした。同時に、その不信仰な私を、不信仰ということで退けるのではなくて、父として支え続けてくださった神様の恵みに驚かされるばかりでした。

 出エジプトの民は、神様が荒れ野に降らせてくださったマナによって養われました。それは、奇跡のような出来事です。しかし、私の場合は、そのような奇跡が起こったということではありません。授業料や家賃を支払わなければならないそのぎりぎりの所で、空からお金が降ってきたということではありません。

 ちなみに、イエス様は、「私たちの日ごとの糧を」と教えられました。「私の日ごとの糧」ではありません。そうではなくて、「私たちの日ごとの糧」です。

 どういうことでしょうか。それは、主の祈りによって、私たちが祈り求めているのは、自分の個人的な必要だけではないということです。私たちは、自分一人の食べて生きる問題のためだけに祈っているのではなくて、私たち全体が食べて生きる問題のために祈っているのだということです。そして、その同じ信仰を持って祈る兄弟姉妹たちによって、韓国での私の生活は何とか支えられたということです。それは、空からマナが降ってくるような奇跡の出来事ではありませんでした。しかし、神様ご自身が働いていてくださったからこそ、実現した出来事でした。

 繰り返しになりますが、主の祈りの中で、「お与えください」と祈り求めるのは、「私たちの日ごとの糧」です。「私」ではなくて、「私たち」です。

 それでは、その「私たち」というのは、誰のことなのでしょうか。それは、基本的には、イエス様を信じている「私たち」ということになるでしょうか。しかし、少なくとも、食べて生きる問題に関しては、「私たち」というのは、イエス様を信じる「私たち」に限定する必要はないでしょう。それは、イエス様を信じている人だけではなくて、同じ世界に生きるすべての人と理解してもいいのではないでしょうか。世界には、「日ごとの糧」がなくて、生きることのできないたくさんの人がいるわけです。そして、主の祈りを祈る時、私たちは、その世界中の人々を覚えながら、「私たちの日ごとの糧」のために祈ることが求められていると言えるのかも知れません。

 私たちの生活はどうでしょうか。ギリギリの生活でしょうか。余裕のある生活でしょうか。いずれであるにしろ、大切なことは、食べて生きる問題そのものを、神様に委ねることです。そして、食べていくことのできない人々を覚えて、その日々の糧を、「私たち」の問題として、神様に祈り求めていくことです。

 毎週の礼拝の中で、日々の歩みの中で、主の祈りを祈りながら、神様こそが私たちの食べて生きる問題を根本的に支えていてくださる方であることを覚えたいと思います。その神様に私たちの食べて生きる問題を委ね続けていきたいと思います。そして、世界中の人々が、同じ父なる神様の恵みによって養われて生きることができるように、祈り求めていくことができればと思います。

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