礼拝説教から 2022年7月10日

  • 聖書個所:マタイの福音書6章9-15節
  • 説教題:御名が聖なるものとされるために

 ですから、あなたがたはこう祈りなさい。↓ 『天にいます私たちの父よ。↓ 御名が聖なるものとされますように。↓ 御国が来ますように。↓ みこころが天で行われるように、↓ 地でも行われますように。↓ 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。↓ 私たちの負い目をお赦しください。↓ 私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。↓ 私たちを試みにあわせないで、↓ 悪からお救いください。』↓ もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

 

0.はじめに

 マタイの福音書5-7章を開いています。「山上の説教」と呼ばれる所です。

 イエス様は、私たちの信仰生活における三つの善行、善い行いについて、気をつけるべきことを語っておられます。三つというのは、施し、祈り、断食です。先週から二つめの祈りについて見ていますが、三つの中で、祈りについては、他の二つよりも、はるかにたくさんのことが語られています。そして、それは、祈りが信仰生活の中心にあることを示していると言ってもいいのかも知れません。祈りは、私たちの信仰生活において、なくてはならないものであり、何よりも善い行いだと言えるでしょう。祈りを通して、神様と私たちとの関係は豊かなものにされていくということです。

 しかし、その善い行いであるはずの祈りにおいても、私たちは間違いを犯すことがあるということです。一つは、偽善者のように、他人に見せるために祈ることがあるということです。もう一つは、真の神様を知らない異邦人のように、言葉数が多いことで聞いてもらえると思って祈ることです。

 そして、その間違った祈りを踏まえてと言えるでしょうか。イエス様は、ご自分の説教を聞く人々に、「こう祈りなさい」と教えていてくださいます。イエス様は、祈り方を知らない弟子たちや群衆と呼ばれる人々、そして、現在の私たちに祈り方を教えてくださっているということです。私たちが一般的に「主の祈り」と呼んでいる祈りです。

 

1.

 主の祈りは、「天にいます私たちの父よ」という言葉から始まります。呼びかけの言葉です。祈りというのは、天におられる私たちの父に呼びかけることから始まるということです。

 私たちは祈ります。それは、クリスチャンだけではありません。クリスチャンであろうとなかろうと、すべての人は祈ります。何らかの形で祈っています。人というのは祈る動物と言ってもいいのかも知れません。他の動物が祈るのか祈らないのかを証明することはできませんが、人は祈ります。そして、それは、人が神様を求めているということです。人には神様が必要だということです。神様を求めて、人は祈るのだということです。

 しかし、その祈りの中で、はっきりと神様のことが分かっている人は、それほど多くはないわけです。多くの人は、祈ってはいても、誰に対して祈っているのかを、分かっていないということです。漠然と祈っていると言ってもいいのかも知れません。

 イエス様は、祈りの初めに、「天にいます私たちの父よ」と呼びかけることを教えてくださいました。私たちは、どこの誰かも分からない神様に向かって祈るのではないということです。

 クリスチャンとして、真の神様を知っている者として、祈りの相手がはっきりしているというのは、もしかしたら、当たり前のことなのかも知れません。しかし、実際には、それは、奇跡のようなことなのではないでしょうか。神様がどのような方であるのかを知って、その神様に狙いを定めて祈ることができるというのは、驚くべき恵みなのではないでしょうか。決してあり得ない恵みが与えられているということではないでしょうか。

 繰り返しになりますが、イエス様は、神様のことを「天におられる私たちの父」と呼ばれました。

 天というのは、私たちが決して辿り着くことのできない所です。今よりも科学が発達すれば、辿り着くことができるというような所ではありません。決して辿り着くことができない所です。目で見ることもできない所です。それが、神様のおられる天です。そして、神様が天におられるというのは、私たちにはその神様を知り尽くすことができないということに他なりません。あるいは、知り尽くすことができないからこそ、神様は神様なのだと言った方がいいのかも知れません。しかし、その神様を、私たちは同時に「私たちの父」と呼ぶことができるということです。

 どういうことでしょうか。私たちは、どうして天におられる神様のことを、「私たちの父」と呼ぶことができるのでしょうか。それは、神様の御子である主イエス様が、父なる神様と私たちの間を取り持ってくださったからに他なりません。神様の御子である主イエス様が、父なる神様の愛を明らかにしてくださったということです。神様の愛を拒んで、神様から離れた私たちの罪が赦されるために、私たちが、神様の子どもとして、父である神様の愛に支えられて新しく生きるために、イエス様は十字架の死と復活の御業を成し遂げてくださったということです。だからこそ、そのイエス様を主と信じる私たちには、御子イエス様と共に、天におられる神様を「私たちの父」と呼ぶ特権が与えられているということです。どこの誰かも分からない神様に向かってではなくて、天におられる神様を「私たちの父」と呼んで祈ることができるということです。父である神様から愛されていることを覚えながら、父である神様があらゆる必要を知っていてくださることを覚えながら、祈ることができるということです。

 「天にいます私たちの父よ」、それは、単なる呼びかけの言葉ではありません。そうではなくて、そこには、天におられる神様を「私たちの父」と呼ぶことのできる道を開いてくださった主イエス様の愛が込められています。あるいは、イエス様は命懸けで祈りを教えてくださったと言ってもいいのかも知れません。そして、毎週の礼拝の中で、私たちが共に主の祈りを祈る一つの意味は、そのイエス様の愛の故に、天におられる神様を「私たちの父」と呼んで祈ることのできる恵みを覚えることにあるのではないでしょうか。私たちは、主の祈りを祈りながら、御子イエス様の故に、天におられる神様を「私たちの父」と呼ぶことのできる恵みを覚えるのだということです。逆に言うと、「天にいます私たちの父よ」と呼びかけながら、そこに込められているイエス様の愛を見失うなら、主の祈りは、祈りではなくて、単なる呪文になってしまうと言えるのかも知れません。

 今から約五百年になりますが、宗教改革者のマルティン・ルターは、主の祈りのことを、「教会史上最大の殉教者」と言ったそうです。主の祈りは教会史上最大の殉教者だということです。なぜなら、主の祈りは、「唱えられるが、祈られることがない」からだということです。毎週のように祈りながら、あるいは、毎週のように祈るからこそと言った方がいいのでしょうか。私たちは、呪文のように主の祈りを唱えながら、主の祈りを殺してしまっているということです。

 私たちはどうでしょうか。

 神様のことを「天にいます私たちの父よ」と呼ぶことのできる恵みを覚えたいと思います。そして、唱えるのではなくて、祈る者でありたいと思います。

 

2.

 イエス様は、「天にいます私たちの父よ」と呼びかけた後、三つの祈りを教えてくださいました。

 何でしょうか。一つ目は「御名が聖なるものとされますように」、二つ目は「御国が来ますように」、三つ目は「みこころが天で行われるように、↩ 地でも行われますように」です。

 御名というのは神様の名前です。御国は神様の国、御心は神様の意志です。新約聖書の言語であるギリシア語の聖書では、「あなたの名前」、「あなたの国」、「あなたの意志」と表現されています。「私」ではなくて、「あなた」です。「あなたの名前」、「あなたの国」、「あなたの意志」です。

 繰り返しになりますが、イエス様は、直前の所で、二つの間違った祈り方を指摘しておられました。それは、偽善者のように祈ることと、異邦人のように祈ることでした。

 一つ目の偽善者のような祈り方というのは、他人に見せるために祈ることでした。自分の立派な信仰生活が他人から認められてほめられるために祈るということです。それは、神様ではなくて、人に向かって祈っているということであり、ほめられたい自分が中心にあるということです。

 二つ目の異邦人のような祈り方は、同じ言葉を何度も繰り返すことで、祈りが聞かれると思って祈ることでした。そして、そのような祈りの中で求めているのは、自分の必要に他なりません。自分の必要が満たされるために、自分の願いがかなえられるために、祈っているということです。同じように、自分が中心にあるということです。

 イエス様が指摘された二つの間違った祈り方、それは、いずれにしろ、自分が中心にあるということです。自分が認められることであり、自分の願いが叶えられることであり、自分が満足することです。そして、それは、神様を利用していることに他なりません。イエス様を拒んだユダヤ人たちも、イエス様に選ばれた弟子たちも、現在の私たちも、祈りにおいて、自分が中心になることがあり、その自分のために神様を利用しようとすることがあるということです。

 イエス様は、その私たちに教えてくださいました。それは、何よりもまず、神様を見上げることです。自分の願いを祈り求める前に、自分の必要を祈り求める前に、神様を見上げることです。

 もちろん、それは、単なる順番の問題ではないでしょう。先に神様に関することを祈って、その後に自分に関することを祈れば、それでオーケーだということではないわけです。そうではなくて、それは、自分が中心であることを止めるということです。単なる順番の問題ではありません。より根本的に、自分が中心であることを止めるということであり、自分の願いのために、自分の満足のために、神様を利用することを止めるということです。神様を自分の言いなりになる僕にしないということです。神様を神様とするということです。反対になった神様と私たちとの関係を、元に戻すということです。あるいは、だからこそと言えるでしょうか。私たちは、何よりもまず、「御名が聖なるものとされますように」と祈ることが求められているのではないでしょうか。

 それでは、御名が「聖なるもの」とされるというのは、どういうことなのでしょうか。それは、神様の御名が特別なものとして区別されるということです。そして、それは、神様ご自身が神様としてほめたたえられるということに他なりません。私たちが、自分の願いや満足のために、神様を利用するのではなくて、神様が神様であることを知り、神様を恐れて、その神様の前にひれ伏すことです。世界を造られた神様、世界を支配しておられる神様、その神様が、小さな私たち一人一人を愛していてくださる恵みを受け取りながら、ご自分の御子をさえも惜しまないで与えてくださるほどに愛していてくださる恵みを味わいながら、その神様を喜び続けていくことです。子どもとして、父なる神様に支えられて生きることです。だからこそ、神様を礼拝して、日々の生活の中で、神様に自分を明け渡して、神様に導かれて生きることです。

 繰り返しになりますが、イエス様は、「御名が聖なるものとされますように」と祈ることを教えてくださいました。「御名が聖なるものとされますように」です。

 どういうことでしょうか。それは、御名が聖なるものとされていないという現実を前提としています。御名が聖なるものとされていない現実があるからこそ、イエス様は「御名が聖なるものとされますように」と祈り求めることを教えてくださったということです。私たちが生きる世界において、神様は神様として受け入れられていないということです。神様が神様としてほめたたえられていないということです。そして、それは、神様を信じていない人々がいるということであり、同時に、神様を信じている私たちもまた、その生涯が御名を聖とするものに変えられていかなければならないということです。

 私たちの日々の歩みはどうでしょうか。御名を聖なるものとする歩みになっているでしょうか。御名をほめたたえる歩みになっているでしょうか。神様をほめたたえているようでいて、神様と私たちの立場が逆転してしまっているようなことはないでしょうか。

 「御名が聖なるものとされますように」、この祈りの中で、御名を汚すことしかできなかった罪人の私たちが、赦されて、御名のために生きる者に変えられた恵みを覚えたいと思います。御名のために生きる者として、毎週の礼拝から遣わされていきたいと思います。そして、その私たちの小さな歩みが、全世界で御名が聖なるものとされるために用いられることを、心から願います。

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